第十四曲 黒鳥のグラン・フェッテ (3)
文字数 1,420文字
「そう。よかったね。でも、あの、修道院っていうのは」
「あれはただの願望だよ。ゆるされるわけがない」
そうだったんだ。
「コンサートが終わったら帰国する。だから、十月にはもういない。
「でも」そんな。せっかく会えたばかりなのに。「コースは三年間だろう。学位取らないの?」
「取っても意味ないから。カペルマイスターになれるわけでもないし。それに」微笑んで立ちあがりました。「さすがに冬がきつかったよ、寒いのも暗いのも。ぼくには無理だ」
「青いバナナもないし?」
「そう、青いバナナ」その笑顔。「そのかわり、雪があったね。
デジレ。
きみは一瞬目を伏せた、するどい痛みをこらえるように。それから顔を上げて、はっきりと笑顔をつくった。そうだったね。
「ハッピーエンドで何が悪い? そう思わないか、ペーチャ」ほとんど挑発的だった、きみの声。誇りと、あざけりと、闘志。
「白鳥姫と王子を舞台上で殺したがるやつらは、ひまなのさ。退屈しのぎ。自分たちの人生が平穏無事だから、他人の不幸をオカズに楽しみたいってわけ。やつらにはわからないんだよ——ハッピーエンドのほうが
デジレ・アルトー。ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーが自分から結婚を望んだ、ただ一人の女性の名です。五歳年上のオペラ歌手、プリマドンナ。彼女は彼の生涯に、ふいに登場し、同じくらい唐突に去ります。周囲の反対をおしきって婚約までこぎつけたのに、その直後、彼女は突然べつの男と結婚して、彼の前から姿を消すのです。
きみは、なぜ、ぼくの前に現れた?
何をしに来た。
なぜ、去る。
「ちょっと手を見せて、ペーチャ」
「何?」
「きみの手」
デジレのカカオ色の手の上では、ぼくの手はひどく青白く見えました。でも、重ねたら。なんだか、大きさが、ぴったり合った。指の長さも。
「きれいな手だ。ジークフリート」
「やめてよ、デジレ」ぼくは笑おうとしました。笑い話に、しようと。「ほら、ぼくの手、肉が薄いだろう。本当はピアノに向かなくて、コンプレックスなんだ」
「そんなことはない。いい手だよ。完璧に近い」
「近いって何」
「完璧だ。ぼくはね、手フェチなんだよ」
そうなの?
「これも持って帰れないものの一つだな」ぼくの手を取ったまま、淡々と彼は言いました。「切り取って持って帰るわけにもいかないしね。残念」
そのまま、ぐっと力をこめて握られて、
ぼくは、
動けませんでした。