第八曲 情景(湖の)(2)
文字数 2,190文字
「何だ、それは」
「ぼくがいろいろとがんじがらめだということをご存知なのだから、無責任にちょっかいを出さないでください。ぼくはあなたのおもちゃじゃありません。彼女のおもちゃでもない。ぼくにだって心くらいあるんです。ひからびてはいますが」
「知ってる」
「何をですか。心があることですか。ひからびていることですか」
「両方」
ふざけるな。「それのどこがそんなに面白いですか」
「気に入らなかったか? うちの娘」
「気に入らなかったなんて」しまった。「言ってません」
「気に入ってくれたか!」
「そうも言ってません、ちょっと待って」
「よしわかった。それなら話は早い」
「早くない! 待ってって言ってるでしょう」
「何を待つんだ」
「それは、その」頭の中を彼女の映像が駆けめぐります。ヴァイオリンを膝に置いた、氷のような横顔。「ぼく嫌われてるじゃないですか、完全に」
「は? なぜそうなる?」
「だってどう見てもそうでしょう。ぼくのどこがいけなかったのかわかりませんが」ちがう、こんなことを言うつもりじゃ。「何が彼女をあんなに怒らせてしまったのかわかりませんが、目も合わせてくれないし」ばか、こんな卑屈になってどうする。だいたい目が合わせられなかったのはぼくのほうだ。「その点をまず解明しないとというか」
「長い。きみの話はいつも長すぎる。要点を言え、要点を」
「そういうふうにせっつかれるのがいちばん苦手だと言ってるじゃないですか」
「あいつに会いたいのか会いたくないのか、どっちなんだ」
「会いたいですよ!」
「それを早く言え!」
「こんなの脅迫じゃないですか!」
「おれだって毎日責められてるんだ、あいつに!」
「自業自得でしょう!——え? 責められてるって、何を?」
「いろいろ。すべてだ。まず、サプライズのつもりで事前のインフォなしにきみを引き合わせたこと。ふだん着だったからってきみが誰か気づかないあいつが大ばかだと思うんだが、一方的におれが悪いことになっていて、これできみに嫌われたら舌を噛んで死ぬと言ってる」まじで?!「それから、きみが先週木曜日に来なかっただろう。あいつは一昼夜部屋に立てこもった。やっと出てきたと思ったら週末じゅう毎食、タマネギばかり食わされた。タマネギだぞ。わかるか。まともに食ってたら口臭が気になって家から出られない。2キロやせたよ。その上、おれの大事なオルガンシューズ(※)を隠された。あれがなくても弾けるんだが、でも、あれがないと弾けない」何言ってるんだこの人は。「あいつにはかなわない。おれの弱味も何もかも知り尽くしてるんだよ。頼む。おれを哀れと思って、どうかこの
何の話ですか。
「すまない。おれはきみに夢中で」今度そっちから来た?!「たしかに無責任にちょっかいを出した。あやまる。きみの言うとおりだ、なんとかしてやりたいと思ってしまったんだが、よけいなお世話だった」よけいな、お世話だとは、言ってません。「結婚うんぬんはどうでもいい。一度でいいからあいつに会ってやってくれ。このままだと本当に死んじゃうかもしれない。おれが」
「あなたがですか」
「うん」
何、その、うるうるした目。ずるい。「だけどぼくとかかわるとものすごく面倒ですよ、おわかりですよね? 父親ならふつう止めませんか、ぼくなら止めます」
「残念ながら父親はおれだ。おれが言うのもなんだが、あいつはああ見えて」どう見えて?「まれに見るいい女だ。何がいいって、破壊力がある。自信を持ってお勧めする。きみのがんじがらめを爆破できるのは、たぶんこの地上であいつだけだ」
「テロリストですか彼女は」
「あいつはあいつで大いに問題がある。連れてくる男がことごとくカスなんだ。見ていられない。おれとしては、つまらないのに引っかかってはらまされる前に、きみの子どもを生んでほしい」
「種馬ですかぼくは」
「四の五の言うな」
「言う権利あると思いますけど」
「どうしてきみらはそう、なんというか、面倒なんだ。まあ、考えたらおれも身に覚えがないわけじゃないけどな。きみらを見てると、自分も年取ったなと思うよ」
「あなたが年取ったかどうかなんてぼくには関係ありません!」
「わかったわかった。落ちつけ」
「落ちつけって、あなたが言いますか?!」
根本的にまちがってるんですよあなたは、ロットバルト。よけいなお世話だなんて、ぼくは、ひとことも言ってません。ぼくの生涯にここまで土足で踏みこんできた人は、ここまでぼくをなんとかしてやりたいと思ってくれた人は、たぶんあなたが初めてなんです。わかってますか。
こういうのいやなんだ。こういう——温かいの。大人の男の人にハグされるの、六年ぶりなんだから。これに頼ってしまうと、またきゅうにいなくなられたときにダメージ大きいからいやなんです。
※オルガンシューズは、パイプオルガンを弾くための特別な靴です。足用の鍵盤もあるので、それを足をすべらせて踏めるように、靴底にぎざぎざがついてなくて、なめらかなんです。でも、こだわらないで、靴を脱いで靴下で弾いちゃう人もいます(日本人じゃなくてもね)。ようするにロットバルト、形から入る人なんだよね。