第十七曲 小さな白鳥たちの踊り (5)
文字数 2,202文字
クリスマスの
灯心をとけたみつろうにひたしては、引きあげて、乾かす。それをくりかえす、何度も何度も、ろうが重なって太くなるまで、しんぼうづよく。ろうそくを発明した人は、誰だったのでしょうか。長い夜を、待ち望む時間に変えてくれた。不安を、祈りに。
デジレの声が耳によみがえり、胸が痛みました。忘れたいのに、忘れようのない記憶。すべてが。——ゆるやかな坂にさしかかったので、自転車を降りて、押して歩きました。ふと気づいたら、ぼくは歌を口ずさんでいて、後ろでベンノも自分の自転車を押しながら笑っているのがわかりました。ぼくが歌うなんてひさしぶりだからね。
憧れを知る人だけが、私の哀しみをわかってくれる。本当そうだね。
ああ
私を愛し
理解してくれるあの人は
遠くへ行ってしまった。
オデット。不思議だ。去年の今頃のぼくは、まだきみの存在すら知らない。同じ人間とは思えないな、いまのぼくと。きみに出会うまでのぼくの人生は、毎分毎秒が、あの瞬間に向けてのカウントダウンだったんだ。なんてね。ことばにするとはずかしいな。でも実感だからしかたない。会いたい。会いたい、オデット。いまどうしてる? 寒くない? ぼくの息は白いのだけど。何を練習してる? もうこの曲は弾いてくれないのだろうか、『憧れを知る人だけが』。きみもこの歌が好きだなんて、その偶然だけでも、運命の出逢いかもしれないなんて思っていたのにね。ふっ、ばかみたいだ。
だってぼくも、この曲が前から好きだったから。
というか、母がこの曲の楽譜を大切にしていたんだ。とてもね。
ちょうどきみのパパのと同じような、古い楽譜でね。
それも偶然だよね——
偶然?
足が、止まりました。
本当に
、偶然
、なのか
?すり切れた楽譜。彼女の家のと、わが家のと。同じ。一対の。閃光のように記憶がひらめきます。おれ物語。昔、惚れた女がいてね。どうしようかと思っていたら、別の男と結婚してしまった。私を愛し、理解してくれるあの人は、遠くへ——
きみは、その
息を止めて、立ち尽くしていました。
ぼくは何を聞いていたんだ。何を見てきたんだ。
遠い、遠い、霧の奥のはるかな深みに、ひっそりと灯っていた小さな明かりが、初めて見えました。
ぼくが、そのひとの。
自転車を押して静かに歩きだし、数歩すすんで、もう一度止まったぼくの足は、今度こそ、しばらく動きませんでした。
温かい湯のような光が心の底から噴き出して、ひたひたとあたりに満ちていきました。
一年前のぼくなら、こうではなかったと思います。だまされた、くらいに思っていたかもしれません。だけどいまは。ただ。泣きたいような、笑いたいような。
ロットバルト。
ふつう、来ないでしょう、ぼくに会いに。まして、ぼくをかわいいなんて。なんとかしてやりたいなんて。思わないでしょう。ぼく、別の男の子どもですよ。あなたから彼女を奪ったジークフリートという男にそっくりな、名前まで同じジークフリートという息子。それでいいの? そう訊いたらきっとあなたは「何が?」と訊き返してくるんだろうな、例のしれっとした顔で。ぼくが彼女にとって大切な存在だからという、ただその一点だけで、ぼくまでまるごと愛せるものなの? そんなに彼女が、大切だったの?
だったら、この長い年月を、あなたは。
彼女なしで、どうやって生きてきたんですか?
カチャンというひかえめな音がしたのは、ベンノが自分の自転車を立ててぼくのそばへ来てくれたからでした。もの問いたげな彼の目にぼくは、いったいどこから説明したものだろうと思い、それから、そうだ説明はできないんだったし、する必要もなかったんだと思い出しました。ことばや理屈ではなかった。時の霧のかなたに見出したともしびを、ぼくはただ、ベンノに腕をとられて支えられながら、いつまでも見つめて立ち尽くして、その小さな火の色に、胸の奥を熱く焼かれていたのです。