第三曲 情景(アレグロ)(1)
文字数 2,242文字
「まことに申し上げにくいのですが、殿下。なにしろデリケートな問題ですから」
「そう、まさにデリケートゾーンの問題ですね。はっきり言ってくれてかまいませんよ」
「つまり、われわれとしては殿下の、その、対象……の範囲、が、特定できませんでして」
「と言うと?」
「太陽フレアって、何ですか?」
「あれはぼくのお気に入りのエロ動画なのですが、何か問題でも?」
「えっ」
「きみは興奮しないのですか、あれを見ても」
「いや、いえ、……」
「『ネイチャー』誌に掲載されたキオト(京都)大学の研究結果によれば、過去最大級のフレアと比較して十倍以上の規模のスーパーフレアが今後太陽表面で発生する可能性があるんですね」
「はあ」
「そんなスーパーフレアがもしも地球を直撃したら、どうなると思います? 大量の荷電粒子によって地球上の電子機器はことごとく破壊されるんですよ。経済活動は即日停止する。文明は二百年巻き戻る。これにぼくはトーマス・マンの『ヴェニスに死す』に通ずる
「殿下」その、唇をなめるくせも気に入らないんだ。「たしかに、メンタルブロックをはずすということは、自力ではなかなかできないものです。しかし、わずかなりとも殿下ご自身がわれわれに協力してくださらないことには、なんとも」
「きみのお気に入りのエロ写真も知ってますよ」ぼくはもう背を向けていました。「母上がストッキングをおはきになろうとしているところですよね。いつ盗撮しました?」
ぼくがふりむかないときは、退がれということです。人が青ざめる気配も、こそこそと去っていく気配も、背中で察するのに慣れました。
大人げなかった。あんなに攻撃的になる必要はなかったのです。ただのむっつりすけべな中年男じゃないか。なのに、つい、かっとして。もう少し——もう少しだけでも、他人とうまく関われるようになれないものでしょうか。ぼく自身も苦しいし、周りにとっても迷惑千万です。こんな自分などいなくなってしまえとよく思うけれど、それもできない。母上に申し訳が立ちません。存在そのものが親不孝なぼくなので、せめて彼女に先立つことだけはするまいと思うのですが、あの人はなんだかいつまでも若くて、ものすごく長生きしそうな雰囲気で、とてもかなわないというか、ぼくのほうがそれまで持ちそうにない気がします。
城の前の湖まで、散歩に出ました。双眼鏡を持ってきていたのは、手ぶらだとなんとなく格好がつかないからというだけで、本でもテニスラケットでもよかったのですが、たまたまでした。双眼鏡で白鳥見てもしかたないじゃないですか。肌寒かったけれど、いい天気でした。柳の一種だろうか、淡い綿毛が、風に乗って湖のほうへ流れていく。それをぼんやりと見ていました。水はたぶん、まだ冷たいのでしょう。「ここいい?」と言いながら彼が——そう、あれが初対面でした——、彼がベンチの隣に座ったとき、いいってまだ言ってないよと思って、微妙にむっとしました。「よく会うね」と言われ、彼も双眼鏡を手にしていたので、つい「そうですね」と言ってしまったんだけど、あとでよく考えたら、やっぱり会ったのはあれが初めてでした。
というか、バードウォッチャーがそのサングラスしないだろう、ふつう。そっちが気になったんですよ。似合ってればいいという問題じゃないだろう。だいたい何その白いスーツ。ここリヴィエラじゃないから、バイエルンだから。似合ってればいいという問題じゃ——
「泣いてた?」
???
何、その、他人の心に土足で入ってくる感じ。かるく殺意おぼえたんですけど。
「あ、光の加減か。悪い悪い。失敬。ほんとごめん」
あっさり撤退するのか。何者だよこのおやじ。でもサングラスはずしたら、目がきれいだ。
「鳥はいいよな。自由で——」
ばかなのか、この人?
「——とか思ってない?」
は?
「鳥だって、飛ばなくてすむなら飛びたくないわけだよ、できるだけ。エネルギー消耗するからな。飛ぶのってものすごく疲れるらしいぞ。ハトでも昼間、一時間のうち四十秒しか飛んでないんだとさ。知ってた?」
そうなんだ。意外。
「『いま、私の願いごとが、かなうならば、翼が欲しい』なんて歌があるだろう」
ああ、あのクソですね。
「アホだよな。翼あったら飛ばなきゃならない。何倍しんどいのかって話だ。おれはごめんだね。できれば一生だらだら過ごしたい。『悲しみのない自由な空』っていうのもアホだ。空行ったってどこ行ったって悲しいのは自分だろう、エリアの問題じゃない。しかも翼って腕と引き換えだよ? 肩甲骨から生えてこないよ、進化の過程を考えると」
たしかに。
「どっちがいい?」
「何がですか?」思わず、反応してしまいました。
「腕と翼。どっちが欲しい」
「腕ですね」
「お、即答」
「腕ないと、トイレのあと尻拭けないじゃないですか」
「それだな」
ぼくとロットバルトは、こうして友だちになりました。友と呼ぶことをゆるしてもらえるのなら、ですが。少なくともぼくの側としては、生まれて初めて(母上以外に)、話の合う相手に出会ったわけなのです。