第八曲 情景(湖の)(3)

文字数 2,632文字

 図書館にいます。
 というメモを、残しました。いままでも大きな公務のない日に何度か使った手です。図書館の中は死角が多いから、逃げこみ甲斐があります。もちろん今日はすぐ裏へ抜けるつもり。できるだけさりげなく出かけられるように、せめて朝食を取ってからと思っていたのですが、夜明けとほぼ同時に目がさめて、待ちきれませんでした。とにかく今日一日、自分の好きなように使ってしまおう。究極の贅沢です。
 裏口の鉄のドアを押さえて、ベンノが待っていてくれました。帰ってきたら、中から鍵を開ける、と手ぶりで言ってくれているようです。何時に帰るか決めていないのに。閉まっていたらそのときは自力でどこかから入るよ。ありがとうベンノ。じゃなかった、アレクセイ。
 ——いまの何?
 ふりむいて、音をたてずに閉まっていく扉を見つめながら、少しぼうぜんとしていました。アレクセイって誰。『白鳥』の登場人物だったかな。ちょっと脳疲労が蓄積しているかも。
 それにしても、あの父娘の住所が湖のまん中で、また驚かされました。無人島だと思いこんでいた。いや、じっさい無人島だったのです。ぼくの自室にあった写真集、一昨年出版されたものには、青すぎる空を背景に、木立と、石垣の崩れのような廃墟が映っているばかり。対になる男島(ヘレンインゼル)がないのに、なぜ女島(フラウエンインゼル)という名かというと、それは、その廃墟がもともと、百年前に破壊された女子修道院だから。
 廃墟が住所。どういうことなんだろう。
 ひさしぶりにボートを漕ぎました。水の上で空腹に気づきました。やっぱり朝食を食べてくるべきだった。せめて何か持ってくればよかったな。手ぬかりが多くて笑ってしまいます。砂の上にボートを引きあげて見まわすと、写真集とはすでに異なる風景が。時を、百年前から、さらに百年巻き戻したかのように。朽ちはてた壁のかわりに、真新しい木づくりの小屋へと、ほのかに踏み固められた小道が続いていました。ゆるやかな坂でした。
 長い黒髪を、今日は一本の太い三つ編みに編んでいます。子どものように坂を駆けおりてきました。白い手織りの布を着ています。素朴だけれど、紡いだ手と、織った手と、縫った手のまぼろしが見えるような服。そして目、濃い青。
「ありがとう来てくれて! すぐわかった? 大変だったでしょ? あたしあやまりたくて」ぼくの腕にかるくふれました。「ごめんなさい、こないだのこと。本当に本当にごめんなさい、ゆるして。先々週キャンセルされたときぜったいあたしのせいだと思ってショックで熱出したの。だから先週あやまりたかったんだけどあの子たちが、クララたちが、もう興味しんしんで見てるから言えなくて、あたし泣きそうで唇噛んでたからすごく感じ悪かったと思うけど本当にごめんなさい。あ、父はもう出かけたの、早いでしょ。今日は帰り何時になるかわからないって」
「どこへ」これがぼくの島に上陸してからの第一声だったので、声がかすれてしまって、せきばらいをして言い直さなくてはなりませんでした。「どこへ?」
「町の教会、なんとかキルヒェ。忘れた」
「何しに?」
「オルガンの調子を見てって頼まれたって。聞いてない? あ、そうだ、朝ごはん食べた? まだ? たいしたものないけど、お米入りのスープ、最近ちょっとはまってるの。そんなのでいい? いいって言われても困るよね。待って、マフィンがあったかも。あと、りんご?」
