第十九曲 挿入曲 テンポ・ディ・ヴァルス(眠れる森の、花輪の)(2)

文字数 3,750文字

 古い石造りの橋の上にいました。白く曇ってはいたけれど、薄日が射し、川面にはきらめきさえ見えて、デジレは腕をのばして、氷づけ直前の鴨の写真を何枚か撮りました。
「なんで?」かなり黙っていてから、ぽつんと、彼が。
「うん?」
「なんで手紙くれなかったの」
 ぼくのダウンを着こんだデジレは、なぜか幼く見えました。ぼくより二つ三つ年上のはずなのに。いつも尊敬してきたのに。
 どういう、こと。
「くれるって言ったよね」
「言ったけど」
 うそだろう。ぼくを捨てたのは、きみじゃないか。
 ちがったの……?
 石橋の欄干にもたれて川を見ているデジレは、手に、ミトンをはめていました。濃緑(こみどり)の。ぼくのです。手袋を貸そうとしたら、指を一本ずつ入れるのめんどくさそうにしていたから、ミトンにしたんだ。それも子どもっぽく見える原因だった。でも、何より、以前の彼がいつも身にまとってマントのようにふりさばいていた、あのするどい陽炎のような空気。うかつにさわったら焼かれそうな感じ。あれが消えて、なくなっているのでした。
 そして、ずっとうつむいていた彼が、きゅうに声を立てて笑い出し、ぼくにすがすがしい笑顔を向けてきたとき、ぼくはやっと悟ったのです。いま、この瞬間、ぼくは憧れの人をひとり永遠に失って、かわりに生涯の友人を手に入れたのだと——そう——終わった、のだと。
 安らかな、痛みとともに。
「ぼくの負けだ」とデジレ。
「何だよそれ。勝ち負けじゃないだろう」
「そう、ぼくが勝手に挑んでただけだ。それもふくめて完敗。きみには勝てない」
 信じられない。「それ、ほんと、ぼくの台詞だから」
「まだわからないのか、ペーチャ。きみはいつでも一人勝ちじゃないか。最強なんだよ。なぜだと思う。

