第55話 瞋恚(4)

文字数 4,274文字

ロレンツォとナバイアが向かったのはダニエルの店。
彼らが気持ちよく扉を開けられたのは、ハーレーが止まっていなかったからである。
開店間もないダブルCには、ダニエルの爽やかな微笑みが待っていた。
「捜査官、ようこそ。」
こうまで微笑まれる理由は分からないが、悪い気はしない。
二人は、微笑みを返すと、奥のテーブルに向かった。
店内に他の客の姿はなく、貸し切りである。
満面に笑みを浮かべて近寄ってきたダニエルは、テーブルにメニューを滑らせた。
「火事が大変だったんだって?」
笑顔の意味が分からなかったのは、過ぎた時間のせい。ダニエルは、奇跡の生還を喜んでいるのである。
ロレンツォは、やはり笑顔を浮かべた。
「その表情で分かりました。放火の容疑で逮捕します。」
笑顔で大袈裟に仰け反るのがダニエルである。
「つまみをオマケするから、見逃してくれよ。」
いつかのハンクとのやり取りと同じ。ダニエルは、警官にサービスしたい男。いい奴である。
喋るのはナバイア。
「結構です。税金で食べるから、気にしないで下さい。」
三人は軽く笑い、穏やかな夕食が始まった。

動きがあったのは十五分後。
エントランスで、ダニエルが何かを喋り続けているのである。
殆どシラフのロレンツォとナバイアは、声のする方に自然と目を向けた。
大柄の八人。
二人にとって、招かれざる客。ハーレー・ギャングである。
この間、名前を知ったスティーブンもいる。
八人の目が時々こちらを睨むのは、想定の範囲。
ロレンツォとナバイアは、大きな身振りで喋り続けるダニエルを笑顔で応援した。
それは、審判に抗議するアスリートの様。
しかし、必死の彼の姿は、間もなくウシを追うカウ・ボーイのそれに変わり、遂には、男達を二人から一番離れたテーブルに招き入れた。
流石にそれで終われないのか、給仕を呼んだダニエルはパーティションを立てたが、八人を囲う檻としては、あまりに華奢。
言うならば、かたちだけである。
厨房に引き返すダニエルは、大きく首を回した。
遠目に見た限り、完敗である。
ボトルを抱えて、テーブルに急ぐダニエルが見えたのは、それから間もなく。
ロレンツォは、思わず手を上げた。
「迷惑なら、僕達は出ますよ。」
やはり笑顔で近寄ってきたダニエルは、声を潜めて囁いた。
「不良に追い出される警官なんて知らないよ。」
愛すべき住民である。
ロレンツォとナバイアが微笑むと、ダニエルは酒瓶のラベルを見せた。
「アブシンスを奢るって言ったんだ。あいつらは、いつも酔った勢いで遊びに行くから。これですぐにエンジンがかかって、出ていくよ。」
小さく頷いたロレンツォは、頼れる店主を笑顔で送り出した。

それから二十分後。
ダニエルの作戦が間違っていたことが、最悪のかたちで明らかになった。
誰かが騒ぎ出したのである。
確実にハーレー・ギャングのテーブル。
想像する限り、悪の根源はアブシンス。エンジンがかかるどころか、フル・スロットル。
ロレンツォとナバイアが見渡した店内には、もう他の客の姿も何組か見える。
カウンターのダニエルの視線は散っているので、完璧なガードは期待できない。
嫌な予感しかしないロレンツォは、テーブルに支払いを置くと立ち上がった。
残る理由のないナバイアも続く。
退散である。

