第三曲 情景(アレグロ)(3)

文字数 2,199文字

 わかってますよね、ぼくが誰か。この国でぼくの顔を知らない人はいないんだから。そのぼくが、あえて一人で来てるってことは、どういう意味かもわかってますよね。あなたは敬語を使わない。いまだにぼくの名前も訊かない。どこかの坊やだということにしておいてくれている。それが心地いいから、こうしてついてきてしまうんじゃないですか。父上が亡くなって、ぼくに敬語を使わないのは、母上お一人になってしまいましたからね。
 あなたの無礼が嬉しいんだ、ロットバルト。ぼくもたまには、人にかしずかれないですごしてみたいんです。
「ワーグナーってバカがいただろう!」
「は? 何?」
「ワーグナーだ! バイロイト(※1)!」
「自転車漕ぎながらする話じゃないですよ!」
「あいつは本当カスだな!」
「声大きい! ワーグナーファンがそのへんにいたらどうするんですか!」
「ワーグナーファンは自転車に乗らない! 乗るのはシューベルトのファンだ、魔王だ! ざまあみろ!」
「意味わからん!」
「バッハのファンは歩く」いきなりキッとブレーキをかけ、また自転車を降りて歩きだします。本当わからない。
「ワーグナーのどこがカスかと言うとだな、例えばバイロイトの椅子は、客が眠ってしまわないように硬い椅子なんだそうだ。最低だと思わないか。眠らせたくないんなら、もっと短くて楽しい劇を作れと言うんだ。『メリーウィドー』(※2)みたいなやつ」
「レハールお好きなんですか」
「この世に男と女がくっつく以外に重要なことが一つでもあるか?」
「暴論……」
「べつに男同士、女同士でもいいけどな」さらりと言い放たれて、一瞬心臓が止まりました。「とにかく人間は洞窟の壁に水牛の絵を描いてたころから、惚れた相手とくっついたりくっつけなかったりで泣いたり笑ったりしてきたし、科学が超絶に発展した未来社会でもそれはほぼ確実に変わらない。科学が進歩してもおれたち人間は進歩しない。してないだろう、現に? だいたい、何が神々のたそがれだ。人妻のたそがれじゃないか、ブリュンヒルデがスワッピングに巻きこまれるって話だ」
「あ、たしかに」
「な?」
「人妻じっさいに盗っちゃいましたしねワーグナーさん。奥さんのコジマさんて、たしか」
「そう、もとはハンス・フォン・ビューローって指揮者の嫁だった。まあ、五万歩ゆずってそういうこともあるとする、大人の事情ってやつだな。ただ、ワーグナーはビューローに自分の曲を指揮させておいて、同時進行でビューローの嫁のコジマに自分の子どもをぽんぽん産ませてた。しかもその赤ん坊たちに自作のオペラの主人公たちの名前をぽんぽん付けていった」
「うわ、それは」
「ひじょうにひかえめに言って鬼畜だと思わないか。自作のオペラのヒーローたちの名前だぞ。ジークフリートとか」
「最悪!!」
「だろ? で、コジマの父親があのリストだ、『愛の夢』、フィギュアスケートにぴったりなやつ。おれは前はリストあまり好きじゃなかったんだが、リストはね、晴れてワーグナーの略奪嫁になったコジマに呼ばれてしぶしぶバイロイトに来て、ワーグナーの芝居観て、椅子が硬かったんだろうな、疲れすぎて風邪ひいて死んだらしいぞ」
まじで(エヒト)?」
「まじで。それ聞いて、おれはがぜんリストが好きになったね」
不憫(ふびん)
「笑えるだろ? 今度から『ラ・カンパネラ』聞いたり弾いたりするとき思いだすといいぞ、こいつワーグナー聞いて死んじゃったんだよなって。八割増し感動できるから」
「何『八割増し』って」
「適当だ。あとな、あいつのオペラで、白鳥の引っぱる舟に男が乗ってくる話があるだろう」
「『ローエングリン』ですか」
「シベリアンハスキーにしろと言うんだ」
「それもう『ローエングリン』じゃないですよね。南極越冬隊ですよね」
「だって白鳥に引っぱらせたら動物虐待だろう? のど絞めて死ぬぞ白鳥。しかもその男がまた感じ悪いのな。女と結婚する条件として、自分の名前は秘密だから訊くなとか言いやがる。名前くらい言えと言うんだ。減るもんじゃなし」
「それ嫌味?」
「あ、ちがう。悪い。気にするな、口から出まかせだから」
「ぼくの名前、訊かないんですか」
「知ってる。きみはミーメだ」
「ひっど」ミーメはワーグナーの楽劇に出てくるみにくい小人の名前です。英雄ジークフリートのお守りをさせられてふりまわされて、愚痴ばっかり言ってるやつ。
「おれだったら白鳥ちゃんたちに舟なんか引かせないね。舞台に上げるよ。で踊らせる」
「白鳥踊るんですか。それタンチョウヅルのまちがいじゃないですか」
「するどいね。白鳥は基本踊らないな。どうしようかな」
「え、まさかノープランだった?」
「おれはいつだってノープランよ?」
 ロットバルトの思いつきの、湖上で白鳥が乱舞する舞台。ぼくも、観てみたいと思いました。ストーリーなんてとくになくていいんじゃないのか、恋とか愛とか。ただ美しければいい。美しければそれだけで、哀しいんじゃないかと、なんとなく思いました。


※1 バイロイトは、バイエルンの小都市の名前ですが、毎夏そこでおこなわれる音楽祭のことも、上演される劇場のことも指します。演目はワーグナーのオペラ(楽劇)限定。『ローエングリン』『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』などなど。
※2 レハール作曲の『メリーウィドー』(陽気な未亡人)はウィーン名物のオペレッタ(喜歌劇)の傑作です。
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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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