第七曲 四羽の白鳥の踊り (1)
文字数 2,835文字
ぼくはエントロピーの低い状態が好きだ。静かで落ちついて、誰にもかき乱されないのが好きだったんだ。あの状態に戻してほしい。こういうときにクソとかチクショウとか言えばいいのかもしれないけれど、言い慣れていないからうまく言えない。
ずっと黙りこくっていたら、朝食のオムレツに、ケチャップではてなマークが書かれて出てきました。
「母上」
「なあに?」
「『アンナ・カレーニナ』についてどう思われますか。『ボヴァリー夫人』でもいいです」
母上は、面白そうに目を輝かせると、ナプキンで口をお拭きになりました。
「わたくしはどちらもちゃんと読んでいなくて、あらすじしか知らないけれど、不倫して悩んで自殺するというのは、ばかげていると思うわ」
わかりやすいまとめ、ありがとうございます。
「しかも、どちらも自殺するのは女よね。男の人は生き残る。逆じゃないかしら」
「逆ですか?」
「女のほうがずぶといものよ」
「そうですか。そのへんはまだ、ぼくにはわかりません」
母上は、ぼくの目をさぐるようにごらんになりました。
「ジークフリート。好きな人ができたのならわたくしも嬉しいけれど、よそさまの奥方は、早めに切り上げておきなさいね。あとがめんどうよ」
「ちがいます」なぜそうなる。
「あらそう。残念」
何が、どう、残念なのでしょうか?
「まさか、わたくしが、ボヴァリー夫人なの?」乗り出してきました。なんだかひじょうにおいしいえさを与えてしまったみたいです。失敗した。「ねえねえ、そうなの?」
「ちがいますけど、それ言われて、ふつうそんなに喜びますか?」
「だって面白いじゃない。わたくしそんなふうに疑われたことないのだもの」
たしかにね。苦悩という文字は、母上の辞書にはなさそうです。
ロットバルト。あのエロおやじ。わからない。何がしたいんだ。不愉快です。不義の子? ないない。見たまえ、母上のこのあっけらかんとしたご様子。それに、よく言われるけどぼくの顔、父上そっくりなんですよ(顔だけは)。髪の色がちがうだけで(そこは母上似)。自分でも思うもの、これ服とか靴とかのモノだったら《色ちがい》ってやつだよなって。あたりまえだ。一瞬でも動揺してしまった自分がはずかしい。あの野郎、世が世なら不敬罪で死刑にしてやるところだ。おれの息子にしたいって、ばかじゃないのか、死んでもなってやるもんか。
しかもあのオディールって女に唇を奪われたという屈辱。こうして言葉にするとさらに屈辱的だ! いろいろ言ってやりたい気持ちでいっぱいなのに、何と言ってやったらいいのかわかりません。つまり。何が「つまり」だ、ぜんぜん整理できない。ひとつ確実に言えるのはですね、あの女。このぼくが。誰だか。まったくわかっていなかったという。それ、わりとかるくショックだったかもしれないです。うぬぼれているつもりはなかったのですが、二十四時間、三百六十五日、誰もぼくに気づかないでくれと願いながら生きてきて、本当に気づかれなかったの、初めてですよ。ばっちり顔出しして、というか至近距離で、というかキス……ああっ! もう、あり得ない。さすがに帰りぎわ「ごめんなさい」とかもごもご言ってたけど、ガン無視。当然だろ。あやまればすむとでも思ってるのか。とりかえしのつくこととつかないことがあるだろうが。ぼくの初めてを返せ!! 木曜を、一回休みました。こうして会いに行ってやらないことがぼくの怒りを表明できる唯一の手段なのですが、そんなのは彼らにたぶん何のダメージも与えていなくて、いまごろは涼しい顔でまた泳ぎ回っているにちがいありません、あの透けた——
ちがうちがう! ちがう。
つらくてたまらないので、熱があると言って部屋に引きこもりました。ベッドに横たわったまま、夜を待ちわびている自分がいます。本を手に取る気にもなれません。まして楽譜。気がつくとずっとあの父娘のことを考えています。いやだ。苦しい。何ものどを通らないので、夕食も断りました。なんのことはない、この二週間、自分で自分を罰していたようなものでした。問題は、明日どうするかということです。客観的に考えたら、明日どころかこの先二、三か月キャンセルしつづけてやればいいのです、なんなら永久に。そもそも行く義務などないのだし。手伝ってくれと言ったのは向こうじゃないか。ぼくは知らない。勝手にするがいい。でも、ぼくのほうが、限界でした。せっかく弦楽を聴かせてもらう約束だったのに、逃した。次に会ったとき(っていつだ)、そんな約束した?と言われたら、とりかえしがつきません。何なんだ、絶対的にぼくのほうが不利じゃないか。どうしてこうなっている? どうして?
ひかえめなノックの音がして、ベンノが氷水を持ってきてくれました。ありがたい。いちばん欲しかったものかもしれない。彼があまりに心配そうな顔なので、そんな病人に見えるのかなと思ってちょっと笑ってしまいました。冷たい水を少し飲み、氷をひとかけら口に入れて噛みくだきました。こういう水と氷だけで生きていける生物になれないものかな。額に置いてくれたベンノの手がひんやりして、心地いい。汗をかいているからさわらないほうがいいよ、と言おうと思ったら、そのまま自分の手でぼくの汗をぬぐってくれています。ありがとう。
ふと、
これ、どこから?と訊こうと思って、そうか訊けないんだと思い出しました。ベンノはにっこり笑って、うなずきました。その笑顔には、あきらめのような、決心のような、こんなささいなことには似つかわしくない深さがあって、ぼくは、これから彼にはさらにたくさん心労をかけるのだろうなという予感と、ありがとうとごめんねの他にぼくが彼に言えることはないのかというなさけなさで、胸が痛みました。
その紙片。たったひとことの走り書きだったけれど、筆跡には見覚えがありました。楽譜への書きこみで見慣れた字。しかもこれ、五線譜をちぎったものじゃないか。
たったひとこと、「ゆるして」。
あの——バカおやじ。
あやまればいいってもんじゃないだろう、あやまれば——だめだ。やられた。また笑ってしまった。この泣き顔のカオモジ(顔文字)、かわいい。