しかし、全ては遅過ぎた。
エントランスに向かう二人を、野太い声が追ってきたのである。
「ヘイ、クレイジー・ホース!」
ナバイアを詰ったに決まっているが、そのぐらいで怒るナバイアではない。
二人が歩き続けると、背後から、次の声が飛んできた。距離は近付いている。
「ライト・ハウスは閉まったぜ。どこに行くんだ。」
ナバイアが首を傾げただけで止めたのは、彼が馬鹿ではないから。
この夜の悲劇は、二人を揶揄ってきた相手が馬鹿だということ。
ナバイアは、とうとう後ろから軽く小突かれた。
賽は投げられたのである。
「あいつら、個別交渉になったからな。高くつくぜ。」
下品な会話に巻込まれたロレンツォは、振り返ると男の手を取り、後ろ手に捻り上げた。
今日のナバイアの動きが鈍かったのは、微かな責任を感じたから。

慣れない暴力は、血を騒がせる。
興奮で揺れたハーレー・ギャングが集まると、ロレンツォとナバイアの前に高い壁が出来上がった。
体で問題を解決するなら、結果は疑いようがない。頼るのは法の力。それだけである。
ロレンツォは、冷めた目のまま、口を開いた。
「警官を暴行したら、死ぬまで逃げられない。学校で習わなかったか。」
ロレンツォの声はよく通った筈だが、壁は消えない。口を開いたのはスティーブン。
「死体探しが連邦捜査官の仕事か。そりゃあ、事件なのか。」
警官を揶揄うモラル・ハザードが、ハーレー・ギャングの心の傷と共鳴していくのが見える。
「ハイエナ!」
「ウジムシ!」
「変態!」
変態は余計である。
ロレンツォは後ろ手を持つ男の腕を締め上げた。
自分で言い返すよりは、苦痛に歪む男の顔で気持ちを伝える。それがロレンツォ。
しかし、酔っている男に、タフさは微塵もなかった。
感情のままに言葉が漏れる。
「痛え。助けてくれ。」
掠れる様な声。
それが、ロレンツォへの罵声であれば、何かが違っていたかもしれない。
仲間の助けを求める弱々しい声は、酔える男達の魂を揺さぶった。
元はと言えば、彼らの人生はこの一言で狂った。
そして、彼らは、自らの人生を決して悔いていないのである。

一人が、ロレンツォのジャケットを掴んだ。
「止せ!」
叫んで手を伸ばしたナバイアの頬に、横から拳が当たる。死角からの暴力。
ナバイアは、一歩だけ後ずさりすると顔を庇った。
ハーレー・ギャングが夢にまで見たビジョンが、とうとう実現した。
殴られるのが怖くて、身を縮める。
彼らが先住民に求めた態度は、それなのである。
「ヘイ、待て!」
ロレンツォは声を上げたが、とうとう一線を越えた男達は止まれない。
間もなく、一人が、ロレンツォの肩を強く掴んだ。
ロレンツォの腕を、また別の腕が掴み、押し、引っ張る。
駄目な流れである。
「触るな!公務執行妨害だ!」
バディのために今更叫んだナバイアの腹に、強烈なボディ・ブローが決まると、ロレンツォは男達に激しく揺さぶられた。
もう、ハーレー・ギャングは、後ろ手にとられた男を救おうとしているのではない。興奮状態の彼らは、ただロレンツォを好きにしようとしている。
髪の乱れたロレンツォは何度か頷いた。

「痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!」
絶叫したのはロレンツォではなく、後ろ手に捻られた男。
ロレンツォは、不意に男の後ろ手を上に上げ切ったのである。
腱は切れている筈。
「そこまでだ!警官を甘く見るなよ!」
そんな言葉に意味があるとは思っていない。
傷めつけられることを覚悟したロレンツォは、予め報復したのである。
後で追い回して暴行すると、自分の人生まで狂ってしまう。やるなら、ドサクサに紛れて今。
それが、ロレンツォの咄嗟のジャッジである。

