第三曲 情景(アレグロ)(2)

文字数 3,213文字

 ぼくらの王国が風光明媚な場所にあるのは事実です。ひじょうに静かで、小さな国です。総人口五万足らずですから、アメリカやヤーパンのマンモス大学のほうがよほど大きいですね。ドイツ、オーストリア、チェコと国境を接していて、ドナウ川、イン川、イルツ川の三河川がここで合流することから、「三つの河の国(ドライフリュッセシュタート)」と呼ばれています。秋には黄葉が美しく、「黄金の十月(ゴールデネ・オクトーバー)」ともなると、霧雨に濡れながら訪れてくれる観光客の数がこころもち増えます。ミュンヘンのビール祭り(オクトーバーフェスト)ほど盛りあがりはしませんけれども。
 インとイルツがドナウに流れこむところが、湖になっています。
 首都は、といってもこの首都がほぼ国なわけですが、十七世紀後半に二度、大火災に遭いました。それから再建して、いまに至ります。つまり、街並み全体がバロック様式だということ。旧市街には、これお伽話じゃないの、こんなところにふつうに住んでいていいの?と思われそうな、赤い瓦屋根と柔らかい色の壁がつづきます。まあ、それ以外にとくに何もないのですが、テーマパークとかはね。ただちょっと、というかかなり、というかすごく自慢できるのは、世界最大のパイプオルガンがある聖シュテファン大聖堂ですね、やっぱり。ただし「教会オルガンとしては」という条件付きで世界最大なんだそうです。くやしかったので検索したら、アメリカにもっとでかいやつが二台もあるらしかった。でも所在地がデパートと催事場って、なんだそれ、誤訳かな?
 大きさというのは縦横のサイズではなく、鍵盤の段数やパイプの本数でカウントするのですが、まあでも、うちのオルガンも、どうカウントするかという問題はちょっとあるな。聖堂内がなんというか、オルガンだらけなのです。ふつう、メインのが一台あれば、あとは小さな補助的なものを一台置いて小規模のミサや練習の伴奏などに使うという、あ、失礼、プロテスタントのことは知らなくて、カトリックの場合です。だけど(ザンクト)シュテファンには五台あるのです。メインのオルガン(ハウプトオルゲル)はふつうに正面口の真上、つまり祭壇の正反対の位置。その左右に一台ずつ、祭壇そのものの上に例の聖歌隊用オルガンが一台、そして、なんと天井裏に一台。これを鳴らすと文字どおり、天から音が降ってきます。究極のサラウンド効果です。めったに使われなくて残念だけど。ハウプトオルゲルは見た目も本当に美しくて、凝った白い彫刻の壁とフレスコの丸天井の下に銀色に輝くパイプが屹立して、それを天使だの何だのの金の彫刻がとりかこむという、もう、お約束ですよ、バロックの。子どものときからこういうので育ってきたので、一時期ちょっとすねてストリートっぽいスタイルがいいと言ってだだをこねたこともあるけど、けっきょく逃れられないとわかってあきらめてからは、すなおに美しいと思っています。
 大人になったら何になりたい?という質問をしてもらえない子どもが、世界の何割いるのでしょうか。もちろんぼくは戦争や貧困でそうなったわけではないですが、でもやっぱり、その一人ではありました。職業選択の自由はぼくにはなかったのです。他の子どもにはあるんだ、ということにある日気づいて驚いたぼくは、十歳の誕生日に、大きくなったら王子はやめて、聖シュテファンのオルガニストになると宣言しました。当然、父上と母上にダブルで止められました。というか、一笑に付されました。それでよかったのだと思います、たいして才能もなかったのだから。それでも憧れは憧れとして残ったので、大聖堂(ドーム)に新しい教会音楽長(カペルマイスター)が赴任してくるとかならず、どんな人なのか、顔を見に行っていました。
 すみません。ここまで全部、前置きです。
