第一曲 テンポ・ディ・ヴァルス(ワルツ)(1)
文字数 3,027文字
今朝の朝食のオムレツに、ケチャップでハートマークが書いてあるのを見たとき、ぼくの絶望がどれほど深かったか、母上、おわかりになりますか。そろそろお返事をなさいね、という意味ですよね。優雅なお手でスプーンをかまえ、ひらり、ひらりとスープをお召し上がりですが、少しにこにこしすぎではないですか。息子がこんなに苦しんでいるのに。
「母上」
「決まった?」
お食事中に立ち上がるのは、よくないと思います。
「そのことなのですが、ぼくなりに考えて」
「ああそう」母上はしずしずと腰を下ろされました。「言ってごらんなさい」
ぼくはナプキンで口をぬぐいました。心のエンジンをふかし、アクセルを静かに踏みます。
「二つ、案を考えました。どちらからお聞きになりたいですか?」
「そうね、ほんの少しでも可能性のあるほうから
さすが母上、ぼくの母親を二十年やってきただけのことはありますね。ぼくは深く息を吸いこんで整えました。
「立ったほうがよろしいでしょうか」
「いえ、そのままでけっこうよ」
「では失礼して、その……五人まとめてというのはいかがでしょうか」
静寂。
「ジークフリート」母上の鈴をふるようなお声に、笑いがにじんでいます。「あなたらしくて面白いこと。でもちょっと現実的ではないわね」
「なぜでしょうか。土日か月木にお休みをいただければ、単純計算で一週間に五人までは対応可能ですが」
「そういう意味じゃなくてね」
「先日の健康診断で、ぼくは機能的には何の問題もないと言われました。むしろ平均値をかなり上回っていると。形質、持続力ともに」
「大変な検査だったそうね、かわいそうに。疲れたでしょう?」
「それほどでも。途中で医師団が業を煮やしてぼくを催眠分析にかけたので、そこからは記憶がないのです。へんなことを口走ったらいやだと思って抵抗したのですが」
「口走ったの?」
「いえ。何を質問されてもただ『毛細管現象』とつぶやいていたらしいです」
「じゅうぶんへんだと思うけど」
「次、行ってよろしいですか?」
「ええ、おつづけなさいな」
「五人まとめては合理的だと思うのです。オリエントでは第四夫人まで認められると聞きます。さらにニッポンという国では、ロード・ヒカルゲンジという貴族が何人もの妻を広い敷地内に住まわせ、皆で幸せに暮らしているとか。これを機会に、わが国でも取り入れたらいかがでしょう?」
「またご本の読みすぎね、ジークフリート。あのテイルオブゲンジの新訳は去年出たものだけど、原作が書かれたのは千年前よ。いまはさすがにヤーパン(日本)も一夫一婦制ですよ。たしか」
「そうなんですか。奥付をちゃんと確認しなかったな、ぼくのミスです。ひじょうに効率の良い、画期的なシステムだと思ったのですが、とくにリスク分散という点に関して」
「もしかしてあなた、もう全部読んだの? 五十四巻」
「はい。途中でうっかり眠ってしまったので、二晚かかりましたけど。対人評価がやりとりする手紙の紙の質や色の選びかたで決定されていくという設定が、斬新だと思いました。しかも手紙にはポエムがマストなのですよね。そのポエムの良し悪しがダイレクトに昇進に影響してくるあたり、高度にソフィスティケイトされた社会の」
「話をもとに戻しましょうね。どうしてあの五人から一人選べないの?」
「後の四人をむなしく帰らせるにしのびません。せっかく遠路はるばる来てくれたのに」
「だからって全員と結婚するなんて、傷つくのは彼女たちよ」
「いえ、たぶん、いちばん傷つくのは選ばれた一人です」
「またまた」
「本当です」思わず悲痛な声が出て、なさけなくなりました。「だってぼくの妻になるのですよ。そんな気の毒な話があるでしょうか。一対一で一生ぼくとつきあうなんて」
「この国の年頃の娘はほぼ全員、あなたの妻になりたがっていますよ」
「ぼくの見た目にだまされているだけです。ぼくだって好きこのんでこんな顔に生まれたわけではないのです。その点に関しては母上をお恨みいたします。ぼくは結婚には向いていない、そのことは母上もよくご存知ではありませんか。興味がないのですから」
「そうねえ。でもそこをなんとか、興味を持つようにはなれなくて?」
「最大限の努力はしています。ちゃんとあの姫たちと踊ったじゃないですか。皆さんお美しいと思いましたよ。優劣つけがたい」
「ひとからげはよくないわ。おひとりおひとりとお話ししたの?」
「しました」
「それで? アレクサンドラ姫は?」
「完璧な愛らしさですね。理想の妹です」
「フランチェスカ姫は?」
「手が小さくて魅力的だし、髪の手入れもゆきとどいていました。歯並びもきれいですから、丈夫で長生きしてくれそうかと」
「ツェツィーリア姫は?」
「ご旅行が趣味だそうです。愛読書は時刻表と地球の歩き方。荷造りもお得意だそうなので、海外視察のときには頼りになりますね」
「カロリーナ姫は?」
「ダックスフントのグッズをコレクションしておられるそうですよ。今度見せていただく約束をしました」
「エスメラルダ姫は?」
「さっぱりしたご気性なので、よいお友だちになれそうです」
笑っておられますね、母上。ぼくは笑うどころではないのですが。
「あの、一つ質問してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「そもそもですね、なぜ、結婚と恋愛と子作りとが三点セットでなければならないのでしょうか?」
「ええっとね……」
「すみません、問題を細分化してみます。じゃあまず子作り関連から。うちの王家、ぼくの代で断絶しちゃだめですか?」
「うわー、それ言われると、わたくし自身の人生も水の泡な感じが」
「ああすみません! でもこの規模の弱小国家なんだから、いっそ共和国にしちゃうとか?」
「この規模だからこそよ。風光明媚で、素敵なお城と湖があって、世界遺産登録ずみの教会があって、うちの国ほかに観光資源がないじゃない。あなたがバルコニーから手を振ってくれないと困るのよ。またプリンスやめたいなんて言わないでね。わたくし、国民の皆さまに恨まれてしまうわ」
「名物のいちご入りザッハトルテもありますよ?」
「ザッハトルテとあなたなら、あなたのほうがはるかに外貨を稼いでいるの」
「ですよね。そうだ、ぼくの子どもの頃の海水パンツ姿の写真をプリントしたマグ、あれ売るのやめさせるわけにはいきませんか? 児童ポルノに出ている気分です」
「わたくしも業者に言ったのだけれど、コピー物があとを絶たないのよ」
「あああ」
「本当にかわいそうだけどあきらめてちょうだい。わたくしたちに人権はないの」
「動物園の絶滅危惧種と同じですね、パンダとかトラとか。そのかわり生活は保障されているわけだけど」
「パンダだってがんばっているんだから、あなたもがんばって」
「きつい。いや、がんばります。がんばるって言ってるじゃないですか、結婚と子作りについては。そこに愛とか恋とか上乗せしないでいただければ、なんとか」
母上のため息を聞くと、この身を裂かれる思いです。こんな息子で本当に申し訳ありません。