第十八曲 大きな白鳥たちの踊り (3) ★BGM付
文字数 3,775文字
熱いココアのカップを口にはこびながら、そう言って彼が微笑んだのは、年が明けて、一月六日の
ぼくがディーディーを、うちに招いたのでした。王宮の礼拝堂での奏楽をつとめてくれるよう頼んだのです。昨夜から降りだした雪が数センチ積もり、その新雪をきゅっきゅっと踏んであらわれたときの彼の顔を、ぼくは一生、忘れないでしょう。「やあ」と言いました。彼がです。はにかむ、という文字が、この人の辞書にもあるのだなと思いました。小鳥が一羽、枝から飛びたち、はらい落とされた雪がかるく雪面に落ちて、あれは胸が赤かったからコマドリだな。
遠く、遠く、かなたから歩きつづけてきて、とうとうたどり着いた。ついに会えた。
その喜びと、感謝の日。
アレルヤ。
ピアノ(ベーゼンドルファー)のあるサロンを用意したのだけど、けっきょく彼は鍵盤に手をふれようとしませんでした。朝のミサのグレゴリオ聖歌の清らかさと、雪の静けさに、降りこめられてしまったようです。こんな神妙な彼、初めて見ます。でも考えたら、《初めて見るディーディー》シリーズがけっこうあるので、たんにぼくが、まだまだこの人のことを知らないだけということか。とうぶんは飽きないな。
楽しそうに話しつづけたのはおもに母で、ディーディーはひたすらうつむいて照れていた——いい眺め!——のですが、ともあれ二人の話をつきあわせると、彼が突然、二十数年ぶりに、彼女の前に姿をあらわしたのは、まさに彼がぼくの前に姿をあらわした時期と合致していました。ははーん。初日は何かふたこと三言言ってあっさり去ったそうで、目に見えるようですよディーディー、あなたのカッコつけた後ろ姿と、母上のあっけにとられたお顔が。ところが、その後二か月くらい、音沙汰がなかったそうです。なるほどね。ぼくという新しいおもちゃを見つけてしまって、それを彼女にさとられるのが怖いものだから、あんなにこそこそ
「でもわたくし、じつは途中で気がついていたのよ。あなたの木曜日のお師匠さまがシュトイバーさんではないって」
「そうなんですか! いつから?」
「だって、あのお嬢さまたちから来たコンサートの企画書」
そうか、監修にディーディーの名前が載っちゃってたのか! 母上、めざとい。さすがの彼も女の子たちの口を封じるまでは手が回らなかったんだな。
それから彼はオデットとぼくをくっつけるというプロジェクトを思いついて夢中になるのですが、そのあたりから母上は口をつぐんで語ってくださらず、ということは逆に、このあたりが怪しさ無限大じゃないか。ぼくらが破局してぼくが『悲愴』エンドレスをやったりしたから、このままではぼくが死んじゃうかもしれないと思って気が気でなくて、つい、優しい悪魔さんに泣きついちゃったんじゃないですか? と、かまをかけてみたら、立ちあがって新しいココアを作りに行ってしまいました。ビンゴ。
「マダガスカル産のね、オーガニックのココアパウダーなのですって。こうしてお砂糖をひかえめにして、うんと濃く練るとおいしいでしょ。それもミルクなしで、熱湯だけで」
「本当ですね」とディーディー。「知らない飲み物のようだ」
「お二人とも。いいからここへお座りなさい」
再婚なさる気はないのですか? と直球で訊いてみたら、ディーディーはちょっとだけココアをソーサーにこぼしてしまっていました。母上はあっさりと、
「ないわ」
瞬殺か!
