第十八曲 大きな白鳥たちの踊り (2)
文字数 2,708文字
その手があったか。参考になりました、ディーディー。ぼくもぜひ、次の機会に試させていただきます。次の機会ってなんだかわからないけど。
「それで?」
「それだけよ」
いやいや。いやいやいや。それはないでしょう、
「もちろん、とっても素敵なかただったから」マダム、その《いたずらっぽい上目づかい》というやつ、ご自覚はないのでしょうが、やはり公衆の面前ではご披露なさらないほうがよろしいかと。また盗撮されちゃいますよ。「女のお弟子さんもたくさんいらして、皆さん、バチバチ大変で」
「バチバチね」
「バチバチよ」
「で?」
「わたくしはそれに巻きこまれるのがいやで、とにかく、おとなしくして、めだたないようにして、すみっこのほうで」おやまあ。「もともと、園遊会でお会いしたときに、あなたのお祖父さまが」母上のお父上ですね。「勝手にあのかたと盛りあがってしまって」ああ、ありそうだなー。人たらしだからな、ディーディー。「『うちの娘も音楽を少々ね』『じゃあぼくがお教えしましょうか』『それはいい、ぜひぜひ』って、何もかもわたくしの頭越しに決まってしまって、わたくし、ちょっとすねてしまって、初めのうちはろくに練習もしなかったの。——あら、どうしたの? 頭でも痛いの、大丈夫?」
母上。それ、たぶん、男にはいちばん効くやつですよ。とくにふだんから女の人たちに追い回されているようなモテ男には。かわいそうなディーディー。一発で陥落だったんだな。たぶんこんな感じ? つんとおすまししちゃって、——だって、べつに、わたくし、ピアノ習いたいなんて申してませんもの。そうですか。こまったな。どうしよう。ピアノ、お嫌いなのですか。ピアノが嫌いだなんて、申してませんわ。では、ぼくがお嫌いなの? 先生が嫌いだとも、申してません。
「でもけっきょくわたくし、ピアノはたいして上手にはならなくて。だってほら、手が小さくて薄いでしょう、ね、すぐ痛くなってしまうの」ああもう。この人はもう。何が「ね」だ。そんなの、次の展開は決まってるじゃないか。お手々が痛いんですか、ああそれはぼくが悪かった、ゆるしてください、無理しなくていいんですよ。でもこれで帰るわけにもいかないし、じゃあ少し、おしゃべりでもしましょうか。「あのかたのお話が楽しすぎて、ピアノの前に座っていても、わたくし、いつも笑ってばかりいて、三十分か一時間くらいしてから、『いや、でも、まあ、少し、弾きましょうか』ってあのかたが仰って、やっと譜面を見て、弾きはじめて、しばらく弾いてから、『あれ、これはもう先週《あがり》にしたんでしたね』って仰って、——ほんとに大丈夫? おなか痛いの?」
だめだ。笑い死ぬ。それ、お弟子が何弾いててもぜんぜん耳に入ってないってことですよね。どれだけめろめろなの、ディーディー。
父上から結婚の申し込みがあったとき、いや、父上って、当時は彼が王太子だったわけで、息子のぼくが言うのもなんですが、どうするよ?というくらい凛々しいお写真が残っていて。うわーこれ、シチュエーションとしてはきついね! で、殿下のお気持ちをお受けなさいとディーディー本人がすすめたそうで、なにそれ? もう、ちょっとちょっと、てれくさすぎてぼくはソファに倒れてもだえましたよ。もちろん、ぼくとしては父上の息子で百パーセントよかったですけど、だけど、ディーディーの気持ちを思うと、うわー。
「母上ご自身は、どうだったんですか?」
「どうって?」
「母上のお気持ちですよ」
「……」
「なんですか『カリッ』て、さっきから話がかんじんなところにくるとボンボンをお口に入れるの、おやめなさい。もう何個召し上がったと思ってるんですか」
「だって。少しは引きとめてくださるかと思ったら、それはよかった何を迷ってるんですか早くお返事をなさいって仰るんだもの。玉の輿だからじゃないんですよ、いまの王太子殿下は本当にすばらしいかたのようだから、きっとお幸せになれますよって。たとえそうでも、まあ、ええ、そうだったのだけど、あなたのお父さまはね。ふふ」さりげなくのろけたよ!「それでも、ちょっといいなと思ってたかたに、よそへお嫁に行けって言われたら、誰だってがっかりするでしょ」
「え、『ちょっといいな』? 『誰だってがっかり』?」
「ええ」
「それだけ?」
「そうよ」
「ひと晩やふた晩泣き明かしたりとか、しなかったの?」
「しないわよ」平然としています。「さっきから言ってるじゃない、それだけの話だって。どうしてあなたが泣くの」
泣きますよ。ディーディーが気の毒すぎて。
まあ、少なくとも、彼女にとっても良い思い出ではあったようですね。彼が最後にプレゼントしたチャイコフスキーの歌曲の楽譜、捨てずに取ってあったわけだから。と、思ったら、
「プレゼントというか、もともと、わたくしの楽譜をお貸しして、そのままになっていたのね。そうしたら、最後のレッスンが終わってしばらくして、もうお目にかかることもないだろうとあきらめたころになって、ふいにお見えになって、楽譜を返しに来ましたって仰るから、わたくしのお貸ししたのを持ってきてくださったのだと思ったら、『あれはよごしてしまったので、新しいのを買ってお持ちしました』って——ジークフリート、ほんとに大丈夫、そんなにせきこんで? 風邪じゃないのかしら」
ディーディー。ぼくはつくづく、自分が男であるのがいやになりましたよ。どうしてこうも、ぼくらは——ぼくら男というものは——めめしく、未練がましく、みっともないのでしょうか。よごしてしまった? 何ですかその見えすいたうそは。去っていく憧れの人にせめて思い出の品を持っておいてもらおうとあがくなんて、なさけないにもほどがある。それとも本当によごしちゃったのかもしれないね。そうだな、ぼくもこないだ、つい、ベッドでヴァイオリン曲の楽譜を読みながら、オデットがこれ弾いてくれたらな、もう一度ぼくに伴奏させてくれたらな、とかしょんぼり思ってたらそのまま眠っちゃって、起きたら楽譜を抱きしめたまま寝ててくしゃくしゃにしちゃってて、ああもう! 最悪。絶望的。《こんな自分なんて》ってひがむのをやめればいいだけよ、そうファニイに言われたけど、そんなの無理だよ、ファニイ。せめてもの救いは、百戦錬磨で無敵だとばかり思っていた魔王ロットバルトが、あんがいぼくと変わらない、だめな人だったと判明したことです。