第五曲 チャルダーシュ・後半(ヴィヴァーチェ)(2) ★BGM付
文字数 3,315文字
つまり、ふつうだったら「ミーラシドレミードミー、ドミーラドラ
ミ
ドラ」が自然なのです。なのに「ドラファ
ドラ」。「いいか、ここがフィスだったら」ロットバルトは執拗に黒鍵をたたきました。「この四小節は死ぬほど平凡だ。
「あっ」
「『ローエングリン』の禁問の
全身が、さっと総毛立ちました。
「誰が?」
「誰だと思う」
「白鳥が? 白鳥って誰?」
「だから弾くんだ。行くぞ。最初から」
トレモロ。主題。主題の反復。セコンドの左手、半音階のねじれるような下降。苦しんでいる。誰が? そして第二主題。プリモにも左手が加わる、波のような三連符の分散和音。あ、明るい、一瞬だけ並行調(※3)の
「すみません」
たった一ページ。もう、先へ進めませんでした。どうして、たったこれだけで、涙が出るんだろう。ロットバルトも黙って楽譜を見つめています。
「これ、ぜったい悲劇ですよね。この主人公は出られないんだ、外に」
「わかるか」かすかな声でした。
「これ以上弾けないです。つらすぎる。怖すぎる」
「じゃあ——」しばらく黙っていて、立ち上がりました。「帰るか」
「待ってください」
楽譜を閉じようとする彼の手を押さえました。どうしよう。もう時間もないのに。
「このまま帰れません」
「だろう?」
「やっぱり弾きます。弾かせてください。先が知りたい」
ぼくらは弾きました。なにこの和音凄い、狂ってる! ちがう、問題は和音じゃない、よく聴け、縦の線じゃなくて横だ。あっ。この、はらわたをくりかえしえぐるような
なんて多弁な、ほとばしるような音楽。
第二曲、テンポ・ディ・ヴァルス。えーこれすごくハッピーじゃないですか、楽しい! 幸せな時間もあるんだな。わ、拍がわかんない、一と二と三と四とタ・タ・ターンタ……失敗。もう一度! あっと、近い、すみません腕ぶつかる。これ二台のピアノ用なんじゃないですか? いいから弾け。うわこの
第三曲、白鳥の踊り。でもこれ、白鳥っていうより、なんかスズメみたいですね、ぴょこぴょこしてる。ひよこだな。第四曲、パ・ド・ドゥ、グラン・アダージオ。えっ……なにこれ。エロい。出だしから。きみは本当に感じやすいな。えっでもぜったいラブシーンですよねこれ。白鳥、鳥どうし? それじゃ三秒で終わるぞ。そうか。ああなんか気持ちいいこれ。しゃべってますね。身の上話? 誰だろうこの人。女だ。いまおれが男なの。えーそうなの? そのうちわかる。ほら。あ! セコンドが返事した! 会話してる。だろ? ああ、最後、トリル、羽ばたきが、プリモだけに。ということは…… そう、女が白鳥だ。男は人間。
第五曲。チャルダーシュ。出だしゆっくり。ものがなしいですね。やっぱり悲劇なのかな。いや、たんにチャルダーシュ(ハンガリー舞曲)だからものがなしいだけだ。そうなの? いいか、後半見てろ。ほら。あ、来た、これか! ちょ待っ、速すぎ、無理! 無理なら右手だけ弾いてろ! いやだ、くやしいから弾いてやる! 来い! いやそれは無理! まだまだ!
五曲を弾き終わったときは、へとへとになっていました。ぼくだけ。なんだかすごく負けた感があります。それも心地いいけど。気づけば夕闇。第六曲のフィナーレが残っていますが、さすがにもう、タイムアウトでした。
チャイコはいいぞ。と、彼は言いました。
おれも若造のころは周りに合わせて、チャイコなんか軟弱だなんて鼻で笑うふりをしていた。とがったつもりで現代ものばかり弾いていたよ、最終破壊兵器みたいな巨大なオルガンでね。そのくせこっそり楽譜を集めてた、人に頼まれてとかなんとか言い訳まででっちあげて。ばかみたいだろう?
今日きみに弾いてもらったグラン・アダージオ。初めてあの曲を読んだとき、おれはふるえたよ。膝をついた。というのはうそだ、だがほとんど膝をつくくらいがくがくした。言葉にするとくだらなく聞こえるだろうが、つまり——自分の未来がここに書かれている、と感じたんだ。もう、逃れられないと。まだ運命の女に出逢うはるか前の日のことだ。いまのは笑うところだぞ。そう、だいぶわかってきたな。
この曲には、一点のくもりもない。
かぎりなく透明なひとつの声が、自分が何を求めているか、告白している。何を? わかるな。そう、自由だ。解放だ——自分自身からの。
そしてもうひとつの声が、それに寄り添う。すべてを投げうって協力を申し出る。ともに、探そうと。
これが愛だ。
こんな曲を書いた人間が、他にいるか?
この音楽を広めたいと思わないか。世界に知らしめたいと思わないか。
世界がこれを知らないのは、ほとんど罪だと思わないか。いま、こういう音楽こそが必要だと思わないか、この傷ついた、行く先を見失っている世界に。
もう、やるしかないと思わないか。
おれたちは。
★BGM:(映ってるのぼくたちじゃなくてごめんね!)
『白鳥の湖』組曲・ピアノ連弾版より「情景」
https://www.youtube.com/watch?v=aE5FvlY7o9s
同「ワルツ(王子の誕生日祝いの)」
https://www.youtube.com/watch?v=hca8OA7bII8
「チャルダーシュ」は連弾の映像がなかったので、マリインスキー劇場のバレエ(オーケストラ)から。
https://www.youtube.com/watch?v=AbTzXWtUEvc
後半(1分36秒~)、高速回転になってからがかっこいいです。でもこのシーンは舞踏会の招待客たちの踊りなので、ぼく、じゃなかった、ジークフリート王子はいません。裏で休んでます(笑)。
かんじんの「グラン・アダージオ」は……第九曲までお待ちください。乞うご期待!
※1 属七が属九にとかって、すみません、何言ってるか意味不明ですよね。ようするにすごく頭でっかちであいだが空いてて不安定な和音なんです。
※2 主和音は、ようするに、その調でいちばん落ちつく和音のことです。長調ならドミソ、短調ならラドミ。
※3 並行調は、ようするに、おたがいにいちばんなじんで聞こえる長調と短調のペアのことです。楽譜の上ではシャープ♯やフラット♭の数が同じになります。二卵性双生児みたいな感じ。
※4 ユニゾンは、複数の奏者が同じ音を奏することです。