第十八曲 大きな白鳥たちの踊り (1)

文字数 2,057文字

 クリスマスのミサには、大聖堂(ドーム)であずかりました。
 奏楽がディーディーではなかったのが、残念でした。でも首席オルガニストはシュトイバー氏だからね。彼の演奏は荘厳で、かつ的確で、ディーディーのつねに予測不可能な感じとはまたちがって、安心できます。
 あなたもあの同じ天井の下の、どこかにいたんですよね。姿は見えなかったけれど。ディーディー。
 聖堂内は会衆で満ちみちて、身動きもできないほどでした(母上とぼくはいちおう貴賓席的な所にいはしたのですが)。その熱気。ざわめきに満ちた沈黙。そこへ突然、天井からすみきった歌声が地を打つように降ってきて、降誕祭のはじまりを告げました。皆がいっせいに身をよじって、どこからその流れ星のような声が来るのか知ろうとしたのが面白かった。もちろん母上とぼくもです。あの瞬間、誰もが、天使は本当にいるのだと実感したのです。抜擢されてソロを歌っている少年は、実物を見たらそばかすだらけの坊やだったかもしれないけれど(たぶんかなりの確率でそう)、たしかにぼくらに永遠の天の存在を信じさせてくれた。歓喜せよ(ユビラーテ)、と、その声は歌っていました。歓喜せよ(ユビラーテ)、と。
 いっしんに上を見あげている母の手に、そっと手を重ねました。
 送迎とも車でしたが、帰り着き、ドアを開けて外に出たら、霧でした。冬の、夜の霧です。水のある町では——そしてヨーロッパの古都はたいてい中央に川をかかえこんでいるものだから——霧は、避けられません。白い闇。一メートル先も見えない。それに湿度が高いと体感温度はひどく下がります。五感のすべてが薄らいでいる感じ。この階段さえ昇れば、家なのに。
「大丈夫ですか、母上」
「大丈夫よ。あ」
「ほら、気をつけて。足もとが濡れているから。ぼくにつかまって」
「ありがとう」
 既視感(デジャヴュ)、でしょうか。それともまた、ピョートル・イリイチのいたずらなのかな。こんなことは初めてなのに、たしかに、霧の中、こうしてあなたの腕をとって、この階段を昇ったことがある気がします。あるいは別の誰かと。あるいは、ぼくではない誰かが、あなたと。
 反復進行(ゼクエンツ)
 反復進行(ゼクエンツ)と、つぶやいていました。それもぼくではなかったのかもしれません。ひとかたまりの音型をつぎつぎと転調しながらくりかえしていく技法。続けすぎると、自分がどこにいるのかわからなくなってきます。イ短調(アーモール)ロ短調(ハーモール)嬰ハ短調(チスモール)。白鍵、黒鍵、足は段を踏んで昇りつづけていくのですが、ふと気づくと、昇った先に見えるのは最初に踏んだ一段なのです。まるでエッシャーのだまし絵。霧の中を歩いたことのない人に、わかってもらえるものでしょうか。一歩踏み出すのに勇気がいるのですが、それでも、立ち止まってとり残されるよりは、進んだほうが落ちつく、という。
 もちろんそれは幻想で、ぼくらの足はほどなく毛足の長いじゅうたんを踏んでいて、無事に。それでもぼくはまだ、迷っていました。どう切り出したものかと。今夜のこの清らかな静寂にうながされて決心したものの、いざ言おうとすると、タイミングが見出せません。
「なあに?」先に、勘づかれてしまいました。
「ぼくの一身上のことなのですが」
「どうしたの」
「来年、いや、再来年になるかな。もちろん、できれば来年中がいい、とは思うのですが」
「何が?」
 すみません、やっぱりぼく、話がまわりくどい。母上はふしぎそうに、小首をかしげておられます。
「あの。ぼく、即位してしまったほうがよくないですか?」
 沈黙。
 目を見開いて、ゆっくりと歩み寄ってこられました。「どうしたの、いきなり」
「たしか二十五までにと言われていた気がするのですが」
「どうしてもという決まりではないけれどね」
「それまでに嫁取りと子作りが実現するかは、すみません、いまのところ悲観的な展望しかなく」
「いそがなくていいのよ」
「ええ、ただ、そろそろ母上を摂政の仕事から解放してさしあげたいのです」
 こうしてそばに立つと、本当に、こんなに小さな人だったかなと思います。自分に自由があるだのないだのとぼくはさんざんもがいてきたけれど、その間ずっと、この柔らかな手の庇護のもとにあったんだ。
「もう、いいんじゃないかな、と思って。母上こそ、ご自分の時間はご自分のために使ってくださっても。ね。つまり……、もう、ぼくの母親としてだけ、生きなくても。
 ありがとうございました。本当に。いままで」
 母上。
 そんなお顔、なさらないでください。ぼくはべつにどこへも行きはしません、これからもお側にいるじゃないですか。喜んでいただこうと思ったのに、クリスマスプレゼントのつもりだったのに、なんですか、どうして泣いちゃうの? もう。こまったな。どうしたらいいんだろう。いつかはこういう日が来ると、わかっていたはずでしょう、おたがい。
 ああ。髪が。いい香りだ。けっきょく、あなた専用の男になれなくて残念ですよ、母上。もっとも、あなたの息子をやれるのは世界広しといえどもぼくだけですからね。その座だけは、ゆずりません。覚悟しておいてください。

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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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