 だからロットバルトがカペルマイスターだったら、顔を見たときわかったはずです。そうではない、と彼自身も言いました。自分は音楽長に頼まれて、たまに助っ人としてミサの奏楽をつとめているだけだと。そうなんだ? ぼくはふだん王宮内の礼拝堂でミサにあずかっていて、わざわざ大聖堂までは行かないし、行ったとしてもオルガニストの顔は会衆からは隠れて見えないから、断定はしなかったけど、こんな人いたかなという半信半疑が顔にありありと出てしまっていたと思います。半信半疑じゃないな、ほぼほぼ「疑」。でもそれはね、ロットバルト、あなたの話が基本的に、口から出まかせだからいけないんです。だいたいロットバルトからして偽名じゃないですか。あとで見たら教会の名簿に登録されてなかったもの。
 オルガン見に来るか?と言うから行きますということになって、二人で自転車で大聖堂へ向かう途中、あなたは湖の白鳥たちをぐるりと指さして言いましたね。あれは本当は全部おれが飼っていて、王家にリースしてやってるんだ、とか。なんだそれ。
「特別な品種でね、絶滅危惧種なんだよ」
「どこが」
「黒鳥もいるよ」
「いませんけど」
「心のきれいな人にしか見えない」
「そこが特別?」
「そう」
「白鳥は? どこが特別?」
「うん、あれも世を忍ぶ仮の姿でね、夜は羽をつるんと脱いで人間に戻るんだ。全員女」
 えっちくさい話のはずなのですが、彼が言うとからりとしています。たぶんぼくよりずっと年上なのに、ぼくは彼の、まぶしいような壮健さがうらやましくなりました。いや、ぼくもべつに不健康だったり虚弱だったりするわけではなく、むしろ逆で、氷水に一晩浸かったくらいでは死ぬどころか風邪も引けないのが呪わしいのですが(一度やってみて母上にめちゃくちゃ叱られた)、そんなことを考えてしまう時点でだめなので。
「つるんとむけると面白いぞー」
「ほんっと、好きですね」
「おれからエロを取ったら何も残らない」
「少し分けてください」
「ほれ」
「いま、どこから何出しました?」
 彼の目を見て、はっとしました。ばか話には似つかわしくない、哀しそうな目だったのです。次の瞬間、憐れまれているのだと気づき、わけもわからずかっと顔に血が昇りました。こいつに憐れまれるようなことがあるか、ぼくに? たぶんいろいろあるけど。
 なんかこういう、大人の余裕を見せつけるのって、姑息(こそく)だよな。オルガンに惹かれてついてきたことを後悔しはじめていました。ふと、ベンノの顔が浮かびました。彼は今日、もちろんぼくについてこようとしたのですが、ぼくが断ったのです。なぜって、なんとなく。ぼくもこの程度の単独行動はゆるされているのでね、うちの国すごく治安がいいから。過去二十年間にあった犯罪、誘拐が一件だけ、しかも未遂。ヨーロッパの田舎なんてそんなものです。今日だって大聖堂(ドーム)に行ってくるだけですよ? めずらしくもない。なのにベンノはひどく動揺して、裏門を出てもまだうろうろとついてきていました。あのね、子どもじゃないんだから。ぼくが帰るまでに昨日頼んだ楽譜の整理しておいてくれる? そう言って、自転車のペダルに足をかけました。ぼくは背中に目があるので、わかっていました、彼はいつまでも泣き出しそうな顔で見送っていた。何だったんだろう、あれは。悪い予感でもあったんだろうか——
 ふいにロットバルトが自転車から降りて、押して歩きだしたので、ぼくも降りました。
「あの子は聞こえないのか」
 ——思考読まれた?!
 驚きすぎて自転車を倒しそうになったので、ロットバルトのほうがけげんな顔になりました。
「見てたんですか」
「ああ」
「聞こえてるみたいです。耳や舌の障害ではないです。筆談もできないので。でも、たいていの話は通じます」
「そうか」
「他の人間より通じるくらいです」
「そうか」
 また自転車に足をかけました。え、それだけ?
「聞こえるなら、連れてくればいい」発進しないまま前を向いて、ひとりごとのように。
「連れてこないとだめですか?」
「連れてきたほうがいい」
「なぜ」
「そのほうがいいからだ」
 ふいっと漕いで、先へ行きました。なんだそれ、ほんとに!
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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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