二秒後。
腹を蹴られたロレンツォは、カウンターにぶつかると痛みに身を屈めた。
間髪入れず、足に重い一撃。
その場に崩れたロレンツォは、男達の足蹴の的になった。
タイミングを合わせて、蹴りは雪崩の様に続く。
繰り返し、繰り返し。繰り返し、繰り返し。
幾ら庇っても、ガードした手の上から蹴り続ける。
ロレンツォのお蔭で暴力から逃げたナバイアには、彼を囲む一人の足をとるのがやっと。
ロレンツォは、ただただ蹴り続けられる。
永久機関である。
間もなく、揉み合うナバイアの目の脇を、一本のバットが通り過ぎた。
ダニエルのバット。
店の守護神の登場。暴力の時間が終わるのは今である。
しかし、流れるバットを目で追ったナバイアは、事態が間違った方向に転んだことを知った。
バットを手にした男が違う。
男はダニエルではない。ハーレー・ギャングの一人である。
「どけ。」
男の一言で、倒れたロレンツォの周りが開けた。
もう、ロレンツォの顔は腫れあがっている。
「先にやったのはお前だからな!」
彼らにとって、始めたのは腕を折ったロレンツォ。記憶が都合よくすり替わっているのである。
「オゥッ!!オゥッ!!オゥッ!!オゥッ!!」
報復が達成される瞬間を前に、掛け声が始まると、男はバットを高く振り上げ、背をしならせた。
「ヘイ、よせ!よせ!」
ナバイアの叫び声は、誰の耳にも届かない。
男は、躊躇うことなく、床に転がるロレンツォの左足にバットを振り下ろした。
固いものがぶつかる音が響いたが、ロレンツォの声はない。それが一番の問題。
代わりに響いたのは、一発の銃声である。

店内に残る客は、一斉に席を立ち、逃げる場所を探した。
皆の恐怖の視線を集めた先にいたのは、銃を高く掲げたナバイア。
「お前ら、離れろ!」
ルール通りの威嚇射撃である。
興奮で事態をよく理解できない男達が足を進めると、ナバイアは迷わず銃口を向けた。
「壁に向いて、手をつけ!」
しかし、手をつける様な壁は遠い。あるのはカウンターである。
「どこにつくんだ、コラ!」
「適当なこと言ってんじゃねぇぞ!」
「ふざけんな、〇〇〇〇!」
方々から怒鳴られたナバイアは、頭の中で何かが切れる音を聞いた。
「やかましい!喋んな!ぶっ殺すぞ!」
ナバイアの暴言は、火に油を注いだ。
「殺してみろ、この野郎!」
「出来るか、クソが!」
「吊るしてやる!」
怒鳴られながら、ナバイアはダニエルを探した。
カウンターの裏に隠れているのか、姿は見えない。さすがに逃げたのかもしれない。
ナバイアは、店内に残る客に向かって叫んだ。動いてくれれば、誰でもいいのである。
「救急車だ!早く!」
ロレンツォの状態が危ないのは明らか。
誰からも返事はないが、取敢えず男達の罵声は止まらない。
「余裕こいてんじゃねぇ!」
「お前のも呼べ!」
「ブタを呼んでみろ!全員、叩きのめしてやる!」
言わせておくつもりのないナバイアは、喉を大きく開いて叫んだ。
「やかましい!今から一人ずつ撃ち殺すからな!」
罵り合う声は止まらない。
「だから、早く殺してみろ!!」
「皮を剥いでやる!!!」
「お前の家を探し出す!!!!」
「燃やす!!!!!」
「見てんじぇねぇ!!!」
「皆殺しだ!!!!!」
「母親を〇〇〇〇!!!!!!」
「てめえの足も追ってやる!!!!!!!」
「目を潰すぞ!!!」
「歯を砕いてやる!!!!!」
「顔を刻んでやる!!!!!」
「殺す!!!!!!!!!!!」
誰の声か分からなくなった罵声は、店の空気を引き裂き続けた。

やがてヘンリーが駆けつけ、ナバイアの銃を下げさせると、男達は初めて黙った。
ナバイアは、最後の男が黙るまで、怒鳴り続けた。
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