第十九曲 挿入曲 テンポ・ディ・ヴァルス(眠れる森の、花輪の)(2)
文字数 3,750文字
「なんで?」かなり黙っていてから、ぽつんと、彼が。
「うん?」
「なんで手紙くれなかったの」
ぼくのダウンを着こんだデジレは、なぜか幼く見えました。ぼくより二つ三つ年上のはずなのに。いつも尊敬してきたのに。
どういう、こと。
「くれるって言ったよね」
「言ったけど」
うそだろう。ぼくを捨てたのは、きみじゃないか。
ちがったの……?
石橋の欄干にもたれて川を見ているデジレは、手に、ミトンをはめていました。
そして、ずっとうつむいていた彼が、きゅうに声を立てて笑い出し、ぼくにすがすがしい笑顔を向けてきたとき、ぼくはやっと悟ったのです。いま、この瞬間、ぼくは憧れの人をひとり永遠に失って、かわりに生涯の友人を手に入れたのだと——そう——終わった、のだと。
安らかな、痛みとともに。
「ぼくの負けだ」とデジレ。
「何だよそれ。勝ち負けじゃないだろう」
「そう、ぼくが勝手に挑んでただけだ。それもふくめて完敗。きみには勝てない」
信じられない。「それ、ほんと、ぼくの台詞だから」
「まだわからないのか、ペーチャ。きみはいつでも一人勝ちじゃないか。最強なんだよ。なぜだと思う。
きみがけっして戦おうとしないからさ
。じたばたするのはまわりのぼくらだけ。きみは誰にでも合わせてくれる。そのくせ、ぶれない。そんな人間に勝てるやつがいるか?」「ほめてる?」
「ほめてるよ、もちろん。いいかげん理解しろ」
いいかげんって、ほめてくれたの、初めてじゃないか。
「ま、きみの負けでもあるな」さばさばと。だから何だよそれ。「これ見て」にやりと笑って彼が突き出したのは、一枚の封筒でした。
「何」
「わからないだろう。ぼくもわからなかった」
封筒から出てきたのは、黄葉の写真でした。美しいけれど、このあたりの十月なら、どこにカメラを向けても撮れそうな平凡な写真。「ここ見て。何だと思う」たしかにまん中へんに、小さなゴミみたいなものが映っています。何だろう。デジタル映像なら指でこう、拡大できるのに、プリントしちゃってるから動かせない。
「リスだってさ」
「リス?」
デジレは額を押さえて笑っています。よくよく目を近づけると、たしかに、なんか、これ、リスかもしれない。横向きの。どんぐり持ってる?
「どこから話そうかな。そうだな、ぼくのフィアンセ。本当、悪い子じゃないんだよ。だけどひさしぶりに会って、まあ近い将来いっしょに暮らすんだなって話になったときに、おたがいいままで知らなかった面が出てきたわけだ。ぼくがゆるせばいいだけなんだよ、ぼくのほうが変わり者なんだから。わかってる。でも、無理だった。彼女の金銭感覚」
「金銭感覚?」
「もうどんだけお金使うの好きなのっていう。なにあれ、ジミーチュウとかジェリーチュウとか。足二本しかないのに、靴三千足も必要? ティファニーで買い物しなきゃいけない理由がわかんない。マザーテレサなんて亡くなったときの私物、サリー二枚と手さげ一枚だよ? それ言ったら大げんかになっちゃって。わたしより贅沢してる人いっぱいいるって泣かれて、そういう問題か?っていう」
彼らしいと思いました。そうだよ、きみが規格外なんだよ。修道院に入りたいって言ってたくらいだからね。物欲とかこだわりとか、理解できない人なんだね。
「あとね、もう一つ。これは、その、きみにしか言えない」
「何」
緊張しました。ドラムロール聞こえた。だけどもう、ぼくとは関係ない話だとわかっていたから。そう、あの、苦手なおかずを無理やり飲みこまされている三歳児みたいな顔。おかしすぎた。ぼくは一生忘れないからね。
「あのときの声が大きすぎ。もう、無理」
「ああそう」
「申し訳ないけど無理」
デジレごめん、笑って。ぼく笑いすぎだな。ほんとごめん。
「知らなかったんだよ」とデジレ。「それにまさかこんなことでだめになるとも思ってなかった。彼女かわいいし」
「うんうん」
「自信もあったし」
「ああそう」さらっと言ったなー。
「だからショックで。あのね、努力したんだよ。いちおう。というか、すごく」
「だろうね」
「だけどいつも、もう、途中で。で、責められて」
「うわ、それきつい」
「わかってくれるー?」おおげさに泣きまねして石の欄干につっぷして、「これ冷たい」なんて言ってます。なんかめちゃくちゃかわいい。こういう人だったんだ。
