第十六曲 間奏曲 砂糖菓子の精の踊り (1) ★BGM付

文字数 2,970文字

 万聖節(アラーハイリゲン)でした。十一月一日です。すべての聖人と殉教者に祈りを捧げる日。ミサ曲も静かでした。昨晩は、世界のあちこちで、かぼちゃだか何だか大騒ぎのお祭りだったようですが、ぼくらのところではあれは祝いません。石造りの大聖堂は底冷えがするのに、ベンチ席の下にはまだ暖房が入っていなくて、お年寄りにはつらいのではないかと思いました。ひざまずいているとき、ぼくがせきをしたら、前の席にいた老夫婦がふりむいて、そっとのどあめをくれました。リコラの、ミックスベリー味。孫くらいに見えたのでしょうか。こうしてたくさん着こんで顔も隠せる季節になると、ぼくだと気づかれる確率が格段に低くなるので気が楽です。おおぜいの中にまぎれていれば、泣いていても気づかれない。
 大聖堂を出たら、朝来たとき石畳に白く降りていた霜が、まだ少し残っていました。
 オデットがベルリンに去ってから、ひと月になります。なぜ、ベルリン。ミュンヘンでもウィーンでもなく、よりによってベルリン。ぼくの絶望がわかっていただけるでしょうか。バイエルン(南ドイツ語圏)をよくご存じないかたには無理かもしれません。ぼくらバイエルンの人間にとっては、オーストリアやイタリアよりはるかに、北ドイツは異国です。彼らはプロイセンなんです。厳格な人たち、無駄や遅刻というものをしない人たちなんです(ああこれやっぱり、わかってもらえるとは思えない)。黄色と黒のテープの上に太いマジックペンで、来るなと書かれたも同然です。
 ゆるしてもらえないんだ。当然だけど。
 つききりで看病したのに、目ざめたとたん、枕を投げつけられました。正確には、投げつけられそうになりました。弱っていて、ぼくまでとどかなかったのです。デジレとは何もなかったと必死に抗弁したのですが、そのほうがひどいと言われ、なぜだか、反論できませんでした。どんなにあやまっても「帰って」の一点ばりで、そのうち「なんであやまるの? あやまるようなことをしたと思ってるからでしょ?」と言いはじめ、泣かれて、そのとおりだと思ってしまったからもう何も言えず、ぼくはどうやって帰宅したか覚えていません。
 そのまま、会えないまま、熱が下がったらさっさと手続きをしてベルリンの音大に行ってしまいました。そこまでする?と思ったけれど、やっぱり悪いのはぼくだから。
「少しはわかった? 愛して、愛して、この人なしでは生きていけないと思うくらい愛して、その相手が、自分なしでも生きていけるんだって知るのがどんなに残酷なことか。行って、アフリカへでもどこへでも行って。二度とあたしの前に姿を現さないで。あたしをひとりにして」

 ピアノのふたを開ける勇気がなくて、レコードばかり聞いています。本当は何も聞く気になれないのだけど、静寂にも耐えられません。
 チャイコフスキーの遺作、『六つの歌曲』の最終曲。「ふたたび私はひとり」。

 ふたたび私はひとり
 かつてと同じ哀しみ
 窓からポプラがのぞき
 月明かりがすべてを照らす

 窓からポプラがのぞき
 木の葉がなにごとかささやく
 星は満天に燃え
 きみは いまどこに

 私に何が起ころうと
 それを語りはすまい
 友よ 私のために祈ってくれ
 私はきみのために祈っている

 ピョートル・イリイチ、あなたに何があったのですか。「私に何が起ころうと/それを語りはすまい」って、どういう意味。いまぼくが感じているこの悲しみは、ぼくのものですか、それともあなたのものですか。音楽の力は恐ろしい。この曲をくりかえし聴いていると、ぼくはもう、あなたの側に行ってしまってもいいような気がしてくるのです。少なくとも、この曲が終わって、聞こえてくるのがかすかな摩擦音だけになると、ぼくはふらふらと立って、もう一度同じ場所に針を落とさずにはいられないんだ。
 エンドレスに聴いていたら、数日後、この盤が部屋から消えていました。ベンノのしわざにちがいありません。
 悲しい曲にずっと溺れていないと苦しくてたまらない。悲しい曲は、こういうときのためにあるのだとわかりました。交響曲第六番『悲愴』。ふつうとちがって、四楽章のうち三楽章でいったん華やかにしめくくられてしまいます。問題の最終楽章、アダージオ・ラメントーゾ(ゆったりと憂愁に満ちて)。甘美で哀切なテーマ、少しずつ消え入っていくラスト。コンサートだったら、拍手なんてできない。哀しすぎて。
 終わらない。
 何かが終わってしまったあと、その終わってしまったこと自体が、いつまでも終わらない、という曲。途中でいたたまれなくなって立ちあがろうとして、また最初の哀しいメロディに戻り、また立っては、また引き戻される。暗い波が見えるようです。寄せては、引いていく。危ない。自分でもわかります。引きこまれる。闇に。
 この盤も、いつのまにか片づけられてしまいました。ありがとう、ベンノ。
 なぜかライナーノーツだけが机の上に残されています。それによると、チャイコフスキーはこのシンフォニーを、自分で感動して大泣きしながら書いたのだそうです、「これ傑作、私の遺作だ!」って。泣いていいのか笑っていいのかわかりません。ピョートル・イリイチ、面白い人だな。
 そして、ふと気がついたのですが、
 ベンノは文字が読めない。
 ここに面白いことが書いてあるなんて、わからないはずです。
 アレクセイ。でもアレクセイは、ロシア語しか読めないかもしれません。アナトリー、モデスト。どっちだ、きみは。そこにいますね。大きくなったね、もうぼくと同じくらいの背丈じゃないのか。そうか、きみもアレクセイといっしょに、ベンノに入りこんでいるんだね。ぼくの背に手を置くのか。ぼくを後ろから抱きしめてくれるのか。泣かないでくれ。きみに泣かれるとぼくはたまらない。台本ヲ、手伝イマス。そう、じゃ、モデストだね。アナトリーはりっぱに法律の道を歩んでいるからね、ぼくたちの誇りだね。きみはいつまでもぼくを手伝ってくれていていいのか、モデスト。舞台がそんなに好きか。ぼくがそんなに好きでいいのか。ありがとう。ぼくは何も語らないでおくことにするよ。きみが代わりに語ってくれたまえ。きみにまかせるよ、ぼくの伝記と、ぼくの台本をね。
 ピョートル・イリイチ、あなたがうらやましいです。ぼくにはぼくの人生の台本を、ぼくのかわりに書いてくれる人はいません。自分で書いていかなくてはなりません。きつい。教えてください、ぼくはこのまま終わるのでしょうか。裏切って、ゆるされないで……。次のページがどうなっているのか知りたい。いや、それも怖いな。知らないほうがいいのかもしれない。


★BGM:【注意】暗いとき聞かないほうがいいです。まじで起き上がれなくなります。
歌曲「ふたたび私はひとり」チェロ+オーケストラバージョン
https://www.youtube.com/watch?v=ERERC923FZk
交響曲『悲愴』最終楽章
https://www.youtube.com/watch?v=_KB2tnSc_qw
↑この映像、背景にたくさんチャイコさんの肖像写真が(涙)。お家も。お葬式も(すごい人出、ほぼ国葬?)。お墓も……。途中から、なんだかぼくが早回しで年取らされてるようで、複雑な気持ちになりました(苦笑)。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み