第二曲 情景(アンダンティーノ)(2) ★BGM付
文字数 3,730文字
そう、バードウォッチングの話をするつもりでした。うちの城は、例の湖に白鳥がけっこういて(夏ちょっと暑くなると川の上流に逃げて涼んでいるらしいですが)、あとうちの王家のエンブレムも白鳥なものですから、何かというと白鳥白鳥と言われるのですが、正直に告白すると、白鳥はぼくの中では鳥のジャンルに入りません。でかすぎる。あいつら本当でかいですよ。凶暴だしね。ぼく小さいとき追いかけられたことがあるんです、怖いんだこれが。広場のハトなんてもんじゃない迫力だからね。泣きましたよ、かなりトラウマです。それにけっこう食い意地がきたないの、ご存知ですか。せっかく造物主から真っ白な体をいただいているのに、首を水底の泥につっこんでえさをあさるものだから、がばっと出てきたときは上半身が黒ずんでいて、かなり興ざめです。それにあの鳴き声。ラッパでしょ。もう、クジャクのみゃあみゃあと並んで野鳥二大がっかりです。ぼくが心から愛するのは渓流の小鳥ですね。カワセミは素敵すぎるので、本命を訊かれたらカワガラスでしょうか。カラスとはぜんぜんちがくて、ツグミよりちょっと小さくて、チョコレート色で胸だけ真っ白で、すごくかわいいんですよ。カワガラスのダイブをこの目で見たときは感動で鳥肌が立ちました、って鳥だけに、いやだな、やってしまった。カワガラスを語りはじめたらたぶん半日はかかるのでやめておきます。
もちろん、白鳥だって、遠くから見ているだけなら申し分なく優雅です。近づかなければいいだけの話。
乗馬の稽古もいちおうしましたよ、たしなみとして。断っておきますが、体を動かすのがきらいなわけではないのです。ただ、テニスやフェンシングはどうもね。断っておきますが、反射神経が鈍いわけではないのです。そうではなくて、むしろ。相手のすきを突くのが得意な自分に、
ぼくですか。ピアノは弾きますよ、へただけど。ただ、難曲にトライしてクリアしていくというようなガッツがないし、そもそも人前では弾きません。ひとりで適当に和音やメロディを鳴らして遊んでいるだけです。気がつくと四時間くらい。即興? そんな高尚なものではないです。ピアノの音が好きなんです。ただそれだけ。
本当はぼく、伴奏に向いているのではないかと思うのですよね。主役は向いていないんだ。誰かが思いきり華やかな演奏をしてくれて、ヴァイオリンとか、フルートとか、歌でもいい。そのサポートをしてあげるのなら、ぼく自身ものびのびと弾ける自信があるんだけどな。だから、こうしてぼくが鳴らして、ぼくの部屋に響いているのは、主旋律のない伴奏パートだけの曲ということになります。たぶん。
母上が、もう一度、チェロを弾いてくださるといいのですが。
わかっています。もう弾くことはないでしょう。聴いてくださる父上がいないのだから。ぼくももっと父上と話しておけばよかった。こんなに早く逝ってしまわれるとは思わなかったのです。見つかってから、あっという間でした。何がって、腫瘍ですよ。肝臓がん。まだステージⅡだったのに、放射線治療が合わなかったのか見る見る悪化して、あの、この話、いましなくてもいいですか。ありがとう。——また白鳥の話ですか? ああ、サン=サーンスの「白鳥」ですか、ベタですね。いいですよ。ピアノパートはこんなふうに、右手と左手がそれぞれ分散和音で、たぶん大小のさざ波をあらわしている感じ。サン=サーンスさん、もっとすごい大曲をめちゃくちゃたくさん作ったのに、お遊びで作った『動物の謝肉祭』ばっかり言われて、天国でくやしがっているんでしょうね。でも名曲だからしかたないですよ。最後に、去っていく白鳥の後ろ姿を、水に引いていく跡を、ほらね、こんなふうに、小刻みなピアノが追っていく。きっとこれは、湖面にちらちら反射している光なんでしょうね。こういうのきらいじゃないです。少なくとも、幸せな余韻がありますよね。さびしいけど。
ある曲が終わるときって、どうして「ああもう終わる」ってわかるのだろう。あの感じがとても好きです。だから音楽が好きなのだと思います。
たぶんそれが、人間だということなのだと思います。
すみません、またちょっと唐突でした。このところ、人工知能のことが気になっていろいろ調べていたものですから。最近のAIは絵も描けるし、作曲もできるらしいですね。ドラクロワっぽい絵やルノアールっぽい絵、ショパンっぽい曲やドビュッシーっぽい曲。何でしたっけ、ビッグデータを投入して、ディープラーニングをさせる、というので合ってますか。それでそこそこの作品というか、正直それ以上、へたな人間よりよほど気の利いたものをたたき出してしまうんですね、AIが。ぼくは絵のよしあしはよくわからないのですが、AIの作った曲を聞いてかなり驚きました。でもそれ、最初の数十秒なんです。だんだん、いらいらしてくるんですよ。その曲がどこへ行こうとしているのか、どこへ行きたいのかわからない。決定的なのはさっき言った部分です。あ、もう終わる、終わってしまう、終わらないで、という、あれがない。曲を終わらせるのは、曲が終わるのを惜しむ気持ちなのに、AIにとって「終わり」は、「持続の停止」でしかないんでしょうね。
TVの司会者とゲストの教授は、どうしたらAIにもっと良い曲を書かせられるか、さかんに話しあっていましたが、そんなの決まってるじゃないですか。「終わり」を教える。死とか、時間とかの概念を教えなければ無理でしょう。人はかならず死ぬんだということにおびえたり(ぼくは自分が死ぬのはほとんど怖くない。それはたぶん、ぼくが若くて未熟だからです。ぼくが怖いのは他人が死ぬことです)、二度ととりかえしがつかない、二度ともどってこないものがあるんだと絶望したり、そういう不安や恐怖をAIに教えないかぎり、本当の音楽など作れるはずがない。だけど、そんなものをAIに教える必要があるでしょうか? 不安や恐怖がないのは、ある意味うらやましいことなのに。そんなことに使う労力があったら、ぼくら人間の不安や恐怖をとりのぞく方法を考えたほうがよほど建設的なんじゃないのだろうか。
これですか?
この楽譜は、そう、ある人から借りたものです。ピアノ・スコアなんです。つまり、オーケストラの曲を、ピアノ用に書き直したやつです。
あの男の話をしたほうがいいのかな。フォン・ロットバルト。考えたら、ファーストネームはいまだに知りません。
★BGM:カミーユ・サン=サーンス「白鳥」(『動物の謝肉祭』より)
https://www.youtube.com/watch?v=-eb-n5e8SPI