第二十曲 情景(アレグロ・アジタート、コン・パッシオーネ)(5)

文字数 3,940文字

 見学の後、五人で食事に行きました。マリウスとクローディアのフォーゲル夫妻と、フリーディと、ディーディーとぼく。有名なヴェルテンブルクのクラフトビールを出してくれるレストランで——ヴェルテンブルクはドナウの峡谷にある夢のように美しい大修道院(クロスター)。中世から続く醸造所が有名で、うたい文句は「天国にいちばん近いビール」! ぼくら四人はもちろんそのビール(ヴェルテンブルガー)のジョッキ、フリーディはアプフェル・ショレを注文しました。りんごジュースを炭酸で割った、食事のお供の定番です。話はけっきょく、舞台の続き。
「抜粋上演でも、最終幕ができたら盛り上がると思うのですが」とマリウス。「悲劇にしますか、ハッピーエンドにしますか?」
「悲劇は不吉よ」とクローディア。「いま、ね、殿下はお妃さま選びのさいちゅうで……やっぱりハッピーエンドでないと」
 ぼくが照れて「お気遣いなく」と言うと、みんな笑いました。
「それにしても、何がしたいんでしょうね、ロットバルトは」とマリウス。「ぼくも演じようとしてみて、いまいちよくわからないんです。あんな悲惨な目にあわせるなんて、姫と王子にどんな落ち度があったというんでしょうか」
「私もそれ不思議です」とクローディア。「白鳥はペットにして楽しんでいるのだとしても、王子さまをいったいどうしたいのか。王国が欲しいのかな?」
「王国をねらうなら白鳥なんか飼ってる場合じゃないだろう」
「そうね、たしかに」
「何も考えてないんじゃないの? ばかなんだよ、悪魔だから」これはディーディー。それうけすぎだよ、フリーディ。彼もすっかり、ディーディーになついてしまったみたいです。ディーディーも笑って、「きみはどう思う」とフリーディに尋ねました。
 少年はためらったあげく、小さな声で「言っていいですか」と言いました。
「いいよ。何でも言ってごらん」
「ぼく」顔を上げたフリーディの透きとおった灰緑色の目は、文字どおり輝いていました。「ぼくが全部踊りたいです」
「全部?」
「はい。白鳥も、黒鳥も、ぼくが。もちろん王子も。王子のお母さんも、侍従の子も」
「魔王も?」
「魔王も!」
「それは夢にも考えたことがなかったな」ディーディーの目も面白そうに光っています。レストランの中がほどよく暗いので、ぼくらみんな瞳が開いて、灯りが映りこみやすくなっているのです。「ひとりで全部とは」
「だってどの曲もいい曲なんです」フリーディはせきこむように言いました。「どの曲も。他の子が踊ってるあいだ待つのはくやしい。ぼくが踊りたい。もともと全部、ひとりの人の中にあった音楽なんですよね、チャイコフスキーさんの。だったら、ぼくがひとりで全部踊れないわけがない」
 とほうもないこと言い出した。ぼくら四人はただ茫然として、ビールの泡が消えるのも忘れてフリーディの熱弁に聞き入っていました。『白鳥の湖』全曲をひとりで踊る? どう考えても人間の限界をはるかに超えています。だけど——
「じつはぼく、自分でもう振り付けを何通りか考えてあるんです。悲劇もハッピーエンドもビタースイートもあります」ビタースイートって。「今日殿下にお見せしたかったんですけど、ちびたちと女の子たちがいたからできなかったんです。正直言っていいですか、本当のこと。本人たちにぜったい言わないでくださいね。ビアンカもメラニーもいらないです。ご存じですか、男のダンサーなんて基本、女の人を持ち上げるための要員なんです。本当つまらないの。ぼく彼女たちのぶんまで三人分踊れるのに」
「じゃあぼくもお役御免なのか」マリウスが口もとをほころばせています。
「兄さんは必要です。ぼくをリフトして運んでくれないと。魔王が王子を連れていこうとするんでしょう。そういう話だよね、これ。本当言うと、ぼくいまごはん食べてるどころじゃないんです。殿下このあとお時間ありますか。学校に戻ってくれませんか。ぼく踊るので見てください。だめですか。だめなら明日ぼくがお城へ踊りに行きます」
 少年の勢いに圧倒されたぼくらは、食事もそこそこに切り上げてバレエ学校へ戻りました。それからフリーディは四時間踊りつづけ、クローディアがへとへとになってリタイアした後はマリウスにタンバリンを叩かせて踊りつづけ、午前二時を回っても元気いっぱいで、まだ踊りたそうでした。本当に、天才と狂気は紙一重ってこのことだ。狂ってるよ、フリーディ。かわいいけど。
 かわいい——
 何だろう、これ。ぐったりと脚を投げ出して座り、眠気と闘いながら、ぼくはその眠気とは別の何かがじわじわと自分を浸食していくのを感じていました。いつもの透明な波。またあなたですか、ピョートル・イリイチ? でも、少しちがう気もします。もっと何か、近い。そう、同じこと、いつか、誰かに、言われた。
 かわいい、と思ってしまったんだ。
 なんとかしてやりたいと。
 きみに夢中で。
 ぼくは何をしたらいい、きみのために? 何をさせてもらえる?
 魔王が王子を連れていくんでしょう。
 シューベルトの魔王だ。ざまあみろ!
 はっとして目をやると、やはり脚を投げ出して壁に寄りかかり、うとうとしています。ロットバルト。
 そうだよ。
 あなただ。ぼくがいま共振しているのは。ぼくらは同じ(デーモン)に魅入られ、同じ罪を犯しつつある。愛しすぎるという罪。小鳥をうっかり手の中でひねりつぶしてしまうように、かぎりなくいとおしいと思う気持ちは、加減ひとつで破壊衝動に変わる。シューベルトの傑作歌曲、『魔王』。さらわれて殺されるおさな子には、なんの落ち度もない。その逆だよ、マリウス。一点のけがれもないからこそ、連れ去られてしまうんだ。白鳥と王子が力を合わせて抵抗しなければならない敵の名前は、悪ではない。それも、愛なんだ。つかまったら最後ぼくらの誰もが逃れるすべを知らない、愛という名の、支配、暴力、破壊——
 そこから逃れるには。その誘惑から逃げきるには。
 湖にこの体を投げ捨てる。愛そのものを捨てる。残るのはただ、祝福。


