第十三曲 テンポ・ディ・ボレロ (1)

文字数 2,454文字

 アンデルセンの『赤い靴』は、恐ろしい童話です。主人公の少女カーレンは、やっと買ってもらえた赤い靴が嬉しすぎて、礼拝のあいだもずっと赤い靴のことばかり考えてしまう。それで天罰が下って、昼も夜も踊りつづけなくてはならなくなる。たしかそんな話。
 ぼくにも天罰が下ると思います。ミサのあいだ、あの靴のことばかり考えていました。赤くはないけど、つん、つんと。それからの、——いろいろ。帰宅してシャツを脱いだら、白い羽毛がひとひら床に舞い落ちた。彼女の枕の。——来てないじゃないか。来るって言ったのに、大聖堂(ドーム)
 あたしも留学しようかな。
 何。それ。
 踊り疲れたカーレンは、人に頼んで足首から先を斬り落としてもらいます。二つの足首は、赤い靴をはいたまま、踊りながら、森の中へと消えていくのでした。子どもの頃、うなされました。怖すぎて気が狂うかと思った。踊れ、踊れ、ダンス靴、赤いきれいなダンス靴。たしかそんな呪文。アンデルセン、ぜったい足フェチだな。
 日曜、正午前。十時からのミサが終わりました。大聖堂のハウプトオルゲルが鳴り響いています。聖堂全体がうなりをあげているみたいです。その後奏に送られて、人々が三々五々帰っていきます。これ、たぶん即興だ。一万八千本のパイプを熟知して、乗りこなしている。どうしてこんなことができるのだろう、ロットバルト。やっぱりオルガニストは神じゃないのだろうか。踊れ、踊れ、いっそ踊り殺してくれ。留学って。何。どうして。自分だけ。いいんじゃない、きみ才能あるんだから。行けば。だってあなたが、あなたが、才能ある人好きなんじゃない、あたしなんかより。何だよそれ。意味わからない。ぼくが泣いて引きとめれば満足なわけ、きみの膝にとりすがって? 人をもてあそぶのもいいかげんにしてくれない?
 あたしが、いつ、あなたをもてあそんだって言うの?
 いつもだろう。
 ひどい。
 だから。もう。気に入らないなら、好きにしたらいい。束縛するつもりはないよ。きみは自由なんだから、ぼくとちがって——
 オディール!
「ハロー」
 はっとして見上げると、思いがけない人、デジレでした。
「あ……、ハロー。日曜、いつもここ?」
「ディースカウ先生が奏楽の日はね。すごかったね」
「うん」
 ぶあつい黒いカーテンをめくり、重い木づくりの扉を押して、外に出ました。彼が先に。こうして外で見ると本当に長身だな。手足が長い。
 外の光がまぶしくて、二人同時に、手をかざしました。
「ああいう演奏聞いてしまうと、打ちのめされる」とデジレ。
「わかる」
「選ばれた人というの、本当にいるんだね。自分なんて何のために生まれてきたんだろうと思うよ」
「そこまで?」
 教会の中の薄闇とは別世界の、明るい陽光です。樹々も緑。湖を思いました。「一年中こんな天気だといいのにね」すなおな思いが口に出ました。
「そう?」とデジレ。「寒い季節があるから、春や夏が美しいんじゃないの? ぼくは——」
 言いかけて、口をつぐみ、立ち止まっています。何だろうと思った次の瞬間、気づきました。そうか、彼も背中に目がある人だ。
「先に帰っていいよ、ベンノ」
 数メートル後ろでかたまっているベンノの顔の、その表情。すがるようなあの目の色を、見たことがあると、ちらりと思いはしました。なぜ、オデットもベンノも、あんな顔を? でも、デジレのほうに向きなおったとき、ぼくの頭からはもう、そのかすかな疑問は消えてしまっていました。
「ごめん、何の話だった? 冬があるから?」
「うん」ふっと目を細めて、デジレは微笑みました。「冬があるからこそ、春や夏や、秋が、美しいんじゃないのかなという話。ぼくは去年の冬、ここで生まれて初めて雪を知って感激したよ」
「お国では雪降らないんだ」
「年間平均気温二十七度。いつもTシャツ」
「天国じゃない」
「つまらないよ」笑っています。
 冬というもの自体を知らなかったからね、とデジレ。寒いだけじゃなくて、夜が長いだろう? 驚いたよ。朝起きられなくて。八時でも真っ暗なんてさ。闇の奥から教会の鐘だけが聞こえて、あれはちょっとホームシックになりかけた。待降節(アドヴェント)の意味が初めてわかったんだ、《待ち望む》というやつ。どこを見ても寂しすぎて、もうとにかく、十二月二十四日が早く来てくれ、早くって、ひたすら待ち望んだね。たぶんいままでぼくは、本当の意味で「待つ」ということをやったことがなかったんだと思う。
「ドイツ語の『憧れ(ゼーンズフト)』って言い得て妙だね」
「そう?」
「『切望する(ゼーネン)』はいいとして、ズフトって『病気』のことなんだろう? 憧れって苦痛なんだなって」ふっと笑いました。「実感した」
 そう……か。そうだね。
「欧州へ来たいと思ってたあいだに、切望なんてたっぷり味わったつもりだったけど、じっさいに来てみたら、苦しくてベッドの上で七転八倒した。こんな経験、さすがに初めてでね。はは、『ちょっとなりかけた』どころじゃないな、なさけない。ホームシックもりっぱな『ビョーキ(シック)』だって思い知らされたよ」
「そんなに?」意外。この人でも弱音を吐くことがあるんだ。「何が恋しかった?」
「そうだね」笑顔、白い歯。「食べ物かな、とくに。どうしてきみたちのところでは、青いバナナ売ってないの?」
「青いバナナ?」
「全部黄色く熟しちゃってるじゃない。あれじゃだめなんだよ。青くないと」
「青いのどうやって食べるの?」
「皮むいて揚げる。肉と合わせる、サワークリームとチリソースとスパイス。んー、おいしいんだなこれが。ちょっとワイルドだけどね」
 嬉しそうに唇を鳴らしています。いま彼の口の中によみがえっている味、ぼくには想像もつきません。食べてみたいなと言ってみたら、にっこり笑って、ぼくが帰国したら遊びに来いよ、いくらでも作ってやると言ってくれました。

 デジレくんに、何か言われなかったか?
 そうロットバルトに訊かれました。ミサの前に。
「何をですか?」
 しばしの沈黙の後、ぽつりと言われました。「言わないほうがよかったかな」
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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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