 いや、どうか、おかまいなく……
 台所のほかには二部屋しかない小さな家は、一年前から少しずつ建ててきたということでした。仮住まいと呼ぶにはあまりに居心地がよく、人間の寿命よりはるかに長持ちする建物にしか住んだことのないぼくには、木の香りが新鮮でした。けっきょく、これ食べる?これ食べる?と次から次へといろいろ出されて、おなかいっぱいになってしまった。何を食べたかほとんど思い出せないのだけど、とにかくおいしく、そのあいだ彼女はひばりのようにしゃべりつづけ、でもその声が心地よいので、ぼくはただ笑って聞いていればよく、楽でした。ぼくのほうからした質問は、一つだけ。
「何て呼んだらいいのかな」
「あたしの名前のこと? どっちでもいい、あなたが好きなほうにして。オデットは父がつけた名前で、オディールはあたしがある日宣言したの、今日からオディールで行きますって。学校の登録はもちろんオデットになっちゃってるけど、どっちが好き? 人の意見聞くの初めてかも」
「どっちもいいと思うよ」
「どっちか選んで」
「選べない」
「じゃ、日替わりにして。今日はどっち?」
「じゃ、オディール」
「《じゃ》って何、《じゃ》って」
「初めて会ったとき、オディールって言われたから、刷りこまれてしまった」
「刷りこまれた?」
「刷りこまれた」
 ロットバルトと出会って数か月間に得た情報の十数倍を、一時間で一気に得ました。彼ら二人がある伯爵家の当主とその娘だったこと。彼女の母君が亡くなってから領地を離れ、欧州のあちこちを旅して暮らしてきたこと。去年ここに来てからは、彼女は聖シュテファン付属の音楽学校に通い、彼も週一で楽典(トーンザッツ)の授業を持ちながら、大聖堂の管理運営にもかかわっていること。何を思ったかこの島の修道院跡の再利用を申請して、こつこつ石を積み始め、ついでに家も建ててしまって、週末はここに住んでいること。人の何倍時間があるんだ?
「変わった人よね、うちの父。あたしが言うのも何だけど。あたしまだ八歳だったのよ」オディールはしみじみ言いました。「母が死んでしばらくして、朝の食卓で、突然父が言うの。『オデット、二つに一つ、どちらか選んでくれ。パパといっしょにこの家を出ていくか、叔父さんの子どもになってこの家に残るか』」
「それで?」
「即決。『パパと行く』って言った」
「迷わなかった?」
「一秒も。だってあたしにはパパしかいないもの」
 微妙に打ちのめされました。
「でもね、けっきょく、パパをあたしの男にすることはできないじゃない?」さらにしみじみ。「ほんと残念。あたしたち気が合うのに。でもこれ、親子だから面白いところもあって、あの人の娘をやれるのは世界広しと言えどあたしだけじゃない? もし男と女になっちゃったらそれがこわれちゃうからもったいないじゃない。だからパパはパパでとっておくことにして、そろそろあたしも、自分専用の男が欲しいなあと思ってたの」
 聞き捨てならないことがありすぎて、どこから追及したらいいかわかりません。
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登場人物紹介

