第二曲 情景(アンダンティーノ)(1)

文字数 2,050文字

 部屋に戻ると、入り口で侍従のベンノが待っていて、ぼく宛の郵便物をまとめて手渡してくれました。子どもの頃からぼくに仕えてくれていて、以前はあんなにおしゃべりだったのに、交通事故に遭って頭を打ってから、話せなくなりました。失語症というのでしょうね。笑顔と大きなゼスチャーはあいかわらずなので、ベンノが口では話さないことを、ぼくもときどき忘れそうになります。ありがとう、とぼくが言うとにこにこして、今朝はめずらしくちょっと去りがたそうに、手のひらを表にしたり裏にしたりしています。何か言いたいらしいのです。やがてあきらめて、ぼくの腕をそっとたたくと、何度もうなずきながら帰っていきました。どうやら、励ましてくれたらしいです。
 ありがとう、ベンノ。
 彼はいつも気を利かせてすぐ立ち去ってしまいます。もっとそばにいてくれたらいいのに。いきなり告白して申し訳ありませんが、ぼくは彼が好きです。彼といると安らぎます。それ以上でも以下でもありません。それがそんなにいけませんか? 先日の検査も、けっきょくはそこを調べるためのものでした。女性だけでなく男性のヌード画像もたくさん見せられました。ぼくが何にも反応しないので皆がっかりしていましたが、ぼくも心底、うんざりしました。ぼくは男とも女とも、誰とも寝ていません。なのに、女性に興味がないとなると、どうして手あたりしだいに男と寝ていると思われてしまうのだろうか。ぼくは、ただ、誰とも深くかかわりたくないだけです。ベンノはそこをわかってくれるからありがたい。こんなぼくの数少ない友人なのだから、よけいな遠慮をされるとたまらなくなります。
 だけど彼がときどき作ってくれる夜食は、あれはどうなのかな。まずいというわけではないのです。ただ、そうめんにジェノベーゼペーストって、何か根本的にまちがっている気がする。一度、皿の上で麺をこまかくフォークで刻んでみたら、ちょっとクスクスっぽくなったけど、べつに味が変わるわけではないからね。パスタだって数分待てば茹であがるんだし、だいたい、フライパン一つで全部すまそうというのがいけないんじゃないかな。
 六年前に父上が亡くなり、母上が王太子のぼくの摂政になりました。ぼくは十四歳でいきなり、公務という名の地下牢(ダンジョン)に放りこまれました。ダンジョンです。二度言いましたけど。思い出しただけで胃が痛い。いやこれ、十二指腸かも。人前に出るのが苦手です。王族なのにそんなことあるのって、ありますよ、好きで王子に生まれたわけじゃないんだから。湖に向かって叫びたい、公務のバカヤロー! 叫びませんけどね。そんなところをパパラッチされたら末代の恥じゃないですか。とにかく、だめなんですよ、ぼくは。人の集まる所が苦手すぎる。また何かへまをしでかすのではないかとびくびくしてばかりです。会議なんて最悪。たまには何か言わなくてはならないとなると、おちおち白昼夢も見ていられません。はじめの頃はよく会議中に爆睡して、皆の失笑を買ったものでしたが、あれは本当に寝落ちしたのと、うんざりして寝たふりをしたのと半々です。すみません、ちょっと盛りました。八割寝落ち、二割うそ寝です。だってどうせぼくのいる意味ないんですよ? ただのお飾りなんだから。ときどき思いきって、こうしたら?と意見を述べてみるのですが、皆いっせいにぼくをふりかえり、その後何もなかったかのように話に戻ります。勝手にしたまえ。
 例えばですね、あの騒音。聞こえますか。ひどいでしょう。庭の工事ですよ。城のすぐ前にあんなに美しい湖があるのに、なぜ中庭に池を掘らなくてはならないのか。簡単な話だ。母上の兄者である伯父上の奥方の、お従姉のもとご主人、というのはぼくにとって何に当たるのかすでにわかりませんが、その人が建築造園業をいとなんでいるからです。掘った穴を埋めるというくりかえしを永遠にやっています。有名なナチスの拷問を自分に課しているわけだ。ナチスとちがうのは、ざくっと一掘りするたびに金貨が土から湧いて出ることですが(比喩です)、そんなことを生涯の仕事にして、男一匹生きることに何の意味があるのでしょう。そもそも、あの造園のレイアウトを見せられたときにはあきれました。殿下のご意見をうけたまわりたいと言うから、なぜあずまやを東の中央寄りなどに設けるのか。それは思いきって東に寄せて、人の出入りの多い宿舎の新棟をもっと西に寄せれば、エリアごとの機能が明確になって動線が整理され、すっきりするのにと言ったら、しばしの沈黙の後、でももう決まったことですからと言われ、じゃあぼくの意見を聞く必要ないじゃないですか。あのダサいレイアウトにそって父上の愛した庭が掘り返されていくと思うと、いてもたってもいられないのですが、父上、面目ない、ぼくにはいかんともしがたいのです。この状況はたぶんぼくが正式に王になっても続きますね、若いうちは当分。ああ、明日、一足飛びに五十歳になれないものかなあ。せめて四十五歳。

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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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