第四曲 チャルダーシュ・前半(モデラート・アッサイ)(3)
文字数 1,486文字
「そうか」やっと口を開いたロットバルトの声は、温かくて、哀しくて、さっきのオルガンの低音と同じでした。「そうか」
その声、やめて。ほんと反則。もう、無理。がまんの限界。
「ぼくはあの人の息子にふさわしくありません」声を立てて泣いたのは、ひさしぶりでした。「結婚なんて。それ以前の問題です。天国の父上も地上の母上も喜ばせてさしあげたいし、国民の皆さまの期待にもこたえたい。そう思ってはいるんです。本当です。思っているから苦しいんです。他人の期待にこたえなさい、という教育を、されてきて、今度は、他人の期待にこたえながら、自分で選んで、自分で決めろと言われているんですよ。きついです。気がついたら、何も——感じなくなっていました。医者はメンタルブロックだって言いますが、だったらどうすればいいんだって話ですよ。どうすればいいですか。なんて訊かれても困りますよね。すみません、何を言っているか自分でもわからなくなりました」
「わかった」
ああ、温かい手だな……って、何? わかったって、「何が?」
両肩をしっかりつかまれ、目をのぞきこまれました。
「とりあえず、国民代表として言わせてもらう。おれが代表じゃ心もとないだろうが、そこはかんべんしてくれ。いいか。誰も、きみに、苦しんでほしいなんて思っていない。幸せになってほしいんだ。そこを誤解するな。時間がかかるんだったら、かけろ。かけたいだけかけろ。国民の皆さまなんぞはいくらでも待たせておけ」
「それでいいんでしょうか?」
「いいに決まってる」
「こんなぼくでも……」
「卑下するな。きみはすばらしい。きみの不幸は、お父上が完璧すぎたことだったんだな。だが、きみとお父上は、別の人間だ。そしてきみはすばらしい」彼の目がきゅうにきらきら輝きだしたので、何を思いついたんだろうと思いました。「そうだな。きみは、おれの息子だったらよかったんだ。そうすれば父親を超えることなんて簡単だったのにな。おれならちょろいぞ。岩なんかかつぎ上げろと地獄の魔王に言われてもぜったいやらない。そのへんで寝てる。そんな男だ。なんならきみもいますぐ、この頭を踏んで越えて行け」
しませんよ、そんなこと。「オルガン、凄いじゃないですか」
「まあそうだな。オルガンと女の扱いだったら、おれに訊いてくれ。あ、でも、口説きかたは教えられないぞ。女を口説いたことはあんまりないんだ。たいてい向こうから寄ってくる」
「ああそう」
「だから撃退法なら伝授できる。まあ護身術だな。きみにはすごく役立つと思うぞ?」
なぜ、こうなる。さっきまで、あんなに、メガトン級に感動的だったのに。
「門限はいいのか」
「ええ」うそでした。そろそろタイムリミット。でも帰れなかった。なんとかなるだろうと思うことにしました。
「じゃ、今度はきみがおれにつきあってくれ」ロットバルトは立ち上がりました。「見せたいものがある。ピアノ譜だ。ピアノは向こうの、
手をさし出しています。子どもじゃないんだからひとりで立ち上がれるよと思ったけれど、その手につかまることにしました。肉厚だな、と思いました。温かくて、力強い手でした。
※侍者室は、カトリック教会で、ミサのお手伝いをする人=侍者が待機する小部屋です。儀式に使う聖具などの置き場でもあります。