「だってジークフリート、あなたの次にわたくしなのよ、バルコニーから手を振って外貨を稼いでいるのは」
そういうことか。まじめな、現実的な話だったのでした。
「そうですね。カレンダーなんてむしろ、ぼくの写真より母上のが多い年のほうがよく売れてます。さすがのぼくもドレスをとっかえひっかえはできないので」
「してみたら? 似合うと思うけど」
「ぼくも思いますけどね、それで売上が激減したらとりかえしがつかない」
「でしょ? だから、もし摂政はやめるとしても、もうしばらくわたくし王室にいたほうがいいのじゃないかしら? 再婚したらわたくしお外に出てしまうから、あなたひとりになってしまうのよ」
「ですね」そうか。申し訳ない、母上。けっきょくいつも、ぼくがふがいないために——
「だから、あなたが、さっさと結婚してちっちゃい人たちを増やしてくれれば、五人でも十人でも」
「ああそれ言わないで! ぼくいま失意のどん底なんですから。自分で言いましたけど」
「お嬢さまはまだベルリンからお帰りにならないの、ディートリヒ?」母が彼を名前で呼ぶのを聞くと、さすがにまだ胸がざわつきます。
「時間の問題だとは思うのですが」とディーディー。
「その時間が、問題なのではなくて? この子のお妃候補のフェイク報道を頼むのも、わたくしだんだんアイデアが尽きてきたわ」
これにはディーディーもぼくも、あいた口がふさがりませんでした。まさかあなたが黒幕でしたか、母上!
とにかく、一周回って、この物語の冒頭に戻ってしまいました。ぼくの結婚問題。判をついたりサインをしたりはなんとか独りでできるんじゃないかと思ったのだけど、そうか、カレンダー対策があったか。うーん。いっそ、恋とか愛とか知らないうちに目をつぶって結婚してしまえばよかったな。どうしよう。いまさらオデット以外の人なんて考えられません。みんな時間の問題だって言ってくれるけど、そんなの誰もぼくじゃないから言えるんです。
門のところまで、ディーディーを送っていきました。雪が深くなってる。日がまだ短いね、もうほとんど暗くなりかけて。雪の上の影が藍色。
握手して、手を振って、戻ろうとしたら、ちょいちょいと手まねきされました。
何。
「どうだった?」
「何が?」
「今日のおれ」
沈黙。
「頼む。正直に答えてくれ」
「じゅうぶんいい男だったんじゃないですか? いつもと変わらず、美貌と美声で」
「ため息をつきながら言うな」
「かんべんしてくださいよ、ぼくいま失意のどん底絶賛継続中なんですから。二度言いましたけど」
「服、地味すぎなかったかな? 老けて見えてたらどうしよう」
「あのね、いいこと教えてあげる。母は男のジレ姿に弱いんです」
「そうなんだ?」
「ぼくにもよく着せたがるの。だから今日途中でジャケット脱いだでしょ、あれ大正解。あと彼女、サスペンダーも好きだよ」
「覚えておく」
「他にご質問は? なければもう帰ります。寒いし」
「待ってくれ。取り引きしよう。オデットに関してはおれが全面的にバックアップする、だから」
「お断りします。あなたがからむと何でもややこしくなるんです。こないだ反省してたじゃない、自分で」
「まあそう言うな、息子よ」
「まだお父さんとは呼んであげませんから!」
「声が大きい」
「どっちも膠着状態じゃないですか。母のほうもオデットのほうも」
「そうだな。ほんっと、女は面倒だなあー。いっそきみとおれが結婚するのはどうだ。そうすればすべて丸く」
「おさまりません」
「さっききみのドレス姿の話が出たから妄想してしまったんだ。ぜったい似合うな、白いレース。まちがいない。おれとしては、胸もとはそんなにあいてなくて、そのかわり鎖骨がきれいに見えるのが好みだ」
「ばかなの?」
「知ってるか、チャイコフスキーが仮装パーティに完璧に女装して現れた話。あまりに美しくて、はじめ誰も彼だと気づかなかったらしいぞ。面白いやつだな、ピョートル・イリイチ」
「それが何か」
「わかった、きみの希望を優先しよう。おれのほうがヴェールをかぶるのもやぶさかではない」
「やめて」
ロットバルトとの会話は、テニスのラリーです。打って打って打ち返す、返せなかったら負け。一度でいいからサービスエースを取ってみたいんだけど、いまのところ、ぎりぎりデュースに持ちこんでからのコードボール(ネットイン)しかありません。くやしい。何が「息子よ」だ。部屋に戻ってからも、ぼくはずっと笑いが止まりませんでした。
★BGM:グレゴリオ聖歌「われら、かの星を見たり」
https://www.youtube.com/watch?list=RDWJjQioFfmjQ&v=WJjQioFfmjQ&feature=emb_rel_end