第二十一曲 テンポ・ディ・ポラッカ(ポロネーズ)あるいは乾杯の踊り (5)
文字数 1,889文字
舞台上に出ていってカーテンコールにこたえているディーディーが、ぼくらにも手をさしのべて、ソロを担当したオデットとファニイとデジレはその場で立っておじぎをしました。何? そうか、オケピでおじぎをしても一階席から見えないから、舞台まで上がってこいというディーディーの指示です。三人とも出ていきました。ああ、ひよこクラスの子たちが花束を持ってきて、三人に渡してくれたよ。天使だね! 次はきみたちの番だよ、めざせ、白鳥姫と黒鳥姫。ついでに王子も。
え、何? ぼく? ぼくは何もしてませんよ。いいって。いいから。いやだな、ぼくが前に出る必要ないのに。うそだろ、ぼくにも花束くれるの? フリーディが、さっきまで舞台でジークフリートを演じていた彼が、はにかんだ笑顔で大きなカトレアの花束を渡してくれて、カトレアの花言葉って「魔力」だそうですね、ぼくらは握手をかわしました。一瞬、彼の目が見開かれ、ぼくも感じた、彼の手から何かがぼくに流れこんできたのを、それともぼくの手から何かが流れ出していったのを。いま、始まったのだ、と直感しました。ぼくであるきみよ、どうか世界にはばたく白鳥になってくれたまえ。黒鳥でもいいけど。魔王でもいいけど。というか全部ひとりでやっちゃうんだよね、いつか。楽しみにしているよ。ぼくらは国をあげてきみを支えよう。
オデットと目が合いました。
ずっと怖くて訊けなかったのですが、思いきって今夜、彼女に尋ねてみました。ソリストとしてデビューをめざさないの、と。
それはない、と即答されました。
いいのか、それで。ベルリンで何があったんだ。
「あたしには決定的なものが欠けてるってわかったの」
「何」
「ソリストになりたいっていう気持ち」
そうか。
「コンクールに出て賞をねらって、海外を飛びまわって、聞こえはいいけど、ひとりぼっちでキャリーケースころころ引いて空港から空港へよ。そんなのあたし無理。ベルリンの人混みだけで過呼吸起こした」まじで?!「自分でもどれだけ田舎者なのって思った。思い知った。あたしの世界地図、単純なの。色が二種類しかない。《バイエルン》と《それ以外》。それ以外の世界でトップめざして、どうせ十何位とか二百何位とかで終わるより、ここでみんなと『白鳥の湖』を育てていくほうがずっといい」
彼女らしいと思いました。ぶれない。あの父にして、この娘ありです。
マリウスの満ち足りた笑顔も思い出しました。負け惜しみになりますが、と言っていました。ぼくもローザンヌ(国際バレエコンクール)でそこそこのところまでは行ったんです。けれど、何かちがうと、はやばやと気づいてしまいました。ぼくには、向いていないと。ぼくは他人に勝ちたいのでも、自分に勝ちたいのでもなかった。作品を創りたかったんです。本当に感謝します、このプロジェクトに参加させていただいて。
「あたしね」オデットの黒髪が、シーツの上に広がっていました。ぼくはそれをそっとなでながら、絹のようだと思っていました。
「あたしね、ときどき思うの」
「何を?」
「父の手につかまって、家を出たときのあたし。八歳のあたし」
この黒髪をおさげに編んだ、青い目の。ちっちゃな野生動物みたいな女の子。
「あの子が大きくなって自分になったなんて、信じられないの。というより、あの子がもういないなんて、どうしても信じられない。いまもこの世界のどこかを歩いているような気がする。あのときと同じ、まだ若い父の手につかまって」
オディール。ロットバルト。
「そうなんじゃない? きっといまも歩いているんだよ。
「そう。魔法をかけにくるの」
「魔法ね」
「だって王子さまに頼まれたから。『ぼくを封印してくれ』って」
「いやだな、覚えてたのか」
「忘れない。一生」
「封印してくれるの?」
「してあげない」
「してくれないの?」
「どうしようかな」
オディール! かわいすぎる。死にそうだ。
「ね、そういうお話書いてよ」
「ぼくが?」
「そう」
「書けないよ、お話なんて」
「大丈夫、あたしが助けてあげる。タイトルはもう考えてあるの」
「何?」
「ジークフリート・ノート」