第十曲 テンポ・ディ・ヴァルス(白鳥たちの)(1)
文字数 1,097文字
深夜にやっと退出できました。手伝ってもらって着替えを終え、部屋着になったら、どっと疲れが出ました。どうしても紅茶が飲みたかったので頼んで、ソファの上で横になりました。横になったまま、手にした書物を開きました。ベンノが
ページを開いて胸の上に伏せたまま、ぼくはじっと横たわっていました。
やはり、あなたでしたか。チャイコフスキー先生。
不思議な静寂に、ぼくは満たされていました。恐怖も恨みも、なかった。それどころか、微笑が浮かんできました。めまいがして、はらわたが焼けて、へとへとなのに、このとてつもない幸福感は何だろう。そして同時に、このはてしない孤独は。背後にきりのない薄闇がひろがっている気がします。暗黒ではなく、淡い光をたたえた薄闇。そうですか。そう来ましたか。ぼくを——ぼくの、体と、心と、人生を、ご所望なら、乗っ取りたいのなら、お取りになるがいい。ぼくを選んでくださって光栄です。そうなのでしょう、ピョートル・イリイチ。だからぼくの中で、あなたの記憶と感情と物語が、鳴りやまないのですよね。そうまでしてあの音楽をよみがえらせたいのですよね、『白鳥の湖』を。いや、もしかしたら、これはもうあなたの遺志でさえないのかもしれません。あの音楽自身が、よみがえりたがっているんだ。
面白い。受けて立とうではありませんか。芸術に全身全霊を捧げるなんて、古今東西の人間たちがいくらでもやってきたことなんだから、いままでも、これからも。さあ、お次は何ですか。あなたのジークフリートは台本どおり、オデットと出会いましたよ。ぼくらが向かうのは、破滅ですか、大団円ですか?
闇の中でぼくは、小さな声を立てて笑いました。