ジークフリート(愛称シギイ、ペーチャ、ミーメ)   

・この物語の語り手。バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・父の死(14歳)以降、公務のため学校には通わず、家庭教師から授業を受けている。

・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。

・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。
・一方的に恋されることが多く、人間関係に対して臆病になっている。
・涙もろい。

オデット(愛称オディール)

 

・伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。

・黒髪、目は濃いブルー。

・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドール※と仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。 ※番外編に登場

・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。

・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート※(ゴールデンレトリバー)だった。 ※番外編に登場

ロットバルト(本名ディートリヒ、愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。

・紫がかった黒髪と黒目。

・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドール※に家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。 ※番外編に登場
・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。

・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。

・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

・思わせぶりな発言が多いわりに、本人はストレート(ヘテロ)。とはいえ、性の多様性を当然のこととして受け入れている、いわゆる「アライ」。

ファニイ   


・オデットの友人。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はチェロ。

・大柄で色白、明るい茶の髪と目。

・服はピンクや花柄が好き。
・弟が一人いる(作中には登場せず)。
・おおらかで愛情深く、安定した性格。こまやかな気配りができる一方で、かばんの中でよく失くし物をする。

ベンノ


・ジークフリートの侍従で友人。

・事故に遭って失語症をわずらい発話ができないが、持ち前の明るく機敏な性格で、仕事も日常生活もふつうにこなしている。

・灰緑色がかった金髪(ドイツ系に多い)。
・姉が一人いる(作中には登場せず)。
・つねにジークフリートに付き添い支えるうち、その間に出会ったファニイにひと目惚れ(したらしい)。

オーロラ   


・オデットの友人。クララの姉。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴィオラ。

・ウェーブのかかった明るい栗色の髪。瞳に金の斑点がある。

・きれいな色が大好きでつい派手な服を選びがち。クラスメートたちから「せっかく美人なのに趣味が残念な子」と思われている。

・性格はおっとりしていて、ジークフリート以上の泣き虫。不器用でおひとよし。

・留学生としてやってきたデジレにひと目惚れ(したらしい)。

クララ    


・オデットの友人。オーロラの妹。音楽高等院(ムジークホッホシューレ)の学生。楽器はヴァイオリン。オデットたちと組んでいるカルテットでは第二ヴァイオリンを担当。

・黒に近い栗色の髪と目。ボーイッシュなショートカット。

・デニムを偏愛。冬でもショートパンツにブーツで、スカートは持っていない。
・姉のオーロラとは正反対の活発な性格。情にもろく、落ちこんでいる人(とくに男)を見ると放っておけない。

デジレ    


・アフリカ大陸に位置する小国の王子。兄が一人、姉が一人、妹が二人いる(作中には登場せず)。

・おしのびでオデットたちの音楽院に留学してきている。

・長身。ジークフリートより背が高い。

・ジークフリートをしのぐ音楽の才能の持ち主。アンサンブルでの担当はオーボエだが、鍵盤楽器も得意。

・美男美女か、または超絶美男美女のどちらかしか出てこないこの物語の中でも、主人公と並ぶ美貌の持ち主。肌は褐色。
・祖国の公用語はフランス語。その他、多言語に長け、ジークフリートと同じレベルで議論できる唯一のクラスメート。
・料理も得意。味付けは濃いめ(スパイスも多め)が好き。
・物欲がないように見えるが、じつはお洒落をしつくした末のミニマリスト。

・洗練された紳士である一方、激しいものを内面に秘めていて、ジークフリートを戸惑わせる。

マリウス


・国立バレエ学校の教師。ソリストの才能に恵まれるも、祖国に戻って子どもたちの指導に専念。とくに弟フリーディの教育に力を注いでいる。
・パリでの修行中に知り合ったピアニストのクローディアと恋愛結婚。まだ新婚で子どもはいない。
・髪と目はどちらもセピア色。

クローディア


・マリウスの妻。バレエの伴奏ピアニスト(コレペティートル)として夫を支える。
・マリウスが帰国する際、いったん別れるが、あきらめきれずに追いかけてきて結ばれる(作中には言及なし)。
・フランス系とドイツ系のハーフ。バイリンガル。
・赤毛でメガネ美人。

フリーディ(本名フリーデマン)


・フルネームはフリーデマン(=自由人)・フォーゲル(=鳥)。名前からして踊るために生まれてきたような少年。
・ダンスに類まれな才能を持つ、百光年に一人の逸材。
・兄マリウスとは十四歳違い。幼い頃、彼に憧れてスタジオに通ううち、自然とダンサーをめざすようになる。
・明るい金髪、灰緑色の目。実兄のマリウスより、血のつながりのないジークフリートに似ている。
・アイデアに富み、つぎつぎと斬新な提案を繰り出しては周囲を驚かせる。
・清浄無垢な風貌を持ちながら、中身はいたってふつうの元気な中二男子。
・現シュトゥットガルトバレエ団のプリンシパルである天才ダンサー、フリーデマン・フォーゲル氏に似てはいますが、別人です。あんな誠実でまじめな貴公子ではありません(笑)。

王妃(本名はそのうち出てきます)


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。

・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。

・チェロとピアノを少々たしなむ。

・兄と弟が一人ずついる(作中には登場せず)。

・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。

・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲(おもに息子)を驚かせる。

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