第五曲 チャルダーシュ・後半(ヴィヴァーチェ)(1)

文字数 2,022文字

 白い石造りの侍者室は、思いのほか天井が高く、雑然としているようで整頓されていて、聖具よりはるかに多い楽譜の量にぼくは圧倒されました。小さいながらグランドピアノがあって、聖歌隊の練習に使われるのでしょう。ベーゼンドルファー(※1)でした、いいね! 古いよとロットバルトは言ったけど、そんなのかまうものか。
 部屋の隅の、壁のやや高い所から突き出して、半分欠けた石の天使が見下ろしています。少なくとも何世紀か前のもののようです。幾たびかの修復を越えて残されてきたのだろうな。
「これだ」
「連弾譜、ですか」
「きみは第一ピアノ(プリモ)だ。おれが第二ピアノ(セコンド)
 プリモが高音部、セコンドが低音部の担当です。
「え、ぼく初見(しょけん)で?」
「プリモはそんなに難しくない。行くぞ」
「ちょ、ちょっと待って。へたですよ、ぼく」
「まにあわなかったら右手だけ弾いてればいい」
「そんな乱暴な」
「知ってるか? 初見っていうのはな、一度しかできない。二度めは初見じゃないからな」
「たしかに」
「だから楽しいぞ。初めてはなんでも楽しい。記念すべき初体験だ。行くぞ」
「え、ちょ、待っ、せめて作曲者とか曲の名前」
「チャイコフスキー。『白鳥の湖(シュヴァネンゼー)』」
「白鳥の湖?」
 そんな曲、聞いたことありません。
 ロットバルトは一刻も早く弾きたそうにそわそわしています。子どもみたいだ。それをこらえて説明してくれました。
「チャイコの二大バレエは知ってるか」
「『眠れる森の美女』と『くるみ割り人形』ですか」
「そう。それが、もう一つあったんだ、幻のバレエ曲が。それが『白鳥の湖』だ。まったく照れる題名だよな。ロマンティックでどこが悪い?というな」
 照れてるひま、ないと思いますけど。
「どうも初演が大失敗したらしい。失意の作者は楽譜を封印した。その後、ゆくえがわからなくなってしまったんだ、オーケストラ総譜(スコア)の。まっとうな形で残ったのは、抜粋版の組曲だけだった。オケ譜と、このピアノ連弾譜」
「どんなお話なんですか?」
「わからない。確かなのは、白鳥の湖というタイトルだけだ。じつは」ロットバルトはふいにうつむき、抑揚のない早口で語りだしました。「おれは若い頃にこの音楽にとり憑かれて以来、ずっと楽譜を探し歩いている。少しずつ集めている。金も時間もつぎこんだ、というか、ほとんど人生棒に振ってきた。だが物語がわからない。とくに、結末が悲劇なのか大団円なのか。台本が残っていないわけじゃない、その逆だ、いくつもあってどれが正解なのかわからないんだ。それでもおれは、望みは捨てていない。資料を探すだけでなく、曲そのものにもていねいに当たれば、かならず見えてくる、聞こえてくるはずだと信じていて……ばかげていると思うか」
「思いません」正直、驚いていました。この人の辞書にも《率直》という文字があったなんて。
「きみに手伝ってほしい」
「何を?」
「だから『白鳥の湖』の再生だ。まずはまっさらな状態で聞いてみてくれ」
「でもあの、バレエ音楽ですよね」
「そうだ」
「踊り手たちが必要ですよね、それもおおぜい。振付師も。衣装も。オーケストラも指揮者も劇場も。ぼくに何が」
「いいから手伝え。ほら」ピアノ用の長椅子、自分の右隣を指さしています。ここに座れということらしい。わかりましたよ、座ります。
「本当にへたですから」
「弾ける」
「知りませんよ」
「行くぞ」
 セコンド、スフォルツァンド(※2)のトレモロ(※3)から入るんだ。ロ短調(ハーモール)か。え、もうぼく?
「早く」
 プリモ、たしかに最初は右手のメロディだけだ。楽器、何なんだろう。ヴァイオリン? 管楽器のソロ? えっ——
「待って」
 最初の四小節を弾いただけでぼくが止まってしまったので、ロットバルトはあきれた顔でぼくを見つめました。
「どうした」
 何だろう。心臓が早鐘を打っています。これ、先へ進んでいいんだろうか。何か恐ろしい予感がする。
「ちょっといいですか。この、三小節目の、ここ」
「何だ」
「これ、ゲー(ソ)じゃなくて、フィス(ファのシャープ)じゃないんですか? ミスプリントじゃ——」
「バカ、ちがう」バカ呼ばわりされたよ?「ゲーで合ってる。全篇これなんだ。これが主題(テーマ)だ」
「でもこの半音高いの、エグいですよ? ざわざわするというか」
「それがテーマなんだ!」


※1 ベーゼンドルファーは、世界三大ピアノといわれる名器のうちの一つです。あとの二つはスタインウェイ&サンズとベヒシュタイン。スタインウェイは華やかでコンサートやコンクールに向いていますね。ぼくの愛器はベヒシュタインで、透明感のある音が気に入っているのですが、ベーゼンドルファーは落ちつきがあって、三つの中では聖歌隊の伴奏にいちばん向いている気がします。
※2 スフォルツァンドは、音に強いアクセントをつけて演奏することです。
※3 トレモロは、同じ高さの音を小刻みに、または二つのちがう高さの音を交互に、すばやく演奏することです。ぷるぷるふるえる感じが出せます。
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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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