第二十曲 情景(アレグロ・アジタート、コン・パッシオーネ)(5)
文字数 3,940文字
「抜粋上演でも、最終幕ができたら盛り上がると思うのですが」とマリウス。「悲劇にしますか、ハッピーエンドにしますか?」
「悲劇は不吉よ」とクローディア。「いま、ね、殿下はお妃さま選びのさいちゅうで……やっぱりハッピーエンドでないと」
ぼくが照れて「お気遣いなく」と言うと、みんな笑いました。
「それにしても、何がしたいんでしょうね、ロットバルトは」とマリウス。「ぼくも演じようとしてみて、いまいちよくわからないんです。あんな悲惨な目にあわせるなんて、姫と王子にどんな落ち度があったというんでしょうか」
「私もそれ不思議です」とクローディア。「白鳥はペットにして楽しんでいるのだとしても、王子さまをいったいどうしたいのか。王国が欲しいのかな?」
「王国をねらうなら白鳥なんか飼ってる場合じゃないだろう」
「そうね、たしかに」
「何も考えてないんじゃないの? ばかなんだよ、悪魔だから」これはディーディー。それうけすぎだよ、フリーディ。彼もすっかり、ディーディーになついてしまったみたいです。ディーディーも笑って、「きみはどう思う」とフリーディに尋ねました。
少年はためらったあげく、小さな声で「言っていいですか」と言いました。
「いいよ。何でも言ってごらん」
「ぼく」顔を上げたフリーディの透きとおった灰緑色の目は、文字どおり輝いていました。「ぼくが全部踊りたいです」
「全部?」
「はい。白鳥も、黒鳥も、ぼくが。もちろん王子も。王子のお母さんも、侍従の子も」
「魔王も?」
「魔王も!」
「それは夢にも考えたことがなかったな」ディーディーの目も面白そうに光っています。レストランの中がほどよく暗いので、ぼくらみんな瞳が開いて、灯りが映りこみやすくなっているのです。「ひとりで全部とは」
「だってどの曲もいい曲なんです」フリーディはせきこむように言いました。「どの曲も。他の子が踊ってるあいだ待つのはくやしい。ぼくが踊りたい。もともと全部、ひとりの人の中にあった音楽なんですよね、チャイコフスキーさんの。だったら、ぼくがひとりで全部踊れないわけがない」
とほうもないこと言い出した。ぼくら四人はただ茫然として、ビールの泡が消えるのも忘れてフリーディの熱弁に聞き入っていました。『白鳥の湖』全曲をひとりで踊る? どう考えても人間の限界をはるかに超えています。だけど——
「じつはぼく、自分でもう振り付けを何通りか考えてあるんです。悲劇もハッピーエンドもビタースイートもあります」ビタースイートって。「今日殿下にお見せしたかったんですけど、ちびたちと女の子たちがいたからできなかったんです。正直言っていいですか、本当のこと。本人たちにぜったい言わないでくださいね。ビアンカもメラニーもいらないです。ご存じですか、男のダンサーなんて基本、女の人を持ち上げるための要員なんです。本当つまらないの。ぼく彼女たちのぶんまで三人分踊れるのに」
「じゃあぼくもお役御免なのか」マリウスが口もとをほころばせています。
「兄さんは必要です。ぼくをリフトして運んでくれないと。魔王が王子を連れていこうとするんでしょう。そういう話だよね、これ。本当言うと、ぼくいまごはん食べてるどころじゃないんです。殿下このあとお時間ありますか。学校に戻ってくれませんか。ぼく踊るので見てください。だめですか。だめなら明日ぼくがお城へ踊りに行きます」
少年の勢いに圧倒されたぼくらは、食事もそこそこに切り上げてバレエ学校へ戻りました。それからフリーディは四時間踊りつづけ、クローディアがへとへとになってリタイアした後はマリウスにタンバリンを叩かせて踊りつづけ、午前二時を回っても元気いっぱいで、まだ踊りたそうでした。本当に、天才と狂気は紙一重ってこのことだ。狂ってるよ、フリーディ。かわいいけど。
かわいい——
何だろう、これ。ぐったりと脚を投げ出して座り、眠気と闘いながら、ぼくはその眠気とは別の何かがじわじわと自分を浸食していくのを感じていました。いつもの透明な波。またあなたですか、ピョートル・イリイチ? でも、少しちがう気もします。もっと何か、近い。そう、同じこと、いつか、誰かに、言われた。
かわいい、と思ってしまったんだ。
なんとかしてやりたいと。
きみに夢中で。
ぼくは何をしたらいい、きみのために? 何をさせてもらえる?
