第十八曲 大きな白鳥たちの踊り (3) ★BGM付

文字数 3,775文字

「いくつになっても成長しませんね。おはずかしい」
 熱いココアのカップを口にはこびながら、そう言って彼が微笑んだのは、年が明けて、一月六日の公現祭(エピファニー)、別名「聖なる三王の祝日(ドライケーニクスフェスト)」がぶじにすんだ日の午後でした。クリスマスシーズンの最終日です。待降節(アドヴェント)のあいだに人形がひとつずつ増やされていった馬小屋(クリッペ)のお飾り、イヴの夜に赤ちゃんイエスの人形がかいばおけに入れられて完成、と思いきや、(マルクト)は二十四日の午後にはすべて撤収されてしまうのに、クリッペはまだまだ続くのです。その後も毎日、天使たちがつぎつぎと加えられていきます、ミニチュアの楽器を手にして。トランペット。ハープ。リュート。ヴァイオリン。ポルタティフという片手でかかえて弾く小さなパイプオルガン。その仕上げが、クリスマスから十二夜めの公現祭です。豪華なマントの三人の賢者。星をたよりに遠路はるばる訪ねてきた彼らがやっと到着して、赤ちゃんの前にひざまずきます。初めて、救い主が、世界の前に姿をあらわす日の祝い。クリスマスの完成です。
 ぼくがディーディーを、うちに招いたのでした。王宮の礼拝堂での奏楽をつとめてくれるよう頼んだのです。昨夜から降りだした雪が数センチ積もり、その新雪をきゅっきゅっと踏んであらわれたときの彼の顔を、ぼくは一生、忘れないでしょう。「やあ」と言いました。彼がです。はにかむ、という文字が、この人の辞書にもあるのだなと思いました。小鳥が一羽、枝から飛びたち、はらい落とされた雪がかるく雪面に落ちて、あれは胸が赤かったからコマドリだな。
 遠く、遠く、かなたから歩きつづけてきて、とうとうたどり着いた。ついに会えた。
 その喜びと、感謝の日。

 アレルヤ。
 われら、かの星を東方に見たれば(ウィディムス・ステラム・エイウス・イン・オリテンテ)
 捧げ物持て、主を拝まんとて来たり(エト・ウェニムス・クム・ムネリブス・アドラーレ・ドミヌム)
 
 ピアノ(ベーゼンドルファー)のあるサロンを用意したのだけど、けっきょく彼は鍵盤に手をふれようとしませんでした。朝のミサのグレゴリオ聖歌の清らかさと、雪の静けさに、降りこめられてしまったようです。こんな神妙な彼、初めて見ます。でも考えたら、《初めて見るディーディー》シリーズがけっこうあるので、たんにぼくが、まだまだこの人のことを知らないだけということか。とうぶんは飽きないな。
 楽しそうに話しつづけたのはおもに母で、ディーディーはひたすらうつむいて照れていた——いい眺め!——のですが、ともあれ二人の話をつきあわせると、彼が突然、二十数年ぶりに、彼女の前に姿をあらわしたのは、まさに彼がぼくの前に姿をあらわした時期と合致していました。ははーん。初日は何かふたこと三言言ってあっさり去ったそうで、目に見えるようですよディーディー、あなたのカッコつけた後ろ姿と、母上のあっけにとられたお顔が。ところが、その後二か月くらい、音沙汰がなかったそうです。なるほどね。ぼくという新しいおもちゃを見つけてしまって、それを彼女にさとられるのが怖いものだから、あんなにこそこそ隠蔽(いんぺい)工作をしていたわけだ。まったく。
「でもわたくし、じつは途中で気がついていたのよ。あなたの木曜日のお師匠さまがシュトイバーさんではないって」
「そうなんですか! いつから?」
「だって、あのお嬢さまたちから来たコンサートの企画書」
 そうか、監修にディーディーの名前が載っちゃってたのか! 母上、めざとい。さすがの彼も女の子たちの口を封じるまでは手が回らなかったんだな。
 それから彼はオデットとぼくをくっつけるというプロジェクトを思いついて夢中になるのですが、そのあたりから母上は口をつぐんで語ってくださらず、ということは逆に、このあたりが怪しさ無限大じゃないか。ぼくらが破局してぼくが『悲愴』エンドレスをやったりしたから、このままではぼくが死んじゃうかもしれないと思って気が気でなくて、つい、優しい悪魔さんに泣きついちゃったんじゃないですか? と、かまをかけてみたら、立ちあがって新しいココアを作りに行ってしまいました。ビンゴ。
「マダガスカル産のね、オーガニックのココアパウダーなのですって。こうしてお砂糖をひかえめにして、うんと濃く練るとおいしいでしょ。それもミルクなしで、熱湯だけで」
「本当ですね」とディーディー。「知らない飲み物のようだ」
「お二人とも。いいからここへお座りなさい」
 再婚なさる気はないのですか? と直球で訊いてみたら、ディーディーはちょっとだけココアをソーサーにこぼしてしまっていました。母上はあっさりと、
「ないわ」
 瞬殺か!
「だってジークフリート、あなたの次にわたくしなのよ、バルコニーから手を振って外貨を稼いでいるのは」
 そういうことか。まじめな、現実的な話だったのでした。
「そうですね。カレンダーなんてむしろ、ぼくの写真より母上のが多い年のほうがよく売れてます。さすがのぼくもドレスをとっかえひっかえはできないので」
「してみたら? 似合うと思うけど」
「ぼくも思いますけどね、それで売上が激減したらとりかえしがつかない」
「でしょ? だから、もし摂政はやめるとしても、もうしばらくわたくし王室にいたほうがいいのじゃないかしら? 再婚したらわたくしお外に出てしまうから、あなたひとりになってしまうのよ」
「ですね」そうか。申し訳ない、母上。けっきょくいつも、ぼくがふがいないために——
「だから、あなたが、さっさと結婚してちっちゃい人たちを増やしてくれれば、五人でも十人でも」
「ああそれ言わないで! ぼくいま失意のどん底なんですから。自分で言いましたけど」
「お嬢さまはまだベルリンからお帰りにならないの、ディートリヒ?」母が彼を名前で呼ぶのを聞くと、さすがにまだ胸がざわつきます。
「時間の問題だとは思うのですが」とディーディー。
「その時間が、問題なのではなくて? この子のお妃候補のフェイク報道を頼むのも、わたくしだんだんアイデアが尽きてきたわ」
 これにはディーディーもぼくも、あいた口がふさがりませんでした。まさかあなたが黒幕でしたか、母上!
 とにかく、一周回って、この物語の冒頭に戻ってしまいました。ぼくの結婚問題。判をついたりサインをしたりはなんとか独りでできるんじゃないかと思ったのだけど、そうか、カレンダー対策があったか。うーん。いっそ、恋とか愛とか知らないうちに目をつぶって結婚してしまえばよかったな。どうしよう。いまさらオデット以外の人なんて考えられません。みんな時間の問題だって言ってくれるけど、そんなの誰もぼくじゃないから言えるんです。

