第二曲 情景(アンダンティーノ)(2) ★BGM付

文字数 3,730文字

 ぼくの趣味はバードウォッチングです。笑われる前にちょっと説明させてください。読書も好きですが、趣味とは言えません。ページの上の文字(公務資料のぞく)を読まない時間が四十八時間以上つづくと吐き気がしてくるので、もはや一種の中毒だと思うのです。宮廷の図書館(ビブリオテーク)の蔵書は五歳から始めていちおう読了しました。予算の関係で新刊書が少しずつしか入れてもらえない上に、もう受け入れスペースがないとさんざん苦情を言われています。ぼくの寝室の壁はすでに本に埋めつくされていますが、これが本の前に本を置いて二重になりだしたら終わりです。二重の次は三重、四重となるのが目に見えていますからね。最後は立ったまま眠ることになりかねません。それで、新刊書は読むはじから放出することにしました。一回読むと覚えてしまうので。古い本から処分したら、などと言う愚か者たちがいますが、古書の貴重さがなぜわからないのでしょうか。手に取って革表紙をなでるだけで落ちつきます。なでている一、二分のあいだにだいたい中味を思い出して反復し終わります。至福の時間です。
 そう、バードウォッチングの話をするつもりでした。うちの城は、例の湖に白鳥がけっこういて(夏ちょっと暑くなると川の上流に逃げて涼んでいるらしいですが)、あとうちの王家のエンブレムも白鳥なものですから、何かというと白鳥白鳥と言われるのですが、正直に告白すると、白鳥はぼくの中では鳥のジャンルに入りません。でかすぎる。あいつら本当でかいですよ。凶暴だしね。ぼく小さいとき追いかけられたことがあるんです、怖いんだこれが。広場のハトなんてもんじゃない迫力だからね。泣きましたよ、かなりトラウマです。それにけっこう食い意地がきたないの、ご存知ですか。せっかく造物主から真っ白な体をいただいているのに、首を水底の泥につっこんでえさをあさるものだから、がばっと出てきたときは上半身が黒ずんでいて、かなり興ざめです。それにあの鳴き声。ラッパでしょ。もう、クジャクのみゃあみゃあと並んで野鳥二大がっかりです。ぼくが心から愛するのは渓流の小鳥ですね。カワセミは素敵すぎるので、本命を訊かれたらカワガラスでしょうか。カラスとはぜんぜんちがくて、ツグミよりちょっと小さくて、チョコレート色で胸だけ真っ白で、すごくかわいいんですよ。カワガラスのダイブをこの目で見たときは感動で鳥肌が立ちました、って鳥だけに、いやだな、やってしまった。カワガラスを語りはじめたらたぶん半日はかかるのでやめておきます。
 もちろん、白鳥だって、遠くから見ているだけなら申し分なく優雅です。近づかなければいいだけの話。
 乗馬の稽古もいちおうしましたよ、たしなみとして。断っておきますが、体を動かすのがきらいなわけではないのです。ただ、テニスやフェンシングはどうもね。断っておきますが、反射神経が鈍いわけではないのです。そうではなくて、むしろ。相手のすきを突くのが得意な自分に、虫酸(むしず)が走る。それだけ。そもそも、他人に勝ちたいという精神、あれがぼくには完全に欠落しているらしいです。対戦相手が必死になっているのを見ると、気の毒でいたたまれなくなってしまうのです。勝ち負けなんてどうでもいい話ではないですか。どうせ遊び(ゲーム)ではないですか。なんて思ってしまう段階で、たぶんぼくは世の中の人の大半と会話がなりたたないのでしょう。いいんだ、べつに。たしかに人間の身体能力の限界にいどむ姿は美しい、それはもちろん認めます。でもそれなら、ぼくの尊敬してやまない楽師たちはどうですか。鍵盤弾きが十本の指を自在にコントロールする力を保つために、日々どれほどの鍛錬を欠かさないことか。限りある人生の時間の何割を練習にささげていることか。ぼくは本当に頭が下がります。それでいて彼らの年俸はスポーツ選手の百分の一にも満たなかったりする。これを不公平と言わずして何と言うのでしょう。そこが言いたい。まあ、べつにいいけど。
 ぼくですか。ピアノは弾きますよ、へただけど。ただ、難曲にトライしてクリアしていくというようなガッツがないし、そもそも人前では弾きません。ひとりで適当に和音やメロディを鳴らして遊んでいるだけです。気がつくと四時間くらい。即興? そんな高尚なものではないです。ピアノの音が好きなんです。ただそれだけ。
 本当はぼく、伴奏に向いているのではないかと思うのですよね。主役は向いていないんだ。誰かが思いきり華やかな演奏をしてくれて、ヴァイオリンとか、フルートとか、歌でもいい。そのサポートをしてあげるのなら、ぼく自身ものびのびと弾ける自信があるんだけどな。だから、こうしてぼくが鳴らして、ぼくの部屋に響いているのは、主旋律のない伴奏パートだけの曲ということになります。たぶん。