。じたばたするのはまわりのぼくらだけ。きみは誰にでも合わせてくれる。そのくせ、ぶれない。そんな人間に勝てるやつがいるか?」
「ほめてる?」
「ほめてるよ、もちろん。いいかげん理解しろ」
 いいかげんって、ほめてくれたの、初めてじゃないか。
「ま、きみの負けでもあるな」さばさばと。だから何だよそれ。「これ見て」にやりと笑って彼が突き出したのは、一枚の封筒でした。
「何」
「わからないだろう。ぼくもわからなかった」
 封筒から出てきたのは、黄葉の写真でした。美しいけれど、このあたりの十月なら、どこにカメラを向けても撮れそうな平凡な写真。「ここ見て。何だと思う」たしかにまん中へんに、小さなゴミみたいなものが映っています。何だろう。デジタル映像なら指でこう、拡大できるのに、プリントしちゃってるから動かせない。
「リスだってさ」
「リス?」
 デジレは額を押さえて笑っています。よくよく目を近づけると、たしかに、なんか、これ、リスかもしれない。横向きの。どんぐり持ってる?
「どこから話そうかな。そうだな、ぼくのフィアンセ。本当、悪い子じゃないんだよ。だけどひさしぶりに会って、まあ近い将来いっしょに暮らすんだなって話になったときに、おたがいいままで知らなかった面が出てきたわけだ。ぼくがゆるせばいいだけなんだよ、ぼくのほうが変わり者なんだから。わかってる。でも、無理だった。彼女の金銭感覚」
「金銭感覚?」
「もうどんだけお金使うの好きなのっていう。なにあれ、ジミーチュウとかジェリーチュウとか。足二本しかないのに、靴三千足も必要? ティファニーで買い物しなきゃいけない理由がわかんない。マザーテレサなんて亡くなったときの私物、サリー二枚と手さげ一枚だよ? それ言ったら大げんかになっちゃって。わたしより贅沢してる人いっぱいいるって泣かれて、そういう問題か?っていう」
 彼らしいと思いました。そうだよ、きみが規格外なんだよ。修道院に入りたいって言ってたくらいだからね。物欲とかこだわりとか、理解できない人なんだね。
「あとね、もう一つ。これは、その、きみにしか言えない」
「何」
 緊張しました。ドラムロール聞こえた。だけどもう、ぼくとは関係ない話だとわかっていたから。そう、あの、苦手なおかずを無理やり飲みこまされている三歳児みたいな顔。おかしすぎた。ぼくは一生忘れないからね。
「あのときの声が大きすぎ。もう、無理」
「ああそう」
「申し訳ないけど無理」
 デジレごめん、笑って。ぼく笑いすぎだな。ほんとごめん。
「知らなかったんだよ」とデジレ。「それにまさかこんなことでだめになるとも思ってなかった。彼女かわいいし」
「うんうん」
「自信もあったし」
「ああそう」さらっと言ったなー。
「だからショックで。あのね、努力したんだよ。いちおう。というか、すごく」
「だろうね」
「だけどいつも、もう、途中で。で、責められて」
「うわ、それきつい」
「わかってくれるー?」おおげさに泣きまねして石の欄干につっぷして、「これ冷たい」なんて言ってます。なんかめちゃくちゃかわいい。こういう人だったんだ。
「相性はしかたないよ、デジレ。大丈夫! 世の中には、声の大きいほうが好きって男もかならずいるから」
「ありがとう。ぼくもそう思う。そう願うよ、彼女のためにね。だけどこれ本人に言えないし、まして記者会見で言えないじゃない」
「たしかに」
「だからぼくが悪者になっているわけだけど、もういいやと思って」
「きみらしいね」本当に。
「申し訳ないとは思ってる」淡々と。「たぶん……、本当に好きだったら、大きい声出されても乗り越えられたんだよ。むしろ新鮮で興奮したかも」
 そこだな。「わかる」
「わかる?」
「わかるよ」
 本当よかったな、と嬉しく思っていました。ぼくら男同士で。
「英王室のお二人を見て、えー離脱ってできるんだってびっくりして」とデジレ。「じゃあぼくも離脱しよ、と思って。もちろんツイッタでつぶやいたりしなくて、まずちゃんと両親に話したよ」え?!「あ、第一の理由のほうだけね」わあ、びっくりしたー。「家族はみんなわかってくれて、同情してくれているから、たぶん必要最小限の仕送りはもらえると思う。今回は本気で学位取って、カペルマイスターの資格取って、こっちで就職する。自活しないと」
「きみならできるよ」
「当然だろ」ミトンの手で、かるく頬をパンチされました。「ま、そういうこと。ぼくがきみに恋い焦がれて飛んできたんじゃなくて残念だったな、ペーチャ」
「ぜんぜん。もともと期待してなかったし」
「なんだ、ちょっとは期待しろよ」
「やめろ、くすぐるな。くすぐられるの弱いんだ」
 こんなふうに笑いあえる日が来るとは思っていませんでした。それも、こんなに早く。
「で、リスの話に戻る」
「そうだった。リス」
「こういうのたくさん送られてきてさ」幸福というのはこういう表情なのだなと、彼の微笑を見て思いました。「へたなの。写真。フランス語も。もうどこから直せばいいのかわからないくらい。まいった。なんかすごく……たぶんすごく……がんばって」
 泣いてるの、デジレ?「彼女、猛勉強してたよ」
「それでこれかよっていう」
「それ言わないであげて」
「言わない。言わないけど」泣き笑い。「ぼくがドイツ語勉強したほうが早い」
「だね。ぜったい」
「フィアンセの彼女に泣かれたときさ。『どうしてわたしじゃだめなの? 他に好きな人いるの? 誰? どうせ男でしょ』って責められたとき。『ちがう』って叫んでた。ことばのほうが先に出てた。『好きな人なんていないけど、いても少なくともきみじゃない。きみみたいに、他人に要求するばかりの女じゃない。ぼくが何をあきらめたのか、どんな状態なのか知ろうともしないで、いや、それは、知らなくていいんだ。ぼくが何を好きなのかさえ、きみは知ろうともしないじゃないか。ぼくの好きな、きれいな秋の写真とか、雪の写真とか、ただ、ぼくを、喜ばそうとして、必死にフランス語の勉強までして、ぼくに何かしてほしいなんて一言も書かずに、そんなこときみはいままで一度でもしてくれたことある?』……言ってから、自分でも驚いたんだ」
 彼の背中を、ずっと軽くたたいていました。彼が泣くのを見るのは初めてだったし、きっとこれが最後だろうな。ちょっとたまらなくなって、頭を抱きよせて、よしよししてあげました。「デジレ、おかえり。というか、ようこそ。ぼくらの王国へ」
「移民申請、受理してくれる?」
「もちろん。グリーンバナナの輸入販売も検討させるよ」
「うそ」
「ほんと。ぼくも食べてみたいから。作ってくれるって言ったよね、揚げバナナ」
「言った。ぼくは言ったことは実行するよ、誰かさんとはちがって」
 手紙か。「あれはさ」
「わかってる」またパンチされました。「ひとつ訊いていい?」
「いいよ」
「彼女、声大きい?」
「え?」
「オーロラ」
 沈黙。
「知らないよ。彼女とは寝てない」
「『とは』って何」
 しまった。一瞬、デニムのショートパンツの幻が。「なんでもない」
「『とは』って……何だぁー!」
「だからくすぐるなって!!」
 遠くから大人が見たら、何をじゃれあってるんだろうとあきれられたにちがいありません。鴨が川から上がらないのはね、あれ水の中のほうが暖かいんだよ、零度以上はあるわけだから。うそだ?! 零度でじゅうぶん死ぬよ? いや鴨はきみじゃないから。そうだけどさ。

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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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