第七曲 四羽の白鳥の踊り (1)

文字数 2,835文字

 エントロピー。エントロピーの増大について、この数日考えつづけています。物理や数学は得意ではないので、あくまで比喩のレベルにおいてですが。「ある平衡(へいこう)状態から別の平衡状態へと遷移(せんい)するとき、遷移の前後でエントロピーはほぼ確実に増大する」。いまのぼくを新たな平衡状態と仮定すると、たしかに熱エネルギーの爆発的な増大が実感としてあり、しかもその熱エネルギーを他のエネルギーに変換することができないという点において、まさしくこの比喩は有効だという結論にいたりました。わかりやすく言い換えると、ぼくはずっと頭に血がのぼった状態なのですが、その熱をどこへも持っていきようがなくて、苦しいのです。
 ぼくはエントロピーの低い状態が好きだ。静かで落ちついて、誰にもかき乱されないのが好きだったんだ。あの状態に戻してほしい。こういうときにクソとかチクショウとか言えばいいのかもしれないけれど、言い慣れていないからうまく言えない。
 ずっと黙りこくっていたら、朝食のオムレツに、ケチャップではてなマークが書かれて出てきました。
「母上」
「なあに?」
「『アンナ・カレーニナ』についてどう思われますか。『ボヴァリー夫人』でもいいです」
 母上は、面白そうに目を輝かせると、ナプキンで口をお拭きになりました。
「わたくしはどちらもちゃんと読んでいなくて、あらすじしか知らないけれど、不倫して悩んで自殺するというのは、ばかげていると思うわ」
 わかりやすいまとめ、ありがとうございます。
「しかも、どちらも自殺するのは女よね。男の人は生き残る。逆じゃないかしら」
「逆ですか?」
「女のほうがずぶといものよ」
「そうですか。そのへんはまだ、ぼくにはわかりません」
 母上は、ぼくの目をさぐるようにごらんになりました。
「ジークフリート。好きな人ができたのならわたくしも嬉しいけれど、よそさまの奥方は、早めに切り上げておきなさいね。あとがめんどうよ」
「ちがいます」なぜそうなる。
「あらそう。残念」
 何が、どう、残念なのでしょうか?
「まさか、わたくしが、ボヴァリー夫人なの?」乗り出してきました。なんだかひじょうにおいしいえさを与えてしまったみたいです。失敗した。「ねえねえ、そうなの?」
「ちがいますけど、それ言われて、ふつうそんなに喜びますか?」
「だって面白いじゃない。わたくしそんなふうに疑われたことないのだもの」
 たしかにね。苦悩という文字は、母上の辞書にはなさそうです。
 ロットバルト。あのエロおやじ。わからない。何がしたいんだ。不愉快です。不義の子? ないない。見たまえ、母上のこのあっけらかんとしたご様子。それに、よく言われるけどぼくの顔、父上そっくりなんですよ(顔だけは)。髪の色がちがうだけで(そこは母上似)。自分でも思うもの、これ服とか靴とかのモノだったら《色ちがい》ってやつだよなって。あたりまえだ。一瞬でも動揺してしまった自分がはずかしい。あの野郎、世が世なら不敬罪で死刑にしてやるところだ。おれの息子にしたいって、ばかじゃないのか、死んでもなってやるもんか。
 しかもあのオディールって女に唇を奪われたという屈辱。こうして言葉にするとさらに屈辱的だ! いろいろ言ってやりたい気持ちでいっぱいなのに、何と言ってやったらいいのかわかりません。つまり。何が「つまり」だ、ぜんぜん整理できない。ひとつ確実に言えるのはですね、あの女。このぼくが。誰だか。まったくわかっていなかったという。それ、わりとかるくショックだったかもしれないです。うぬぼれているつもりはなかったのですが、二十四時間、三百六十五日、誰もぼくに気づかないでくれと願いながら生きてきて、本当に気づかれなかったの、初めてですよ。ばっちり顔出しして、というか至近距離で、というかキス……ああっ! もう、あり得ない。さすがに帰りぎわ「ごめんなさい」とかもごもご言ってたけど、ガン無視。当然だろ。あやまればすむとでも思ってるのか。とりかえしのつくこととつかないことがあるだろうが。ぼくの初めてを返せ!! 木曜を、一回休みました。こうして会いに行ってやらないことがぼくの怒りを表明できる唯一の手段なのですが、そんなのは彼らにたぶん何のダメージも与えていなくて、いまごろは涼しい顔でまた泳ぎ回っているにちがいありません、あの透けた——
 ちがうちがう! ちがう。
 つらくてたまらないので、熱があると言って部屋に引きこもりました。ベッドに横たわったまま、夜を待ちわびている自分がいます。本を手に取る気にもなれません。まして楽譜。気がつくとずっとあの父娘のことを考えています。いやだ。苦しい。何ものどを通らないので、夕食も断りました。なんのことはない、この二週間、自分で自分を罰していたようなものでした。問題は、明日どうするかということです。客観的に考えたら、明日どころかこの先二、三か月キャンセルしつづけてやればいいのです、なんなら永久に。そもそも行く義務などないのだし。手伝ってくれと言ったのは向こうじゃないか。ぼくは知らない。勝手にするがいい。でも、ぼくのほうが、限界でした。せっかく弦楽を聴かせてもらう約束だったのに、逃した。次に会ったとき(っていつだ)、そんな約束した?と言われたら、とりかえしがつきません。何なんだ、絶対的にぼくのほうが不利じゃないか。どうしてこうなっている? どうして?
 ひかえめなノックの音がして、ベンノが氷水を持ってきてくれました。ありがたい。いちばん欲しかったものかもしれない。彼があまりに心配そうな顔なので、そんな病人に見えるのかなと思ってちょっと笑ってしまいました。冷たい水を少し飲み、氷をひとかけら口に入れて噛みくだきました。こういう水と氷だけで生きていける生物になれないものかな。額に置いてくれたベンノの手がひんやりして、心地いい。汗をかいているからさわらないほうがいいよ、と言おうと思ったら、そのまま自分の手でぼくの汗をぬぐってくれています。ありがとう。
 ふと、(トレイ)の上の紙切れに、目がくぎづけになりました。
 これ、どこから?と訊こうと思って、そうか訊けないんだと思い出しました。ベンノはにっこり笑って、うなずきました。その笑顔には、あきらめのような、決心のような、こんなささいなことには似つかわしくない深さがあって、ぼくは、これから彼にはさらにたくさん心労をかけるのだろうなという予感と、ありがとうとごめんねの他にぼくが彼に言えることはないのかというなさけなさで、胸が痛みました。
 その紙片。たったひとことの走り書きだったけれど、筆跡には見覚えがありました。楽譜への書きこみで見慣れた字。しかもこれ、五線譜をちぎったものじゃないか。
 たったひとこと、「ゆるして」。
 あの——バカおやじ。
 あやまればいいってもんじゃないだろう、あやまれば——だめだ。やられた。また笑ってしまった。この泣き顔のカオモジ(顔文字)、かわいい。

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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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