第59話 濫觴(4)

文字数 2,383文字

“きっと、価値観が全然違う。違う生き物なんだ。”

ロレンツォは、病院にいるからと言って、眠り続けているわけではない。
口の腫れがほぼ引いた彼は、アップルビー先生を個室に呼んだ。
長らく姿を消していたジョールと話をしたロレンツォは、先生にとっても関心の的である。
口を開いたのは、ベッドに横たわるロレンツォ。
「ジョールについて、少し話を聞かせてくれませんか。」
アップルビー先生は、話の行方を捜しているのか、口が重い。喋るのはロレンツォ。
「最初にジョールがクロノスと呼ばれた事件。親の体を切った話は聞きました。でも、そのぐらいです。僕は、彼について、何も知らないんです。これだけ酷い目に遭ったのに。」
アップルビー先生は、小さく微笑むと頷いた。
「皆が知ってるぐらいのことなら、私も知ってる。あの頃は、噂話で盛り上がったからね。」
ロレンツォが沈黙をつくると、アップルビー先生は言葉を続けた。
「父親の女遊びが許せなかったとも、割礼を揶揄われて、気に入らなかったとも。皆、いろいろ言ってた。」
ロレンツォが小さく笑うと、アップルビー先生は眉を上げた。きっと、生々しい話しか、待っていない。
「ジョールは、あれの母親がヘルムートと結婚した時に連れてきた子だった。でも、本当にヘルムートの子だ。ヘルムートが女にだらしないのは皆知ってた。話すと知的だったが、人間はどうとでも装える。ジョールの苗字を変えないのも、おかしかった。勿論、金持ちにしか分からない理由があったのかもしれない。他で相続できるとか。想像だよ。あの家の中で何があったかまでは、誰にも分からない。」
歪んだ家庭環境は、犯罪者のゆりかごである。ロレンツォは、静かに言葉を続けた。
「先生は、クロノス事件の犯人はジョールだと思うんですか。」
元容疑者のアップルビー先生は即答した。
「それは、ジョールに決まってる。あの時、ジョールが捕まらなかったのは、彼が未成年だったからだ。周囲の皆が庇った。」
「庇えるレベルの事件とは思えませんよ。」
明らかな違和感にロレンツォが言葉を急ぐと、アップルビー先生は首を傾げた。
「じゃあ聞くが、死んだ女達は、死ぬまでどこにいたのかだ。被害者は二人。同じ日にいなくなってる。最初の凶行までに一か月。その間、女達はどうしていたのか。体の大きさだけの問題じゃない。他に大人が関わってないと無理だろう。」
何も言えることのないロレンツォは、アップルビー先生をただ見つめた。喋るのはアップルビー先生。
「別にシリアル・キラーなんかじゃない。あの事件には、何人かがいろんな形でかかわっていた。そう考えるのが普通だ。」
ロレンツォはやっと意味を理解した。
「ボダウェイとホノヴィとかですか。」
この町だけで通じる冗談にアップルビー先生が笑うと、ロレンツォは言葉を続けた。
「じゃあ、市長ですか。」
アップルビー先生は、微笑みながら頷いた。
「あいつも、ひょっとしたら関係があったかもしれない。勿論、ヘルムートもだ。でも、彼らに、悪意はなかった筈だ。子供を庇いたかっただけ。当時、皆がいろいろ言ったが、結果はどうだったか。ジョールだけが責められ、ウィリアムは市長になり、ヘルムートも資産家のまま人生を終えた。それが全てだ。直接、罪に問うべきはジョールだ。」
「それでは私刑ですね。」
ロレンツォの短く強い言葉に、アップルビー先生は僅かな戸惑いを見せた。
面白おかしく話す話題としか、考えたことがなかったのである。ただ、医者の頭脳は明晰と決まっている。
「仮にそうだとしても、一番穏やかな方法だったんじゃないかな。傷つくのは、ジョール一人で済んだ。私は、他の町には学生の頃に少し出ただけだ。人生のほとんどをこの町で過ごしてきたけどね。多分、それがこの町のやり方なんだと思うよ。」
ロレンツォも、いつか、マヤと話しながら、似た事を感じた。
言葉から香りへ。
トロピカルな香りから、遅れてバニラ。
ねじの緩んだロレンツォの脳は、流れでマヤの記憶に飛んだ。
大した量はない。すべてが思い出せる程度。はっきりと。血だらけの彼女が忘れられない。
しかし、それはセレンディピティだったのかもしれない。
適当な沈黙に、アップルビー先生の頭脳もまた、何かに思いを巡らせたのである。
長い話に応えることもなく、視線の定まらないロレンツォに向かって、アップルビー先生は静かに言葉を続けた。
「A州に腕のいい美容整形外科があってね。ジョールは、いつもそこで顔を変えてるらしい。」
初耳である。
「なぜ、今まで黙ってたんですか。」
心の戻ってきたロレンツォに、アップルビー先生は淡々と言葉を続けた。
「私が紹介したんだ。彼が歩くと、町が酷い雰囲気になってね。子供の手前もあった。ヘルムートのために、町を出ないと言うし。逆じゃないかと思ったけど。でも、そうだった。本当に、何とかしたいと思っただけだった。その後、彼が顔を変えて、本当に町は少しだけ静かになった。」
アップルビー先生は、ロレンツォの顔を見つめた。先生の告白は続く。
「それで終わればよかった。その後、彼が何度も顔を変えてね。途中からは噂だけ。嫌な気分になったよ。ただ、誰にも言わなかった。警察が何かを発表したわけじゃない。本人からも何も聞いてない。結局は、噂だけだったから。自分のせいじゃないと思いたかったのかもしれない。」
アップルビー先生は、顔を横に振った。ロレンツォの沈黙が耐えられなくなったのである。
喋るのは先生。
「今まで誰にも教えたことがないから、ジョールは疑ってない筈だ。多分、ジョールは顔を変えに行く。あれは依存症だ。」
もう十分である。ロレンツォの決断は早い。
「先生、僕のスマートフォンを取って下さい。」
使われることに慣れていない先生は、ロレンツォの枕元のスマートフォンをゆっくりと手にした。
電話する先はナバイア。一刻を争うのである。
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