第十曲 テンポ・ディ・ヴァルス(白鳥たちの)(3)
文字数 3,067文字
いままではとくに連絡を取りたい相手もいなかったので、それでよかったのですが、さすがにロード・ヒカルゲンジのように手紙を書いて誰かに持っていかせる時代じゃないだろうということくらいわかります。スマートフォンというのはそんなに便利なのでしょうか。テレビのリモコンより機能が複雑だと、使いこなせる自信がないのですが。だいたい、うちの国じたいが前時代的ですからね。コンビニエンスストアというのですか、そういう店は旧市街には一軒もありません(郊外の道路沿いに二軒ほどあると聞きました)。マクドナルドが一店舗だけありますが、たいして繁盛していません。二、三百年続いた老舗のお肉屋さんからテイクアウトできるソーセージのほうがずっと美味しいので。ヨーロッパの田舎なんてたぶん、だいたいこんなものだと思います、二十一世紀のいまでも。いや、マクドナルドはべつにどうでもいいんだ。問題は、ぼくから誰かに連絡を取りたいときに、いちいちうちの広報を通すのは面倒だということです。ベンノがスマフォを持ってくれればいいのですが、彼はとうぶん字が読めそうにないし。何かいい方法はないかな。
と考えながら庭を見おろしていたら、そのベンノが外から帰ってきて手を振っています。何だろう。
通用門につづく殺風景な通路に停められた、出入りのリネン業者の車の陰から出てきたのは、ファニイでした。なんて大胆! ちがうんです、と笑いながら彼女は言いました。わたしもまさか、そんなつもりじゃ。
「表門の前でうろうろしていたんです。もう、不審者ですよね、わたし。そしたらこのかたが」ベンノのほうにかるく首をかしげてみせ、「見つけてくださったんです。わたしのこの、楽譜の模様のレッスンバッグを見て、手招きというかなんというか、なんだか王子さまにお会いしたいのかと訊かれているようなので、そうですとお答えしたら、ここへ」
驚きました。手話でさえないのに。「どうやって通じたの?」
「なんとなく」にこにこしています。すごいな。
彼女が立っているだけで、あたりを明るく感じます。なんだろう、この、花ざかりのりんごの木のような、全身から優しい香りが立ちのぼってくるような感じ。この子と結婚する男はきっと幸せにしてもらえるんだろうなと、ふと、うらやましく思いました。オデットは一生ピンクなんて着ないだろうからな。
「ごめんなさいね、わたしたち、四人で勝手に盛りあがっちゃって。一週空いたでしょ、あのあいだに、妄想がどんどんふくらんじゃって」
「妄想?」なにそれ?
「カルテットだけじゃもったいないから、もっと人を増やしたらどうかって」
「ああ、そのこと」一瞬あせった。怖。
「お聞きになりました?」
「ええ、さっき母から」そういうことか。発案者はこの子だな。天使。ありがとう。「とてもいい企画だと思います。ぜひ協力させてください」
「わあ、嬉しい!」その場ではねています。かわいいなあ。体は大きいけど。
「そのお返事をしようとしていたのですが、ぼくはSNSの類をやっていないので、どうしたらいいかと」
「わかります。炎上したら怖いですもんね」力づよくうなずきました。「だいたい、スマフォいじってる王子さまなんて、なんだかイメージこわれます」
「そうですか?」
「機械とかぜんぜん音痴ってほうが素敵。もう、電子レンジも使えないとか」
なぜそうなる。
「それに、楽譜をお届けしたりしたいので、メールじゃないほうが。紙のコピーしかないものが多くて。これ」とり出したのはまさに楽譜の束でした。「ディースカウ先生からおあずかりしていて。ああ、お渡しできてよかった」
「誰ですって?」
ファニイは不思議そうな顔になりました。「フォン・ディースカウ先生。オデットのお父さまの。もちろん」
「ああ、失礼。ちょっと聞きちがいを」そうだった、本名。ロットバルトって呼ばないように気をつけないと。
「楽譜がそろってくるほどかえってわからなくなってきたって、毎日うなってらっしゃるんです。もっと助けてさしあげて」
「ぼくなどでお役に立てれば」
「もちろん、どんなにお喜びになるか。わたしじつは家が近くて、平日は学校に行くときここの前を通るんです。郵便受けってないのかなと思って今日ちょっと下見に来たんですけど、ないですよね、やっぱり。ふつうのお家じゃないんだから」
「それなら、正門脇の守衛所にあずけてくだされば。ぼくから言っておきます」
「本当ですか、それいいかも! じゃ、何かお返事をくださるときは、それも守衛所に?」
「ああ、そうですね、そうしましょうか」その手があったか。
「よかった」ファニイは大きくにっこりして、ごそごそとかばんをかき回しました。「これわたしの住所なので、あれ、どこ行っちゃったかな、ちゃんとカードに書いたのに。お手数でなければこちらへご連絡くださっても。あ、あった」白地にエンボス加工で羽の模様を浮き出した、かわいいカードが出てきました。「この住所です。オデットにもとどきますから」
ものすごくさりげなく言い終えて、ぼくの顔を見ています。
「どういう意味?」
「あら、お話ししてませんでした?」何が《あら》だ。「オデット、平日はわたしの家に下宿して、わたしといっしょに通学してるんですけど」
「そう、ですか。初耳です」
「ばかよねー。自分で言えばいいのに。言ってもどうせ来てもらえないから言えなかったとか、ずーっとめそめそ言ってるんですけど。本当に迷惑なんですけど。何かご伝言、ありませんか?」
反則だろうこれ。まずい、顔が熱い。落ちつけ自分。「いえ、とくに」
「なあんだ、残念。じゃ、わたしこれで」
「待って。彼女からは何か?」
ぱっちりと、大きな目。さっきのりんごの木撤回。こいつも悪魔。
「いいえ、とくに」
「そう」
「ただ、十分に一回くらい、会いたくて死ぬとか言ってますけど。クッションに顔当ててごろごろしながら、死んだら庭に埋めてねとかって。うるさいの。お願いだからどこか遠くへ行って死んでってわたしは言ってます、だってうちで死なれたらあの部屋つぎの人に貸せなくなっちゃうでしょ。なんとかしてください」楽しくてたまらないというふうに笑って、この間ずっとぼくたちの顔を見くらべていたベンノに向きなおり、彼の両手を取って握りしめました。「ありがとう、本当にあなたのおかげよ。
嬉しそうだな、ベンノ。おまえもこれで一生手を洗わないのか。
「大丈夫、安心なさって。オデットはちゃんとわたしが守ってます。クララとオーロラとツイッター総人口のえじきにはさせませんから。じゃ、わたし、今度こそこれで。お騒がせしました」
「あ、あの」
「はい?」
「毎朝、ここを通りかかるの、何時くらいですか?」
訊かなければいいのにと自分でも思ったのです。ふりかえったファニイは、心底あきれはてたという表情でした。
「日によってちがいます。わたしたち、レッスンの時間も練習室が取れてる時間もばらばらなので。直接お訊きになってください、彼女に。でなければ一日中窓からながめてため息でもついていらしたらどう? あー、やってられない」