第三曲 情景(アレグロ)(2)
文字数 3,213文字
インとイルツがドナウに流れこむところが、湖になっています。
首都は、といってもこの首都がほぼ国なわけですが、十七世紀後半に二度、大火災に遭いました。それから再建して、いまに至ります。つまり、街並み全体がバロック様式だということ。旧市街には、これお伽話じゃないの、こんなところにふつうに住んでいていいの?と思われそうな、赤い瓦屋根と柔らかい色の壁がつづきます。まあ、それ以外にとくに何もないのですが、テーマパークとかはね。ただちょっと、というかかなり、というかすごく自慢できるのは、世界最大のパイプオルガンがある聖シュテファン大聖堂ですね、やっぱり。ただし「教会オルガンとしては」という条件付きで世界最大なんだそうです。くやしかったので検索したら、アメリカにもっとでかいやつが二台もあるらしかった。でも所在地がデパートと催事場って、なんだそれ、誤訳かな?
大きさというのは縦横のサイズではなく、鍵盤の段数やパイプの本数でカウントするのですが、まあでも、うちのオルガンも、どうカウントするかという問題はちょっとあるな。聖堂内がなんというか、オルガンだらけなのです。ふつう、メインのが一台あれば、あとは小さな補助的なものを一台置いて小規模のミサや練習の伴奏などに使うという、あ、失礼、プロテスタントのことは知らなくて、カトリックの場合です。だけど
大人になったら何になりたい?という質問をしてもらえない子どもが、世界の何割いるのでしょうか。もちろんぼくは戦争や貧困でそうなったわけではないですが、でもやっぱり、その一人ではありました。職業選択の自由はぼくにはなかったのです。他の子どもにはあるんだ、ということにある日気づいて驚いたぼくは、十歳の誕生日に、大きくなったら王子はやめて、聖シュテファンのオルガニストになると宣言しました。当然、父上と母上にダブルで止められました。というか、一笑に付されました。それでよかったのだと思います、たいして才能もなかったのだから。それでも憧れは憧れとして残ったので、
すみません。ここまで全部、前置きです。
だからロットバルトがカペルマイスターだったら、顔を見たときわかったはずです。そうではない、と彼自身も言いました。自分は音楽長に頼まれて、たまに助っ人としてミサの奏楽をつとめているだけだと。そうなんだ? ぼくはふだん王宮内の礼拝堂でミサにあずかっていて、わざわざ大聖堂までは行かないし、行ったとしてもオルガニストの顔は会衆からは隠れて見えないから、断定はしなかったけど、こんな人いたかなという半信半疑が顔にありありと出てしまっていたと思います。半信半疑じゃないな、ほぼほぼ「疑」。でもそれはね、ロットバルト、あなたの話が基本的に、口から出まかせだからいけないんです。だいたいロットバルトからして偽名じゃないですか。あとで見たら教会の名簿に登録されてなかったもの。
オルガン見に来るか?と言うから行きますということになって、二人で自転車で大聖堂へ向かう途中、あなたは湖の白鳥たちをぐるりと指さして言いましたね。あれは本当は全部おれが飼っていて、王家にリースしてやってるんだ、とか。なんだそれ。
「特別な品種でね、絶滅危惧種なんだよ」
「どこが」
「黒鳥もいるよ」
「いませんけど」
「心のきれいな人にしか見えない」
「そこが特別?」
「そう」
「白鳥は? どこが特別?」
「うん、あれも世を忍ぶ仮の姿でね、夜は羽をつるんと脱いで人間に戻るんだ。全員女」
えっちくさい話のはずなのですが、彼が言うとからりとしています。たぶんぼくよりずっと年上なのに、ぼくは彼の、まぶしいような壮健さがうらやましくなりました。いや、ぼくもべつに不健康だったり虚弱だったりするわけではなく、むしろ逆で、氷水に一晩浸かったくらいでは死ぬどころか風邪も引けないのが呪わしいのですが(一度やってみて母上にめちゃくちゃ叱られた)、そんなことを考えてしまう時点でだめなので。
「つるんとむけると面白いぞー」
「ほんっと、好きですね」
「おれからエロを取ったら何も残らない」
「少し分けてください」
「ほれ」
「いま、どこから何出しました?」
彼の目を見て、はっとしました。ばか話には似つかわしくない、哀しそうな目だったのです。次の瞬間、憐れまれているのだと気づき、わけもわからずかっと顔に血が昇りました。こいつに憐れまれるようなことがあるか、ぼくに? たぶんいろいろあるけど。
なんかこういう、大人の余裕を見せつけるのって、
ふいにロットバルトが自転車から降りて、押して歩きだしたので、ぼくも降りました。
「あの子は聞こえないのか」
——思考読まれた?!
驚きすぎて自転車を倒しそうになったので、ロットバルトのほうがけげんな顔になりました。
「見てたんですか」
「ああ」
「聞こえてるみたいです。耳や舌の障害ではないです。筆談もできないので。でも、たいていの話は通じます」
「そうか」
「他の人間より通じるくらいです」
「そうか」
また自転車に足をかけました。え、それだけ?
「聞こえるなら、連れてくればいい」発進しないまま前を向いて、ひとりごとのように。
「連れてこないとだめですか?」
「連れてきたほうがいい」
「なぜ」
「そのほうがいいからだ」
ふいっと漕いで、先へ行きました。なんだそれ、ほんとに!