第十六曲 間奏曲 砂糖菓子の精の踊り (1) ★BGM付
文字数 2,970文字
大聖堂を出たら、朝来たとき石畳に白く降りていた霜が、まだ少し残っていました。
オデットがベルリンに去ってから、ひと月になります。なぜ、ベルリン。ミュンヘンでもウィーンでもなく、よりによってベルリン。ぼくの絶望がわかっていただけるでしょうか。バイエルン(南ドイツ語圏)をよくご存じないかたには無理かもしれません。ぼくらバイエルンの人間にとっては、オーストリアやイタリアよりはるかに、北ドイツは異国です。彼らはプロイセンなんです。厳格な人たち、無駄や遅刻というものをしない人たちなんです(ああこれやっぱり、わかってもらえるとは思えない)。黄色と黒のテープの上に太いマジックペンで、来るなと書かれたも同然です。
ゆるしてもらえないんだ。当然だけど。
つききりで看病したのに、目ざめたとたん、枕を投げつけられました。正確には、投げつけられそうになりました。弱っていて、ぼくまでとどかなかったのです。デジレとは何もなかったと必死に抗弁したのですが、そのほうがひどいと言われ、なぜだか、反論できませんでした。どんなにあやまっても「帰って」の一点ばりで、そのうち「なんであやまるの? あやまるようなことをしたと思ってるからでしょ?」と言いはじめ、泣かれて、そのとおりだと思ってしまったからもう何も言えず、ぼくはどうやって帰宅したか覚えていません。
そのまま、会えないまま、熱が下がったらさっさと手続きをしてベルリンの音大に行ってしまいました。そこまでする?と思ったけれど、やっぱり悪いのはぼくだから。
「少しはわかった? 愛して、愛して、この人なしでは生きていけないと思うくらい愛して、その相手が、自分なしでも生きていけるんだって知るのがどんなに残酷なことか。行って、アフリカへでもどこへでも行って。二度とあたしの前に姿を現さないで。あたしをひとりにして」
ピアノのふたを開ける勇気がなくて、レコードばかり聞いています。本当は何も聞く気になれないのだけど、静寂にも耐えられません。
チャイコフスキーの遺作、『六つの歌曲』の最終曲。「ふたたび私はひとり」。
ふたたび私はひとり
かつてと同じ哀しみ
窓からポプラがのぞき
月明かりがすべてを照らす
窓からポプラがのぞき
木の葉がなにごとかささやく
星は満天に燃え
きみは いまどこに
私に何が起ころうと
それを語りはすまい
友よ 私のために祈ってくれ
私はきみのために祈っている
ピョートル・イリイチ、あなたに何があったのですか。「私に何が起ころうと/それを語りはすまい」って、どういう意味。いまぼくが感じているこの悲しみは、ぼくのものですか、それともあなたのものですか。音楽の力は恐ろしい。この曲をくりかえし聴いていると、ぼくはもう、あなたの側に行ってしまってもいいような気がしてくるのです。少なくとも、この曲が終わって、聞こえてくるのがかすかな摩擦音だけになると、ぼくはふらふらと立って、もう一度同じ場所に針を落とさずにはいられないんだ。
エンドレスに聴いていたら、数日後、この盤が部屋から消えていました。ベンノのしわざにちがいありません。
悲しい曲にずっと溺れていないと苦しくてたまらない。悲しい曲は、こういうときのためにあるのだとわかりました。交響曲第六番『悲愴』。ふつうとちがって、四楽章のうち三楽章でいったん華やかにしめくくられてしまいます。問題の最終楽章、アダージオ・ラメントーゾ(ゆったりと憂愁に満ちて)。甘美で哀切なテーマ、少しずつ消え入っていくラスト。コンサートだったら、拍手なんてできない。哀しすぎて。
終わらない。
何かが終わってしまったあと、その終わってしまったこと自体が、いつまでも終わらない、という曲。途中でいたたまれなくなって立ちあがろうとして、また最初の哀しいメロディに戻り、また立っては、また引き戻される。暗い波が見えるようです。寄せては、引いていく。危ない。自分でもわかります。引きこまれる。闇に。
この盤も、いつのまにか片づけられてしまいました。ありがとう、ベンノ。
なぜかライナーノーツだけが机の上に残されています。それによると、チャイコフスキーはこのシンフォニーを、自分で感動して大泣きしながら書いたのだそうです、「これ傑作、私の遺作だ!」って。泣いていいのか笑っていいのかわかりません。ピョートル・イリイチ、面白い人だな。
そして、ふと気がついたのですが、
ベンノは文字が読めない。
ここに面白いことが書いてあるなんて、わからないはずです。
アレクセイ。でもアレクセイは、ロシア語しか読めないかもしれません。アナトリー、モデスト。どっちだ、きみは。そこにいますね。大きくなったね、もうぼくと同じくらいの背丈じゃないのか。そうか、きみもアレクセイといっしょに、ベンノに入りこんでいるんだね。ぼくの背に手を置くのか。ぼくを後ろから抱きしめてくれるのか。泣かないでくれ。きみに泣かれるとぼくはたまらない。台本ヲ、手伝イマス。そう、じゃ、モデストだね。アナトリーはりっぱに法律の道を歩んでいるからね、ぼくたちの誇りだね。きみはいつまでもぼくを手伝ってくれていていいのか、モデスト。舞台がそんなに好きか。ぼくがそんなに好きでいいのか。ありがとう。ぼくは何も語らないでおくことにするよ。きみが代わりに語ってくれたまえ。きみにまかせるよ、ぼくの伝記と、ぼくの台本をね。
ピョートル・イリイチ、あなたがうらやましいです。ぼくにはぼくの人生の台本を、ぼくのかわりに書いてくれる人はいません。自分で書いていかなくてはなりません。きつい。教えてください、ぼくはこのまま終わるのでしょうか。裏切って、ゆるされないで……。次のページがどうなっているのか知りたい。いや、それも怖いな。知らないほうがいいのかもしれない。
★BGM:【注意】暗いとき聞かないほうがいいです。まじで起き上がれなくなります。
歌曲「ふたたび私はひとり」チェロ+オーケストラバージョン
https://www.youtube.com/watch?v=ERERC923FZk
交響曲『悲愴』最終楽章
https://www.youtube.com/watch?v=_KB2tnSc_qw
↑この映像、背景にたくさんチャイコさんの肖像写真が(涙)。お家も。お葬式も(すごい人出、ほぼ国葬?)。お墓も……。途中から、なんだかぼくが早回しで年取らされてるようで、複雑な気持ちになりました(苦笑)。