 母上が、もう一度、チェロを弾いてくださるといいのですが。
 わかっています。もう弾くことはないでしょう。聴いてくださる父上がいないのだから。ぼくももっと父上と話しておけばよかった。こんなに早く逝ってしまわれるとは思わなかったのです。見つかってから、あっという間でした。何がって、腫瘍ですよ。肝臓がん。まだステージⅡだったのに、放射線治療が合わなかったのか見る見る悪化して、あの、この話、いましなくてもいいですか。ありがとう。——また白鳥の話ですか? ああ、サン=サーンスの「白鳥」ですか、ベタですね。いいですよ。ピアノパートはこんなふうに、右手と左手がそれぞれ分散和音で、たぶん大小のさざ波をあらわしている感じ。サン=サーンスさん、もっとすごい大曲をめちゃくちゃたくさん作ったのに、お遊びで作った『動物の謝肉祭』ばっかり言われて、天国でくやしがっているんでしょうね。でも名曲だからしかたないですよ。最後に、去っていく白鳥の後ろ姿を、水に引いていく跡を、ほらね、こんなふうに、小刻みなピアノが追っていく。きっとこれは、湖面にちらちら反射している光なんでしょうね。こういうのきらいじゃないです。少なくとも、幸せな余韻がありますよね。さびしいけど。
 ある曲が終わるときって、どうして「ああもう終わる」ってわかるのだろう。あの感じがとても好きです。だから音楽が好きなのだと思います。
 たぶんそれが、人間だということなのだと思います。
 すみません、またちょっと唐突でした。このところ、人工知能のことが気になっていろいろ調べていたものですから。最近のAIは絵も描けるし、作曲もできるらしいですね。ドラクロワっぽい絵やルノアールっぽい絵、ショパンっぽい曲やドビュッシーっぽい曲。何でしたっけ、ビッグデータを投入して、ディープラーニングをさせる、というので合ってますか。それでそこそこの作品というか、正直それ以上、へたな人間よりよほど気の利いたものをたたき出してしまうんですね、AIが。ぼくは絵のよしあしはよくわからないのですが、AIの作った曲を聞いてかなり驚きました。でもそれ、最初の数十秒なんです。だんだん、いらいらしてくるんですよ。その曲がどこへ行こうとしているのか、どこへ行きたいのかわからない。決定的なのはさっき言った部分です。あ、もう終わる、終わってしまう、終わらないで、という、あれがない。曲を終わらせるのは、曲が終わるのを惜しむ気持ちなのに、AIにとって「終わり」は、「持続の停止」でしかないんでしょうね。
 TVの司会者とゲストの教授は、どうしたらAIにもっと良い曲を書かせられるか、さかんに話しあっていましたが、そんなの決まってるじゃないですか。「終わり」を教える。死とか、時間とかの概念を教えなければ無理でしょう。人はかならず死ぬんだということにおびえたり(ぼくは自分が死ぬのはほとんど怖くない。それはたぶん、ぼくが若くて未熟だからです。ぼくが怖いのは他人が死ぬことです)、二度ととりかえしがつかない、二度ともどってこないものがあるんだと絶望したり、そういう不安や恐怖をAIに教えないかぎり、本当の音楽など作れるはずがない。だけど、そんなものをAIに教える必要があるでしょうか? 不安や恐怖がないのは、ある意味うらやましいことなのに。そんなことに使う労力があったら、ぼくら人間の不安や恐怖をとりのぞく方法を考えたほうがよほど建設的なんじゃないのだろうか。
 これですか?
 この楽譜は、そう、ある人から借りたものです。ピアノ・スコアなんです。つまり、オーケストラの曲を、ピアノ用に書き直したやつです。交響曲(シンフォニー)ではないです。その——バレエ曲、らしいです。原譜がないらしいんですよ、オーケストラ用の総譜(スコア)が。そうなんです。この楽譜を借りてから、ぼくは落ちつきを失ってしまいました。ずっと心が波だっている状態です。正直もう嫁取りどころではありません。ああ、母上には言わないでください、どうか。
 あの男の話をしたほうがいいのかな。フォン・ロットバルト。考えたら、ファーストネームはいまだに知りません。


★BGM:カミーユ・サン=サーンス「白鳥」(『動物の謝肉祭』より)
https://www.youtube.com/watch?v=-eb-n5e8SPI
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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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