 そんなふうに愛せたら——もう何も恐れるものはない。
 ぼくがいきなり立ち上がったので、みんな驚きました。
「ハッピーエンドにしよう、フリーディ」
 汗だくの少年は、不思議そうにぼくを見ています。
「ハッピーエンドで何が悪い。そうだろう、フリーディ?」ぼくにそう言ってくれた人がいたんだよ。やっとわかった。「きみが舞台の上でのたうちまわって死ぬところなんか見たくない。ハッピーエンドにしてくれたまえ。決まりだ」
「舞台の上でのたうちまわって死ぬの、楽しいですよ?」フリーディはにこにこしています。
「見せられるほうはたまったものじゃない」ぼくがおおげさな悲痛さをこめて言ったので、大人三人も笑いました。「悲劇バージョンは将来きみが外国で活躍するときまでとっておいてくれ。そうでしょう」フォーゲル夫妻に向き直って、ぼくは続けました。「子どもたちのご両親が見に来ますよね。小さな弟や妹たちを連れてくるかもしれない。その子たちはバレエを見るのが生まれて初めてかもしれないんです。そんな子たちに、ひとつも悪くない姫と王子が、悪魔にだまされてあやまちをおかして、その罰で死ぬお話なんて見せたくない。大人はいいんです。オデットのなきがらを抱きしめてジークフリートが涙にくれるラストでも、母の王妃が男たちと情事にふけりまくったあげく、ジークフリートのなきがらを抱きしめて涙にくれるラストでも、大人たちはそれぞれ身につまされて、ブラボーとか言っていればいいんだ。だけど、子どもには。子どもたちには、ぼくは、この世は美しいものがある場所だと、生きるに値する場所だと、信じてもらいたい」
「それだな」ロットバルトがそっとささやくのが聞こえました。「それだ、シギイ」彼がぼくをシギイと呼んでくれたのは初めてです。
「ディーディー」
「うん?」
「スマフォ貸して」
「どうするんだ」
 彼の手からひったくるようにして取ったものの、何をどうしたらいいのかわかりません。
「どこ押すの?」
「何が」
「オデットにかける」
「なんだそれは、いま夜中の——いいけど」
 押してもらって、手渡されました。なんだかよくわからないふにゃふにゃしたプリセットのメロディ。早く出てくれ。心臓が割れそうだ。
「もしもし?」
 ものすごく眠そうな声。あたりまえだ、ごめん。
「オデット」
 走るとみっともないと思って、早足で廊下に出たけれど、じゅうぶんみっともなかった。フリーディのけげんな視線が刺さります。くそ、きみの前ではかっこいい男でいたかったよ、少年。
 廊下の壁に向かって立ち、声を殺して言いました。
「オデット。帰ってきて」
 何かが床に落ちる音がしました。目覚まし時計か何か。
「帰ってきてくれ。早く」眠気と興奮とで、何を言おうとしたのか、わやくちゃでした。「このままだとぼくはだめになりそうだ。早く帰ってきて、ぼくを——封印してくれ」何を言ってるんだ。「帰ってきてくれるなら、何でもする。何でも」
 沈黙。ああ、だめか。なさけない。いたたまれなくなって、切ろうとしました。画面を見たけど、どこを押せばオフになるのかわかりません。まごまごしていたら、板の中から小さな声がしました。
「……しなくて、いいのに」
 えっ?
 耳に当てると、なつかしい声。
「何もしなくて、いいのに」

 オデット。いま、笑った……?
 笑ったよね。ふふっ、って。
 オデット。



★ヴェルテンブルク大修道院は実在します。本当に美しい所です。ドナウ下りの船旅で行くと最高です。
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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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