「相性はしかたないよ、デジレ。大丈夫! 世の中には、声の大きいほうが好きって男もかならずいるから」
「ありがとう。ぼくもそう思う。そう願うよ、彼女のためにね。だけどこれ本人に言えないし、まして記者会見で言えないじゃない」
「たしかに」
「だからぼくが悪者になっているわけだけど、もういいやと思って」
「きみらしいね」本当に。
「申し訳ないとは思ってる」淡々と。「たぶん……、本当に好きだったら、大きい声出されても乗り越えられたんだよ。むしろ新鮮で興奮したかも」
そこだな。「わかる」
「わかる?」
「わかるよ」
本当よかったな、と嬉しく思っていました。ぼくら男同士で。
「英王室のお二人を見て、えー離脱ってできるんだってびっくりして」とデジレ。「じゃあぼくも離脱しよ、と思って。もちろんツイッタでつぶやいたりしなくて、まずちゃんと両親に話したよ」え?!「あ、第一の理由のほうだけね」わあ、びっくりしたー。「家族はみんなわかってくれて、同情してくれているから、たぶん必要最小限の仕送りはもらえると思う。今回は本気で学位取って、カペルマイスターの資格取って、こっちで就職する。自活しないと」
「きみならできるよ」
「当然だろ」ミトンの手で、かるく頬をパンチされました。「ま、そういうこと。ぼくがきみに恋い焦がれて飛んできたんじゃなくて残念だったな、ペーチャ」
「ぜんぜん。もともと期待してなかったし」
「なんだ、ちょっとは期待しろよ」
「やめろ、くすぐるな。くすぐられるの弱いんだ」
こんなふうに笑いあえる日が来るとは思っていませんでした。それも、こんなに早く。
「で、リスの話に戻る」
「そうだった。リス」
「こういうのたくさん送られてきてさ」幸福というのはこういう表情なのだなと、彼の微笑を見て思いました。「へたなの。写真。フランス語も。もうどこから直せばいいのかわからないくらい。まいった。なんかすごく……たぶんすごく……がんばって」
泣いてるの、デジレ?「彼女、猛勉強してたよ」
「それでこれかよっていう」
「それ言わないであげて」
「言わない。言わないけど」泣き笑い。「ぼくがドイツ語勉強したほうが早い」
「だね。ぜったい」
「フィアンセの彼女に泣かれたときさ。『どうしてわたしじゃだめなの? 他に好きな人いるの? 誰? どうせ男でしょ』って責められたとき。『ちがう』って叫んでた。ことばのほうが先に出てた。『好きな人なんていないけど、いても少なくともきみじゃない。きみみたいに、他人に要求するばかりの女じゃない。ぼくが何をあきらめたのか、どんな状態なのか知ろうともしないで、いや、それは、知らなくていいんだ。ぼくが何を好きなのかさえ、きみは知ろうともしないじゃないか。ぼくの好きな、きれいな秋の写真とか、雪の写真とか、ただ、ぼくを、喜ばそうとして、必死にフランス語の勉強までして、ぼくに何かしてほしいなんて一言も書かずに、そんなこときみはいままで一度でもしてくれたことある?』……言ってから、自分でも驚いたんだ」
彼の背中を、ずっと軽くたたいていました。彼が泣くのを見るのは初めてだったし、きっとこれが最後だろうな。ちょっとたまらなくなって、頭を抱きよせて、よしよししてあげました。「デジレ、おかえり。というか、ようこそ。ぼくらの王国へ」
「移民申請、受理してくれる?」
「もちろん。グリーンバナナの輸入販売も検討させるよ」
「うそ」
「ほんと。ぼくも食べてみたいから。作ってくれるって言ったよね、揚げバナナ」
「言った。ぼくは言ったことは実行するよ、誰かさんとはちがって」
手紙か。「あれはさ」
「わかってる」またパンチされました。「ひとつ訊いていい?」
「いいよ」
「彼女、声大きい?」
「え?」
「オーロラ」
沈黙。
「知らないよ。彼女とは寝てない」
「『とは』って何」
しまった。一瞬、デニムのショートパンツの幻が。「なんでもない」
「『とは』って……何だぁー!」
「だからくすぐるなって!!」
遠くから大人が見たら、何をじゃれあってるんだろうとあきれられたにちがいありません。鴨が川から上がらないのはね、あれ水の中のほうが暖かいんだよ、零度以上はあるわけだから。うそだ?! 零度でじゅうぶん死ぬよ? いや鴨はきみじゃないから。そうだけどさ。