第十八曲 大きな白鳥たちの踊り (1)
文字数 2,057文字
奏楽がディーディーではなかったのが、残念でした。でも首席オルガニストはシュトイバー氏だからね。彼の演奏は荘厳で、かつ的確で、ディーディーのつねに予測不可能な感じとはまたちがって、安心できます。
あなたもあの同じ天井の下の、どこかにいたんですよね。姿は見えなかったけれど。ディーディー。
聖堂内は会衆で満ちみちて、身動きもできないほどでした(母上とぼくはいちおう貴賓席的な所にいはしたのですが)。その熱気。ざわめきに満ちた沈黙。そこへ突然、天井からすみきった歌声が地を打つように降ってきて、降誕祭のはじまりを告げました。皆がいっせいに身をよじって、どこからその流れ星のような声が来るのか知ろうとしたのが面白かった。もちろん母上とぼくもです。あの瞬間、誰もが、天使は本当にいるのだと実感したのです。抜擢されてソロを歌っている少年は、実物を見たらそばかすだらけの坊やだったかもしれないけれど(たぶんかなりの確率でそう)、たしかにぼくらに永遠の天の存在を信じさせてくれた。
いっしんに上を見あげている母の手に、そっと手を重ねました。
送迎とも車でしたが、帰り着き、ドアを開けて外に出たら、霧でした。冬の、夜の霧です。水のある町では——そしてヨーロッパの古都はたいてい中央に川をかかえこんでいるものだから——霧は、避けられません。白い闇。一メートル先も見えない。それに湿度が高いと体感温度はひどく下がります。五感のすべてが薄らいでいる感じ。この階段さえ昇れば、家なのに。
「大丈夫ですか、母上」
「大丈夫よ。あ」
「ほら、気をつけて。足もとが濡れているから。ぼくにつかまって」
「ありがとう」
もちろんそれは幻想で、ぼくらの足はほどなく毛足の長いじゅうたんを踏んでいて、無事に。それでもぼくはまだ、迷っていました。どう切り出したものかと。今夜のこの清らかな静寂にうながされて決心したものの、いざ言おうとすると、タイミングが見出せません。
「なあに?」先に、勘づかれてしまいました。
「ぼくの一身上のことなのですが」
「どうしたの」
「来年、いや、再来年になるかな。もちろん、できれば来年中がいい、とは思うのですが」
「何が?」
すみません、やっぱりぼく、話がまわりくどい。母上はふしぎそうに、小首をかしげておられます。
「あの。ぼく、即位してしまったほうがよくないですか?」
沈黙。
目を見開いて、ゆっくりと歩み寄ってこられました。「どうしたの、いきなり」
「たしか二十五までにと言われていた気がするのですが」
「どうしてもという決まりではないけれどね」
「それまでに嫁取りと子作りが実現するかは、すみません、いまのところ悲観的な展望しかなく」
「いそがなくていいのよ」
「ええ、ただ、そろそろ母上を摂政の仕事から解放してさしあげたいのです」
こうしてそばに立つと、本当に、こんなに小さな人だったかなと思います。自分に自由があるだのないだのとぼくはさんざんもがいてきたけれど、その間ずっと、この柔らかな手の庇護のもとにあったんだ。
「もう、いいんじゃないかな、と思って。母上こそ、ご自分の時間はご自分のために使ってくださっても。ね。つまり……、もう、ぼくの母親としてだけ、生きなくても。
ありがとうございました。本当に。いままで」
母上。
そんなお顔、なさらないでください。ぼくはべつにどこへも行きはしません、これからもお側にいるじゃないですか。喜んでいただこうと思ったのに、クリスマスプレゼントのつもりだったのに、なんですか、どうして泣いちゃうの? もう。こまったな。どうしたらいいんだろう。いつかはこういう日が来ると、わかっていたはずでしょう、おたがい。
ああ。髪が。いい香りだ。けっきょく、あなた専用の男になれなくて残念ですよ、母上。もっとも、あなたの息子をやれるのは世界広しといえどもぼくだけですからね。その座だけは、ゆずりません。覚悟しておいてください。