魔王が王子を連れていくんでしょう。
シューベルトの魔王だ。ざまあみろ!
はっとして目をやると、やはり脚を投げ出して壁に寄りかかり、うとうとしています。ロットバルト。
そうだよ。
あなただ。ぼくがいま共振しているのは。ぼくらは同じ
そこから逃れるには。その誘惑から逃げきるには。
湖にこの体を投げ捨てる。愛そのものを捨てる。残るのはただ、祝福。
幸あれと
。そんなふうに愛せたら——もう何も恐れるものはない。
ぼくがいきなり立ち上がったので、みんな驚きました。
「ハッピーエンドにしよう、フリーディ」
汗だくの少年は、不思議そうにぼくを見ています。
「ハッピーエンドで何が悪い。そうだろう、フリーディ?」ぼくにそう言ってくれた人がいたんだよ。やっとわかった。「きみが舞台の上でのたうちまわって死ぬところなんか見たくない。ハッピーエンドにしてくれたまえ。決まりだ」
「舞台の上でのたうちまわって死ぬの、楽しいですよ?」フリーディはにこにこしています。
「見せられるほうはたまったものじゃない」ぼくがおおげさな悲痛さをこめて言ったので、大人三人も笑いました。「悲劇バージョンは将来きみが外国で活躍するときまでとっておいてくれ。そうでしょう」フォーゲル夫妻に向き直って、ぼくは続けました。「子どもたちのご両親が見に来ますよね。小さな弟や妹たちを連れてくるかもしれない。その子たちはバレエを見るのが生まれて初めてかもしれないんです。そんな子たちに、ひとつも悪くない姫と王子が、悪魔にだまされてあやまちをおかして、その罰で死ぬお話なんて見せたくない。大人はいいんです。オデットのなきがらを抱きしめてジークフリートが涙にくれるラストでも、母の王妃が男たちと情事にふけりまくったあげく、ジークフリートのなきがらを抱きしめて涙にくれるラストでも、大人たちはそれぞれ身につまされて、ブラボーとか言っていればいいんだ。だけど、子どもには。子どもたちには、ぼくは、この世は美しいものがある場所だと、生きるに値する場所だと、信じてもらいたい」
「それだな」ロットバルトがそっとささやくのが聞こえました。「それだ、シギイ」彼がぼくをシギイと呼んでくれたのは初めてです。
「ディーディー」
「うん?」
「スマフォ貸して」
「どうするんだ」
彼の手からひったくるようにして取ったものの、何をどうしたらいいのかわかりません。
「どこ押すの?」
「何が」
「オデットにかける」
「なんだそれは、いま夜中の——いいけど」
押してもらって、手渡されました。なんだかよくわからないふにゃふにゃしたプリセットのメロディ。早く出てくれ。心臓が割れそうだ。
「もしもし?」
ものすごく眠そうな声。あたりまえだ、ごめん。
「オデット」
走るとみっともないと思って、早足で廊下に出たけれど、じゅうぶんみっともなかった。フリーディのけげんな視線が刺さります。くそ、きみの前ではかっこいい男でいたかったよ、少年。
廊下の壁に向かって立ち、声を殺して言いました。
「オデット。帰ってきて」
何かが床に落ちる音がしました。目覚まし時計か何か。
「帰ってきてくれ。早く」眠気と興奮とで、何を言おうとしたのか、わやくちゃでした。「このままだとぼくはだめになりそうだ。早く帰ってきて、ぼくを——封印してくれ」何を言ってるんだ。「帰ってきてくれるなら、何でもする。何でも」
沈黙。ああ、だめか。なさけない。いたたまれなくなって、切ろうとしました。画面を見たけど、どこを押せばオフになるのかわかりません。まごまごしていたら、板の中から小さな声がしました。
「……しなくて、いいのに」
えっ?
耳に当てると、なつかしい声。
「何もしなくて、いいのに」
オデット。いま、笑った……?
笑ったよね。ふふっ、って。
オデット。
★ヴェルテンブルク大修道院は実在します。本当に美しい所です。ドナウ下りの船旅で行くと最高です。
https://www.bayern.jp/weltenburg-abbey-bavaria-germany