第十八曲 大きな白鳥たちの踊り (5)  ★BGM付

文字数 3,413文字

 聖トーマスのオルガンの調整を頼まれたけど作業見に来るか? と悪魔さんの誘惑を受けたので、時間を工面して駆けつけました。楽しみ。古い階段をぎしぎしさせながら登っていったら、彼はすでに仕事にかかっていました。リード管と呼ばれるクラリネット風の音を出す管の列はとくに狂いやすく、こまかなメンテナンスが必要なのだそうです。小さなとんかちみたいな道具で慎重に一本ずつ叩いて調整しては、音を見ています。この聖トーマスのオルガンのリード管は甲高すぎず、ごきげんな音色で、とても心地いいです。全体も優しくてひかえめで、聖シュテファンの巨大オルガンの圧倒的な華やかさとはまたちがって、ほがらか。
 やがて調整がぶじ終わったようなので、当然何か弾いてくれるものと思って待っていたら、すました顔で「じゃ帰ろうか」と言われました。
「冗談だ。そうがっかりするな、息子よ」
「だからまだお父さんとは呼んであげませんから。こういう意地悪するなら一生呼んであげませんから」
 一階に降りました。聖トーマスのつつましい静けさが好きです。あの《悲しみの聖母》のそばのベンチに座りました。若くて美人のマリアさま。心臓に刺さった七本の矢。血のしずくも、涙のしずくも、木で彫られてていねいに彩色されています。
 カタカタいう音がします。レジスタ(音色の調節ノブ)の調子をたしかめているんだな。
 聖堂内にはぼくしかいません。寒い。息が白い。長居すれば凍えるのは確実だけど、ディーディーを貸し切りだなんて、こんな贅沢な機会は逃がせません。自分の体をかかえるようにして、そっと息をひそめていました。
 かるく指慣らしでもするかなと思っていたら、いきなり始まった。
 バッハだ! パッサカリアとフーガ、ハ短調(ツェーモール)。BWV582。超難曲。
 それを、つぶやくように弾きこなしています。
 ロットバルト。
 それほど重低音にめぐまれない中規模のオルガンなのに、レジスタをたくみに組んで、息をのむような厚み。足鍵盤が、有名な低音主題をひたすらくりかえします。ひたすら。ピアノ編曲版とはくらべものになりません。ピアノだと、なんというか、苦悩を表現している、みたいになってしまうのです。オルガンはちがう。苦悩じゃない。
 苦痛です。
 作曲家の内面の声など、みじんも聞こえてこない。聞こえてくるのは足音です。とほうもない重荷を背負った足が、ひたすら、歩きつづける。そのぶあつい、はだしの足。その足の踏む、石の道。踏まれたところからいばらが生え、血の花を吹き、その花が瞬時に枯れて、また次の一歩。はてしない変奏。執拗なテーマ。この道を行くしかない。ペダルがふっと消えて、高い鍵盤でやわらかにつないだと思うと、また撃つようにペダルが戻ってくる。フーガ(※1)。先へ、ひたすら先へ。人間の足ではないのです。ただ歩む、それだけ。そして、終わる直前、一分前に、
 断ち切られる、
 フェルマータ(※2)。偽終止(ぎしゅうし)(※3)。二の和音の第一転回形、ナポリの六度(※4)。一度だけ、たった一度だけ、立ち止まる。身のすくむような瞬間です——いままでの歩みは、何だったのか。
 足もとの地面が割れて、深淵がのぞいている。片足が、その縁にかかっている。
 いままでの歩みに、何の意味があったのか。
 意味などない。
 終節(コーダ)(※5)へ。テーマはばらばらに分解され、手足の四声に散らされます。そしてアダージオ、引きのばされて、最後の和音——ピカルディの三度(※6)だ。えんえんと引きずられてきた短調が、一瞬、白く長調に輝いて燃え尽きるのです。あたかも、苦痛の極みは、そのまま至福であると言わんばかりに。
 終わった……。
 ことばも、ありませんでした。なぜ、よりによって、こんな曲を。こんな——魂の底から揺さぶるような曲を、わざわざ聴かせてくれなくたって、ぼくは——ぼくは——ずっと、あなたの長い旅路を思っていましたよ、ロットバルト。そのおちゃらけたふるまいの蔭に秘めた、孤独と、忍耐とを。泣かせないでください。これが——生きていくということなのですね。重荷と傷とを背負って、黙って、一歩一歩、ただ、ひたむきに。それでも、キリストが道行きの途中で、そっと額の血を拭いてくれる聖ヴェロニカに出会ったように、あなたも道の途中で、あなたのヴェロニカを見つけたんだ。それが、奥さまだったんですね。そして、やがてオデットが生まれて——
 ちょっと待った。
 