 門のところまで、ディーディーを送っていきました。雪が深くなってる。日がまだ短いね、もうほとんど暗くなりかけて。雪の上の影が藍色。
 握手して、手を振って、戻ろうとしたら、ちょいちょいと手まねきされました。
 何。
「どうだった?」
「何が?」
「今日のおれ」
 沈黙。
「頼む。正直に答えてくれ」
「じゅうぶんいい男だったんじゃないですか? いつもと変わらず、美貌と美声で」
「ため息をつきながら言うな」
「かんべんしてくださいよ、ぼくいま失意のどん底絶賛継続中なんですから。二度言いましたけど」
「服、地味すぎなかったかな? 老けて見えてたらどうしよう」
「あのね、いいこと教えてあげる。母は男のジレ姿に弱いんです」
「そうなんだ?」
「ぼくにもよく着せたがるの。だから今日途中でジャケット脱いだでしょ、あれ大正解。あと彼女、サスペンダーも好きだよ」
「覚えておく」
「他にご質問は? なければもう帰ります。寒いし」
「待ってくれ。取り引きしよう。オデットに関してはおれが全面的にバックアップする、だから」
「お断りします。あなたがからむと何でもややこしくなるんです。こないだ反省してたじゃない、自分で」
「まあそう言うな、息子よ」
「まだお父さんとは呼んであげませんから!」
「声が大きい」
「どっちも膠着状態じゃないですか。母のほうもオデットのほうも」
「そうだな。ほんっと、女は面倒だなあー。いっそきみとおれが結婚するのはどうだ。そうすればすべて丸く」
「おさまりません」
「さっききみのドレス姿の話が出たから妄想してしまったんだ。ぜったい似合うな、白いレース。まちがいない。おれとしては、胸もとはそんなにあいてなくて、そのかわり鎖骨がきれいに見えるのが好みだ」
「ばかなの?」
「知ってるか、チャイコフスキーが仮装パーティに完璧に女装して現れた話。あまりに美しくて、はじめ誰も彼だと気づかなかったらしいぞ。面白いやつだな、ピョートル・イリイチ」
「それが何か」
「わかった、きみの希望を優先しよう。おれのほうがヴェールをかぶるのもやぶさかではない」
「やめて」
 ロットバルトとの会話は、テニスのラリーです。打って打って打ち返す、返せなかったら負け。一度でいいからサービスエースを取ってみたいんだけど、いまのところ、ぎりぎりデュースに持ちこんでからのコードボール(ネットイン)しかありません。くやしい。何が「息子よ」だ。部屋に戻ってからも、ぼくはずっと笑いが止まりませんでした。


★BGM:グレゴリオ聖歌「われら、かの星を見たり」
https://www.youtube.com/watch?list=RDWJjQioFfmjQ&v=WJjQioFfmjQ&feature=emb_rel_end
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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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