第十一曲 パ・ド・トロワ、イントラーダ(序奏)(3)
文字数 3,226文字
水曜日、午後四時。組曲の第一曲「情景」の練習がもう進んでいて、ハープの代わりに、ティンパニのマクシミリアンがキイボードでアルペジオを入れていました。たしかにハープとティンパニが同時に鳴る箇所はないんだけど、忙しそう。だからここのキイボードを替わってもらえないかなと言われて、嬉しかった、むしろぼくの居場所を作ってくれたんだと思います。弦楽器にもコントラバスのヨーゼフが加わって、厚みが増しました。もちろん、いちばん感激したのは管楽器、とくにオーボエ。白鳥のテーマ、オーボエのソロだったんですね。
「白鳥のテーマっていうけどさ、これ王子がしゃべるところでも鳴るよね」
「微妙にちがうんじゃない?」
「いや同じって考えたほうがよくない? 全体のテーマなんだよ、誰のというより」
「ああ、ライトモティーフ(一対象一主題)的なやつじゃなくてね」
にぎやか。オーボエの彼だけが、黙ってにこにこと聞いています。留学生がいるとは聞いていたけど、この人だったのか。黒い肌。ぼくらの中にいるととても目立ちます。アフリカの、うちと同じ小さな王国の王子で、でも次男だから好きにさせてもらっている、と笑った笑顔の歯が白くてきれいでした。「好きにさせてもらっている」というのがドイツ語で出てこなかったらしくて、ためらいながら英語で言ったのがまたキュートでした。去年の秋からいると聞いて驚いて、どうしてぼくは知らされてなかったのだろう、非礼を詫びようとしたら、完全におしのびにしておきたいからと言ってストップをかけていたのは彼自身なのだそうです。なんだそれは。帰ったら母上をちょっと責めておこう、彼女が知らなかったはずはないんだから。こっそり教えてくれたってよかったじゃないか。
名前はデジレ。お国の公用語はフランス語だそうです。
「フランスに留学は考えなかったの?」
「フランス語圏にいるかぎり、『フランス語のお上手なアフリカ人』にしかなれないからね。まったくちがう場所に行ってみたかった」
そんな事情、考えたこともありませんでした。自分の甘さを恥じました。
フランス語で話す彼はとても気さくで、そして、意外におしゃべりでした。孤高の貴公子みたいに見えていたのは、たんにドイツ語がまだよく話せないからだったのです。本人も照れていました。ぼくのほうはフランス語が、聞くのはいいけど話すほうはちょっとなので英語で答えると、彼も英語になって話がはずみ、オーロラたちが明らかにうらやましそうにこちらをちら見していて、ああこれはまずいな、参加させてもらって早々みんなから浮いてしまうとあせり、また後でねと言って休憩時間は終わりになったけど、本当はもう少し話したかった。ぼくの、というか、ぼくたちの知らない世界をたくさん知っていそうです。
いまのところ指揮者は立てていなくて、第一ヴァイオリンのオデットがみんなを引っぱっています。みんなで彼女の合図に合わせているということ。あいかわらず仏頂面ではありますが、はきはきと指示を出していくのはさすがです。おかげで彼女を好きなだけ見ていられるしね。他の男には見せたくない気がしなくもないけど。ホルンのバスティアンとか、きみちょっと見すぎ。
ワルツのトライアングルは緊張しました。例の三拍子に二拍子がかみあうところ、やっぱり成功率が低くて、隣でマクシミリアンがずっとふるふる笑いをこらえていて、どうしよう、ぼくこれすごいリズム音痴かもしれない。バスティアンも一回、パフォと吹き出してしまって、そんな。終わると同時にみんな爆笑し、そしてなぐさめてくれました。うう。夢に出てきそうです、トライアングル。練習しないと。
でもこれ楽しいなあ。夏だけで終わってしまうのつまらないな。——どうしてぼくは、先のことばかり考えてしまうんだろう。いまを楽しめばいいんですよね。
いちおう書いておこうかな、ベンノのこと。いや、べつにいいんだけどね。失礼、ちょっと、笑いが。だからね。ロットバルトのところへ行くときは、ベンノは行き帰りの付き添いだけなんです。その彼が、なんで、このオケの練習のあいだ、ずーっと部屋のすみで待ってるのかなってことですよ。しかもあんなにこにこしちゃって、ね、ベンノ? なるべくファニイのほうを見ないようにしてるのが、かえってバレバレだって。
そんなわけで、オデットと、ファニイとベンノといっしょに帰ってきたのですが、オデットと並んで歩きたかったのに、彼女は迷子になりそうな子どもが母親にしがみつくみたいにファニイにくっついていて、どうして人前だとあんなに意識しちゃうんだろう。二人のときは、ね……、大胆なのに。本当にオデットとオディール、別人じゃないのかと疑いたくなります。で、ファニイはベンノと楽しそうにしゃべってるし、いや、話しているのはファニイだけなんだけど不思議に盛りあがっていて、なんだろうあれ、ちょっとした奇跡ですよ。
途中までデジレもいっしょだったので、助かりました。自然とぼくら二人が先を歩き、あとの三人がついてくるようなかたちになりました、彼は歩幅が広いからね。まあ、ぼくもだけど。何を話したのだったか。目を細めて笑うくせがあるんだなと思ったことを覚えています。だからかえって、真顔にもどったときの強いまなざしが、印象的なんだなと。
別れぎわにデジレが何か言いたそうなので、何?と訊いたら、何でもないと言うので、何でもなくないだろうと。べつにまた今度でもいいけどと。言いました。
デジレは黙って、スマフォをとり出しました。スマフォ持ってるんだ。いいな。
長い指で画面をさらさらと流しています。スワイプというのだっけ。
「これ」
さし出された画像を見て、吹きそうになりました。なにこれ、ぼくじゃないか。いつ撮られたやつだろう。去年の新聞とかだな。
「やめてよ」
「そうじゃないんだ。これも見て」
一枚めくると、白黒のプロフィール写真が現れました。時代がかったセピア色の。蝶ネクタイをしめて、腕を組んでいます。ちょっとまゆをひそめて、もう、いい?とでも言いたそうな口もと。
誰。
ぼくか? こんなの、撮られた記憶はない。
「きみだよ」
「うそだろ」
「うそだ」
でも本当に一瞬、自分かと思ったのです。合成写真だろうか。
「見たことない?」
「ないよ」
「誰だと思う」
背筋が、ぞくっとしました。道路沿いの街灯がオレンジ色に輝いて、町も、後ろからついてくるオデットたちも、発光に飛んでしまったような気がしました。
「チャイコフスキーだよ。ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。二十二歳のときの写真だ」
うそだろ。
「ネットできみの写真を見て、驚いたんだ。チャイコフスキーが生きているって。この顔が、生きて動いているところを、どうしても見たくなってね」デジレはふっと目を細めて微笑みました。「やっと会えた」
★チャイコフスキーさんの肖像写真って、ふつうこれ↓じゃないですか。
デジレが見せてくれたのはこれ↓。
びっくり。でも、よく見ると同じ人だ。あたりまえだけど(笑)。
これ↓は、もうちょっと後の時期のチャイコさんだよね。『白鳥の湖』書いた頃(37歳)? それよりは若いかな。(曲は前にお聞かせした「チャルダーシュ」です。)
https://www.youtube.com/watch?v=dvoTtDv6Ybs
ちなみにぼくはもう少し髪の色が明るいです。金髪というほどではないけど。ドイツ系でも、純粋な金髪は、純粋な黒髪と同じくらい少ないですよ。ぼくらはたいてい、そのあいだのグラデーションのどこかにいます。