第44話 愁情(2)

文字数 2,809文字

ロレンツォは、SUVの前でスマートフォンを取出すと、直接、マヤに電話をかけた。
ついチップを増やした次の日に、メモをもらったのである。
経緯はどうあれ、聞いた番号は記録しておく。後ろめたいことはないので、ナバイアやヘンリーの視線も気にならない。それがロレンツォである。
電話に出るまでにセブン・ミシシッピー。
香りも届かない彼女の声は、どこにでもいる若い女性の声だった。
「ソルを見たわよ。大丈夫だったのね。」
ロレンツォは笑った。
「僕が見えるのか。」
マヤの笑う声が聞こえると、ロレンツォは言葉を続けた。
「髪と眉がない。腕も火傷でケロイドが出来た。」
マヤが黙り込むと、ロレンツォは小さく笑った。
「冗談だ。僕らは無事だ。心配してくれて、ありがとう。」
謎の会話にヘンリーがロレンツォの顔を覗き込むと、ロレンツォは軽く手を挙げた。電話は終わらない。
「聞きたいことがある。」
「私もよ。」
ロレンツォは、予想外の答えに小さく笑った。
「君が先でいい。」
マヤの動く音が聞こえるので、会話に本腰を入れるつもりの様である。
「泊る所は、この町にはないでしょ?もうルナには来ないの?」
ロレンツォは微笑んだ。大切なお金のためかもしれないが、悪い気はしない。
「いや。捜査の間はバナナ・モカ・パイを食べに行く。約束する。」
「OK。待ってるわ。じゃあ、あなたの番よ。」
マヤに言われるまでもなく、ロレンツォは本題に入った。
「スティーブン・ハリスという男を知ってるか。ハーレーに乗ってる。昨日、仲間と一緒に、ライト・ハウスに行ったか知りたい。一時頃だ。」
僅かな沈黙の後、マヤは彼女なりの常識を口にした。
「お客さんのことは言えないわ。ルールなの。」
優先順位を知らないことは不幸である。喋るのはロレンツォ。
「君がプロフェッショナルなのは分かる。ただ、ハリスのアリバイを証明するために必要なことだ。嘘をついて庇っても、誰のためにもならない。」
再び、沈黙が訪れると、ロレンツォは、マヤの今の状況が不意に気になった。
「今、誰とどこにいる。」
ロレンツォの問いかけを少し強く感じたのか、マヤは綺麗に笑った。おそらくは深入りである。
「ライト・ハウスよ。受付。まだ、誰もいないわ。」
ロレンツォの目は、少しだけ淀んだ。それは切なさに襲われ始めたから。迂闊である。
「まあ、いい。それなら、教えてくれてもいいだろう。僕らは言いふらさない。仕事だ。スティーブンは、昨日の夜、そこにいたのか。」
電話から聞こえてきたマヤの声は、少しだけ上ずった。
「マディソンが捕まった理由を教えてくれたら、教えてあげるわ。店で凄い噂よ。」
声が上ずったのは緊張のせいではない。何なら嬉しそうである。
不治の病の警官ならまだしも、一般人が人の不幸を笑うのは好きになれない。
眉間に皺を浮かべたロレンツォは、自分を見つめるヘンリーとナバイアの方を見た。
助けてほしいぐらいだが、話の聞こえていない彼らには、何も期待できない。
「まだ、容疑の段階だが、シャビーの殺害容疑がかかってる。」
シャビーの名前を出せば、同情の空気が戻ってくるかもしれない。それがロレンツォの閃き。
しかし、昨日の朝、シャビーのために泣いたマヤの声は、なぜか猶更明るくなった。
「そうだと思ったのよ。三角関係でしょう。」
ロレンツォは、やっとマヤと言う人間を理解した。
彼女は、きっと何も考えていないのである。
朝は、人が死んだと聞いたから、反射的に泣いた。
そして、夜。マヤも含めて、ライト・ハウスの女達は、店主の謎の妻が起こした事件のことで盛り上がった。
ジョナサンと言う不安定極まりない人物がいる場所で、何なら一晩中。
純粋に面白かったのだろうが、ジョナサンの地獄の底は深い。
想像だけで疲れたロレンツォは、先を急いだ。
「もういいだろう。マヤ。教えてほしい。ハリスはそこにいたのか。」
マヤが興奮状態なのは、電話からでも分かる。きっと、昨晩の彼女達はそのぐらい騒ぎ、笑った。
「甘いわよ、ロレンツォ。私の情報は安くないの。」
マヤがふざけているのは分かるが、面倒を感じたロレンツォは短く答えた。
「今知ったけど、僕も時には怒るらしい。」
マヤは小さく笑った。
「いいわ。それじゃあ、今から私が言うことが正しいかどうかだけ教えて。皆で賭けをしてるの。」
その時点で犯罪であるが、ロレンツォは、マヤの無駄なお喋りを許した。
他の方法を考えるのが面倒になったのである。
彼女が生き生きと喋る話は、ロレンツォ達の想像よりも遥かに下品。
すべては人間に理性のないことが前提に聞こえたが、それが彼女の世界。
そして、シャビーが死ぬ理由としては尤もだった。
マディソンは魅力的だが、決して満たされない貪欲な生き物で、他人の好物を知ると食べてみたくなる。満腹なら、取敢えず皿をひっくり返さずにはいられない。人が満たされるのが悔しいのである。
彼女はそういう生き物なので、日々、同じことを繰返し、やがて周囲の人間がそれを受け入れてしまう。しかし、何物にも囚われない彼女は、社会から零れ落ちた孤独な人間を、決して拒まない。それは、本能のままに間違ってきた悲しい大人達が、自分を正しいと思える輪。
彼らのつながりは原始的な社会制度の様でもあり、宗教の様でもある。
マディソンにとって、世間の言う家族は特別なものではなく、彼女がつくった異常な輪の一部に過ぎない。彼女にしがみつく者が、彼女にとっての家族。シャビーはその一人である。
最底辺で珍しくない話であるが、笑うマヤが一心不乱に喋り続けると、ロレンツォは徐々にその世界に引き込まれていった。
不道徳が許される世界への純粋な好奇心と微かな興奮。
ロレンツォは、小さな笑みを浮かべたまま、マヤの話に聞き入った。
歌う様な、踊る様な話。
「捜査官、聞いてる?」
相槌を忘れるロレンツォを放っておかない。時々、その声が入らなければ、音楽でも聴いている様である。
薄々気付いてはいたが、彼女はお喋り。そういうことである。
マヤは、そんな話を十分程続けると、とうとうマディソンの殺人の話を始めた。
クライマックスの彼女は、グロテスクなサイコパス。
非情な殺人マシーンで、娘殺しの陰獣。
まだ、エラの殺害容疑は教えていないが、ライト・ハウスには昨夜のうちに伝わっている。
ロレンツォは、ナバイアと何度か視線を合わせた。
自分がマヤとは違う世界の住人であることを確認したのである。

ロレンツォの手に握られたスマートフォンから、太い呻き声が聞こえたのはその時。
初めて聞くが、確実にマヤである。
間もなく聞こえた二度目の呻き声に続いたのは衝撃音。マヤが電話を落とした可能性が高い。
「ヘイ、ヘイ、ヘイ、ヘイ。」
ロレンツォの口から無駄な言葉が漏れる中、短い叫び声は止まらない。
これは事件で、被害者はマヤ。
泣き声が混ざったのは、驚きに痛みが勝ったから。あるいは、死が頭を過ったから。
ロレンツォは、SUVに向かって走り出した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み