第十七曲 小さな白鳥たちの踊り (5)

文字数 2,202文字

 ぼくは自分のことで胸がいっぱいではあったけれど、それでも見てしまったよ、ベンノ。帰りぎわ、きみがファニイのほっぺに、すばやくちゅっとキスしてるのを。おいおい、いつからそんなことになってるんだ? まったくもう。油断もすきもないな。
 クリスマスの(マルクト)を見て帰りたいという野望は、断念しました。あまりにごったがえしていて、自転車を押して入るのは無理だった。毎年この時期になると大聖堂わきの広場に、にわかづくりの屋台が百も立ち並ぶのです、夜も灯りをともして。ツリーに飾るちっちゃな木製の人形たち、毛糸編みに革製品、《クリッペ》と呼ばれるミニチュアの馬小屋(イエスさまご生誕のね)、そしてお菓子。しっとりしたシュトーレンは誰が食べてもきっとおいしいからいいとして、半分乾いたようなレープクーヘンは、あれはぼくらになつかしいだけで、外国からの旅行者さんたちには正直どうなのかなと思います。砂糖衣(アイシング)の歯ざわり、シナモンにアニス。去年は、昔ながらのみつろうだけで作ったろうそくを熱心にすすめられて、つい買ってしまったのでした。みつろうのろうそくは、燃やすとかすかにはちみつの香りがします。いつも王宮の礼拝堂用に納品されているのよりちょっとでこぼこだったけど、いいんだよ。あの陽気なおばさんと、隣でにこにこしていたおじさんの手作りなんだから。
 灯心をとけたみつろうにひたしては、引きあげて、乾かす。それをくりかえす、何度も何度も、ろうが重なって太くなるまで、しんぼうづよく。ろうそくを発明した人は、誰だったのでしょうか。長い夜を、待ち望む時間に変えてくれた。不安を、祈りに。
 憧れ(ゼーンズフト)って言い得て妙だよね。苦痛なんだって実感したよ。
 デジレの声が耳によみがえり、胸が痛みました。忘れたいのに、忘れようのない記憶。すべてが。——ゆるやかな坂にさしかかったので、自転車を降りて、押して歩きました。ふと気づいたら、ぼくは歌を口ずさんでいて、後ろでベンノも自分の自転車を押しながら笑っているのがわかりました。ぼくが歌うなんてひさしぶりだからね。
 憧れを知る人だけが、私の哀しみをわかってくれる。本当そうだね。
 ああ
 私を愛し
 理解してくれるあの人は
 遠くへ行ってしまった。
 オデット。不思議だ。去年の今頃のぼくは、まだきみの存在すら知らない。同じ人間とは思えないな、いまのぼくと。きみに出会うまでのぼくの人生は、毎分毎秒が、あの瞬間に向けてのカウントダウンだったんだ。なんてね。ことばにするとはずかしいな。でも実感だからしかたない。会いたい。会いたい、オデット。いまどうしてる? 寒くない? ぼくの息は白いのだけど。何を練習してる? もうこの曲は弾いてくれないのだろうか、『憧れを知る人だけが』。きみもこの歌が好きだなんて、その偶然だけでも、運命の出逢いかもしれないなんて思っていたのにね。ふっ、ばかみたいだ。
 だってぼくも、この曲が前から好きだったから。
 というか、母がこの曲の楽譜を大切にしていたんだ。とてもね。
 ちょうどきみのパパのと同じような、古い楽譜でね。
 それも偶然だよね——

 偶然?

 足が、止まりました。
 



 すり切れた楽譜。彼女の家のと、わが家のと。同じ。一対の。閃光のように記憶がひらめきます。おれ物語。昔、惚れた女がいてね。どうしようかと思っていたら、別の男と結婚してしまった。私を愛し、理解してくれるあの人は、遠くへ——
 きみは、その(ひと)の息子だ。

 息を止めて、立ち尽くしていました。
 ぼくは何を聞いていたんだ。何を見てきたんだ。
 遠い、遠い、霧の奥のはるかな深みに、ひっそりと灯っていた小さな明かりが、初めて見えました。
 ぼくが、そのひとの。

 自転車を押して静かに歩きだし、数歩すすんで、もう一度止まったぼくの足は、今度こそ、しばらく動きませんでした。
 温かい湯のような光が心の底から噴き出して、ひたひたとあたりに満ちていきました。
 一年前のぼくなら、こうではなかったと思います。だまされた、くらいに思っていたかもしれません。だけどいまは。ただ。泣きたいような、笑いたいような。
 ロットバルト。
 ふつう、来ないでしょう、ぼくに会いに。まして、ぼくをかわいいなんて。なんとかしてやりたいなんて。思わないでしょう。ぼく、別の男の子どもですよ。あなたから彼女を奪ったジークフリートという男にそっくりな、名前まで同じジークフリートという息子。それでいいの? そう訊いたらきっとあなたは「何が?」と訊き返してくるんだろうな、例のしれっとした顔で。ぼくが彼女にとって大切な存在だからという、ただその一点だけで、ぼくまでまるごと愛せるものなの? そんなに彼女が、大切だったの?
 だったら、この長い年月を、あなたは。
 彼女なしで、どうやって生きてきたんですか?
 カチャンというひかえめな音がしたのは、ベンノが自分の自転車を立ててぼくのそばへ来てくれたからでした。もの問いたげな彼の目にぼくは、いったいどこから説明したものだろうと思い、それから、そうだ説明はできないんだったし、する必要もなかったんだと思い出しました。ことばや理屈ではなかった。時の霧のかなたに見出したともしびを、ぼくはただ、ベンノに腕をとられて支えられながら、いつまでも見つめて立ち尽くして、その小さな火の色に、胸の奥を熱く焼かれていたのです。

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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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