 オデット、ぼくより先に生まれてるよね。それも一年近く。
 待って。じゃ何。どういう計算。うちの父上と母上の婚約期間は一年くらいあったとは聞いているけど、その間にオデットの母上と出会って結婚して、オデット生まれちゃって? なにそれ、速すぎない? というかタイミングよすぎない? もっと前に出会ってた? つきあってた? まさか、もしかして、
 二股か?!
 コンソールへ駆け上がっていって問いつめたら、さすがに同時進行ではなかったそうなのですが、それにしても、うちの母に失恋した直後に、ずっと愚痴を聞いてもらっていたけんか友だちのお従妹さんとできちゃった結婚ってどういうこと。こいつ! 何が「暴力反対」だ、教会の中でなかったら血の雨だ。男のクズだろうそれ! あ、でも、そういえばぼくもクララと一回だけ、というか二回というか数えかたによるけど、でもあれはノーカンだから! ああ最悪! その指なし手袋、何ですか。まさか手袋はめたままあの難曲弾いてたんですか。本当信じられない。寒くないかって、寒いですよ。あたりまえでしょう。寒くて死にそう。飲みに行くかって、行きますよ当然、おごりなさい、命令。本当、感動して損した。音楽家ってひどい。人の魂を揺さぶる前に、あなたのその下半身をなんとかしなさいと言うんだ。もう信じるものか。決めた、あなたなんかに母上はさしあげません。だめ、そんなうるうるした目をしても。その手で何人落としてきたんですか。ぼくはだまされませんからね、もう二度と。ヤーパンにはドゲザという風習があるそうですよ、知ってますか。あなただって一度くらい、ぼくの前にはいつくばるがいいんだ。そしたら、ゆるしてあげます。



★BGM:バッハ「パッサカリア ハ短調」
https://www.youtube.com/watch?v=hzTTgb_CA5k
この方の演奏がとても好きです。レジストレーション(音色の選び方)も心に響きます。

※1 フーガは、いくつかの独立したパート(ソプラノ・アルト・テノール・バスなど)が同時に演奏され、それぞれのパートに同じ主題(メロディ)がくりかえし出てくる形式です。どのパートも主役になったり伴奏になったり、追いかけっこをする感じになります。すごく複雑で高揚感があります。

※2 フェルマータは「音符や休符をほどよくのばす」指示のしるしです。この「ほどよく」ってほんと適当。

※3 「終止」は、音楽の段落の終わりのことで、その終わりかたに何通りかあります。ちゃんと終わるのは「全終止」ですが、終わると見せかけて続いちゃうのが「偽終止」。短調のドレミで言うと、
全終止:ラドミ→レファラ→ミソ#シ→ラドミ(など)
偽終止:ラドミ→レファラ→ミソ#シ→ファラド(!)(など)
このびっくり感、ぼくはひそかにとても好きです。

※4 二の和音の第一転回形、ナポリの六度
超ややこしいので、また短調のドレミで言うと、
ラドミ→レファシ♭
渋い!! かっこいい!!(身もだえ。すみません、オタクで……。)
名前は「ナポリの人たちがよく使っていたから」という説があるそうです。あくまで「説」らしいです。

※5 コーダは、曲の最後にとくべつに作られた終わりの部分で、モーツァルトの「トルコ行進曲」の最後とか。フルコースの終わりのデザートがめちゃくちゃ充実しているみたいな、これは別腹!みたいな感じ。(失礼、この説明書いたときおなかすいてました。)

※6 ピカルディの三度は、ようするに、バロック音楽の曲で、ずっと短調で曲が進んできたのに、曲の最後の和音だけいきなり長調になって終わる終わりかたです。
ふっと明るくなって終わるので、ぼくは前から好きだったんだけど、最近になって、その理由が「自然の倍音は長調の和音になるから」、長調のほうがなんというか「めでたいから」、だったと知りました。なんだそれ。昔の人の考えかたって面白い。
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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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