第四曲 チャルダーシュ・前半(モデラート・アッサイ)(2)
文字数 2,294文字
「それで?」
「その人は自殺しました。釈放されて帰った翌日、飛び降りて」
「そう……」
「あの手を振りはらってはいけなかったと思いますか。愛してくれたことに感謝して、彼女と結婚すべきだったと思いますか。結婚して、たぶん三十日くらいで耐えられなくなって別居して、そのあと一生仕送りをするべきだったと思いますか、皆の笑いものになりながら」
「きみのせいじゃない」
「でも死んでしまった」
「関係ない」
「あなたはぼくじゃないからそう言えるんです。ベンノはね。べつにぼくをかばって、ぼくを突き飛ばして車にはねられたわけじゃない、そんなドラマティックな話じゃないんですよ。だけど彼がぼくのために買い物に行ったことは事実で」
「それが彼の仕事なんだろう」
「ぼくが自分で行ったらぼくがはねられていた」
「そんなことは」
「ないって言いきれますか。十四のときにね」この話はしないほうがいいと思いました。もう声が割れかけているのが自分でもわかったから。でも止められなかった。「家庭教師が。ずっと長くつとめてくれた人でした、ぼくがまだ子どものころから。本当にかわいがってもらって、いろいろ相談にも乗ってもらって、授業はいつも楽しかった。楽しみでした。ある晩、先生から電話がかかってきたんです。ろれつが怪しくて、何を言っているかわからない。泥酔していました。飲む人ではなかったのに。訊かれたんですよ——いまどんな下着付けてるのって。他にもいろいろ。どうしますか、あなただったら。うちの電話だから盗聴されているかもしれないんですよ。笑うしかないと思いませんか。ぼくは笑いましたよ。何を言われているのかわからないふりをしました。他にどうすればよかったんでしょうか。先生、酔ってらっしゃるんですね。お酒はほどほどになさってくださいね。ぼく眠いので寝ますから。おやすみなさいと言いました。その明け方にね」
「もう言うな。もういい」
「死ぬのは卑怯だと思いませんか」
「きみのせいじゃない」
「ぼくがもっと早く気がついていれば」
「何かされたのか」
「されてないです。でもそれ以上だ。されていたら憎めた。いまでも気の毒だったと思っているんです、本当に。彼の欲望にこたえてあげるべきだったでしょうか」
「バカを言うな」
「よりによって、それが」そう言ったのは本当にぼくだったのだろうか。もう、自分の声ではないように感じていました。「父の亡くなる前日でした」
そう。父上の亡くなる、前の日でした。
数十時間ぶりに父上に意識が戻り、母上とぼくは病室に呼ばれたのです。しばらくことばをかわした後、父上の願いで、母上が席をはずし、ぼく一人が枕もとに残りました。出ていく母上の後ろ姿を、父上は微笑んで見送っておられました。「やはり、白が、似合う」とつぶやかれた。輝くような笑顔でした。沈む直前の、夕陽。
「ジークフリート」
「はい」
父上の手を握りました。あのときはまだ、温かかった。どうしたらいいかわからず、ぼくは何度も持ちかたを変えて、握りつづけました。
大丈夫か、と、訊かれました。父上にですよ。ぼくがです。
大丈夫です、と答えました。
他に答えようがありますか?
「苦労をかけるな。すまない」
「ちがいます。そんなこと仰らないでください」
「ひとつ」息をととのえようとなさっていた。「ひとつ、頼みがある」
父上、もう、あまり、お話しにならないほうが、いいのではないでしょうか。そう思いながらもぼくは、全身を耳にして聞いていました。
「
「本?」こんなに弱った手の力で、書物のページをめくることが、おできになるだろうか。それより、お目が、もう。「わかりました。何の本ですか?」
「カミュの、シーシュポスだ」
「シ……」
「『シーシュポスの神話』だ」
アルベール・カミュ著、『シーシュポスの神話』。シーシュポスは、ギリシア神話の登場人物です。何かの罪で(何かは忘れました)地獄に堕とされた彼は、そこで永遠の業罰を受けます。その業罰というのが、
重たい岩をころがして山頂まで運びあげるのだけれど、
山頂に到達した瞬間、かならず岩は谷底に落ちる、
それをまた、ころがしていく、
という拷問。
生きるというのはそういうことだ、と、カミュは誇り高く宣言します。シーシュポスは罪人ではない。ぼくらの英雄だ、と。
いま、それを読むのですか、父上?
いま?
この、激痛と苦闘の果ての、最後の時間に?
ふっと、父の手から力が抜けて落ちかかり、ぼくの背後で医師たちがいっせいに立ち上がりました……