第六曲 情景(白鳥あるいは黒鳥の)(2)
文字数 2,763文字
よく、わからない。
ということを報告したら、ロットバルトは腕組みをしたまま、しばらく黙っていました。
「まいったな」
「何がですか?」
「いや、何でもない」せきばらい。何、ちょっと嬉しそう?「まったくちがうラストもあるんだ」
「別の曲?」
「そう。台本も、初稿と改訂稿だけで相当ちがう。読んでみるか?」
「いまの段階でもう読んでもいいんですか?」
「どうせまだまだ謎だ」
読みたいような、読みたくないような気がしていたのですが、宿題として出されてしまったので、読むことになりました。
初稿版。
主人公は王子、名前はジークフリート。二十歳の成人式を迎え、母親の王妃に、早く嫁を取って身を固めろとせかされている。おいおいおい、どこかで聞いた話だな! もしかしてぼくがモデル、書かれたの百年以上前だけど? それとも世界にはぼくみたいなまぬけが他にもごろごろいるってことか? まあいいや。——湖のほとりで、王冠をかぶった白衣の美少女に会う。ここからはぼくじゃないな、よかった(何が?)。彼女の名前はオデット。妖精の娘で、邪悪な継母にいじめられているので、白鳥に変身してこっそり遊んでいる。へんな子。王子と王女は恋に落ちる。ふーん。ところが翌日の舞踏会で、彼は彼女そっくりの黒衣の美少女に会う。これは悪魔の娘で、オデットに変装しているのだ。幻惑された王子は、なんとこの娘に結婚を申しこんでしまう。なんだそれ。白と黒ふつう気づくよな。そのとき悪魔の高笑いが響き、あやまちに気づいた王子は絶望して湖へ走る。オデットは待っていた、永遠の別れを告げるために。「いやだ、きみと離れたくない!」と叫んで王子はオデットの王冠を奪い、湖に投げ捨てる。この冠は彼女の護符だったので、それを失ったオデットは倒れて死ぬ。湖から大波が押し寄せて、二人を呑みこんでいく。終わり。
ひっどい話! 最低のカスじゃないかこの王子。チャイコフスキーさん、本当にこれでよかったんですか?
改訂稿版。
オデットはもともと人間の王女で、悪魔に呪いをかけられて白鳥にされてしまった。人間に戻れるのは夜だけ。何がしたいんだこの悪魔。オデットの呪いは、まだ誰も愛したことのない男が、彼女に永遠の愛を誓い、命を投げ出せばとける。ジークフリートは、自分がその男になろうと申し出る。——いま、なんか、寒気が。しかしこのバカ王子、やっぱり黒衣の美女にだまされて愛を誓ってしまう。悪魔が勝ち誇り、窓の外で見ていた白鳥オデットは泣きながら飛び去り、王子もあとを追う。オデットは彼をゆるすが、え、ゆるすんだ?! だがもはや呪いのとける見込みがなくなったので、湖に身を投げる。王子もみずからを刺す。彼が命を投げ出すと、二人の愛の力で悪魔も滅ぶ。へえー。水底で、水の妖精たちが二人を迎え、永遠の幸福と法悦へとみちびく。終わり。
うーん、こっちもきついなあ。やっぱり死ぬのか。いや、ぼくじゃないけど。死なないとだめでしょうか、べつに永遠の法悦いらないんですけど。いや、ぼくじゃないけどね。とにかく、どっちの結末も、あの組曲の最終曲とは合っていない気がしました。ロットバルトが言ってた他の曲って、どんなのなんだろう?
ずっと頭の中で音楽は響いているし、物語はつぶやいているしで、わりと疲労気味です。ごめんベンノ、ジェノベーゼそうめんはパスだ。
ぼくは読譜、独学だから、そんなに得意ではありません。連弾譜をひとりで読むのは疲れます。ましてオーケストラ譜は手ごわい。上から下まで十数段、ト音記号ヘ音記号のあいだにハ音記号(中音記号)まではさまって、ひと目で見渡せないのがストレスなんです。そうロットバルトに訴えたら、人に弾いてもらって聞くか、と言うので、ぜひぜひと頼みました。
「オーケストラの当てがあるんですか?」
「それはまだ無理だけど、
びっくり。「弦楽版の譜もあったんですね」
「いや、おれが編曲した」
「そうなんだ! じゃ、ますます聞きたいです」
「
「教え子?」
「まあね。というか、一人は」え、この人こういう顔するんだ。「うちの娘だ」
えっ??
毎週、少なくとも一つは新しくびっくりすることがあるのですが、今日は二つ。しかも一つめが一瞬で吹っ飛びました。なにそれ。だまされた。独身だと思いこんでましたよ。よけいなものを削ぎ落としたような顔や体つきから、家庭のにおいがいっさいしなかったから。
「いや、まあ、かわいいぞ。自慢じゃないけど」自慢してるし。そういう声出すんだ、そんな嬉しそうな。ちょっとちょっと。
「おいくつなんですか?」
「きみと同い年かな」
そのくらいですよね、音大の学生さんなら。そんなに大きな子ども、いたんだ。自分が家庭を持つという未来図がまったく描けないぼくは、きゅうに彼を遠くに感じました。
「あのな」
「はい?」
「嫁にどう?」
えっ。えっ……、「しばらく棚上げでいいって言ったじゃないですか、そういう話」
「レッドデータなんだろう? うちの娘たぶん繁殖力抜群だぞ、おれに似て」
ちょっと!「やめてください」
「わからないかな、おれはきみを息子にしたいんだよ、言っただろう? そうすればこうしてこそこそ隠れて会わずにすむじゃないか」
えっ。
いま、なんか、すごい、愛の告白みたいなこと言いませんでした……??
なにそれ。冗談? 本気? たしかにこうして、楽譜の筆写や整理や試し弾きをしているだけなのに、こんなに人目をはばかる必要があるのかと言われるとそれは、変で、どうしてこうなっているのかよく考えるとわからないけれども、たぶん人目につくと困る事情があるのはあなたのほうで、ぼくのせいで面倒に巻きこむといけないからこういう形になっているんじゃなかったんですか? そこにその娘さんとやらが入ってくるとややこしさ倍増で、ただでさえぼくの嫁取り問題はこじれているわけだから、ってやっぱり、全部ぼくのせい?
という一段落がぼくの脳内で回転するのに約二秒。
ふっと、ロットバルトが顔を寄せてきて、耳もとでささやきました。
「今夜、時間ないか? 会わせたいんだけど」
どうしてこの人はいつもこう、一方的なんだろう。
「夜ですか?」
「昼のあいだは白鳥だからな」