第54話 瞋恚(3)

文字数 3,039文字

受付を抜けて、満員のエレベーターに乗り込む。
少しずつ減っていくスーツの背を見送り、残った数人で最上階のカーペットに歩み出す。
市長に会う気分が整っていく時間である。
やがて現れた扉の向こうに見えたのは、市長の椅子に腰かけるウィリアム・グッゲンハイム本人。この前は、ハンクが座っていた席である。
二人を見つめた市長は颯爽と立ち上がり、ソファに移動しながら口を開いた。
「よく来てくれた。捜査官。用件は聞いてるね。」
秘書曰く、市長は直々に捜査の進捗が聞きたいのである。
ロレンツォとナバイアが断る理由はない。
軽い挨拶を済ませた三人は、流れる様にソファに腰を下ろした。
口を開くのはロレンツォである。
「それでは、現時点で僕達が把握している事件の顛末をお話しします。元々、この段階で説明する義務はありませんから、分からない内容があっても、あまり深入りしないで下さい。」
市長の笑顔を確かめると、ロレンツォは、ナバイアを見てから本題に入った。
「エラ・ベイリーの失踪については、犯人は母親でほぼ間違いないと考えています。加えて、母親は、シャビーエル・マイヤーズという若者の殺害にも関与したと考えています。今、保安官と州警察が話を聞いていますが、まだ、エラの居場所は分かっていません。死んだミスター・マイヤーズと娘との三角関係を清算するために手を出したのなら、エラは死んでいる可能性が高いと思います。」
捜査の緊急性はない上、容疑者は既に捕まっている。警官にとって、これ程安心できる報告はないが、そのままでは終わらないのが、グッゲンハイム市長である。
「捜査は順調だと言いたいんだろうが、私が思ってたのとは少し違う。」
ロレンツォが首を傾げると、市長は言葉を続けた。
「君達がこの町に来てから、その若者と、あとエラの父親の店の従業員。死者が二人出てる。薬物中毒者と売春婦の殺人。これが新聞の教える事実だ。日が違えば、誰も何も気にしない。問題は、今の君の話。あまりに刺激的だ。メディアに毎日騒いでくれと言っている様なものだろう。君達は誘拐事件の捜査をしているだけかもしれないが、町の問題は確実に大きくなっている。私にはそう感じられる。」
嫌な話の流れにロレンツォが沈黙を選ぶと、市長は微笑みながら言葉を続けた。
「勿論、頑張ってもらう他ない。ただ、本当に大事なのはこれからだ。これ以上、問題を広げない様に穏便に。分かるね。やり方と言うものがある。」
よく聞く言葉だが、言う通りにする者としない者の間の谷は深い。
ロレンツォは、市長と同じぐらいの微笑みを返した。
「昔、クロノス事件が曖昧になった時も、似た様なことがあったんじゃないですか。」
市長の変わらない笑顔に手間を感じると、ロレンツォは市長の芝生に少しだけ踏み込んだ。
「母親を調べていると、クロノス事件が見えてきました。当時の関係者に話を聞きに行くと、途端にこの状況です。ひょっとしたら、あの事件に首を突っ込まれるのが、お嫌なんじゃないですか。」
「大いに嫌だね。」
市長は、間を空けなかった。
喋るのは市長。
「タイミングが気になるなら、教えようか。あれだけの事件だ。それに、私も関係しなかったわけじゃない。捜査の過程も少しは知ってる。今でも、ずっと気にかけている。非公開だが、私は、市長の予算で、クロノス事件の情報を集め続けている。」
ロレンツォとナバイアの表情に変化はない。喋るのは市長。
「アンヘリートの家なら、ずっと監視対象だ。報告書も毎月受け取ってる。あの二人はエラとは関係ない。令状を申請すれば、絶対に却下されていた筈だ。関係ないからね。念のためにはっきりと言っておく。あの夫婦に深入りするな。」
市長は、正直な自分のために何度か頷いた。
「私があの町を見続けてきた限り、クロノス事件はやっと皆の生活から消え始めたところだ。ヘルムートが死んだからね。おそらく、それが気に入らない人間がいる。下手な絵葉書がそう言ってる。怖がらせるつもりなんかない。エラの事件は、ただの誘拐事件じゃないんだ。だから、君達を呼んだ。州警察もだ。クロノス事件で傷ついた住民の心に触れずに、新しい犯罪の芽を完全に取り除いてほしい。責めるだけじゃない。この国の最高レベルの捜査が必要なんだ。」
ロレンツォの頭に思い浮かんだことが一つ。
唐突過ぎたハンクの心変わり。怪しいのは目の前の男の介入である。
「実は、今、話を聞いている母親は、心神喪失状態で病院に入ると聞いています。このままだと、エラの件もシャビーの件も、取調べはしばらく中断しそうです。」
ロレンツォは、捜査の順調を装うために隠した情報を口にしてみた。
市長の表情は変わらない。
「確かに、ハンクならやりそうだ。」
ロレンツォは、ナバイアと顔を見合わせてから言葉を続けた。
「彼は犯人を逮捕した方が利益になるので分からなかったんですが、確かに、町の悪評は避けられます。それを望んだのは、あなたですか。」
市長は顔を横に振った。
「私は何も言ってない。正確なことは本人に聞いてほしい。ただ、私は警察を信じている。」
「僕は信じていません。」
ロレンツォが声を被せると、市長は、微かに残っていた微笑みを大きくした。
「分かるよ。君達の仕事は大変だ。でも、この世を嫌いにならないことだ。君は、犯罪者ばかり見ている。皆ではないにしても、いい人間がいる。仕事は、人生の一部に過ぎない。仕事がこなせる様になったんなら、あとはただのお喋りだ。熱を入れ過ぎずに、肩の力を抜くといい。仲間を信じて、かけがえのない人生を精一杯楽しむんだ。」
ロレンツォの鈍い反応を見ると、市長は言葉を続けた。
「ハンクは面白い。犯人を病院から出さなければ、逮捕したのと同じだ。メディアを抑えるだけじゃない。再発も防いでる。長年の付合いだが、あいつはあれで要領がいい。あいつみたいな男がいるから、この世は上手く回っている気はするね。」
市長が、ゆっくりと笑顔を消したのは、ロレンツォとナバイアが揃って顔を背けたから。
「まあ、このぐらいにしよう。それなら、残りはエマの行方だけだろう。出来る事なら、無事に救出してほしい。但し、あとに残される町の住民の生活のことも、親身になって考えてほしい。皆が生きる様に。私が市長として言えるのは、それだけだ。」

市長室から出て、最初に口を開いたのはロレンツォ。
「市長のファンの君に聞く。あれは脅しだと思うか。」
ナバイアの答えは早い。
「そうも聞こえる。ただ、いいことも言ってた。仲間を信じて、かけがえのない人生を精一杯楽しんでほしいって。あんなこと、大人相手になかなか言えない。さすが市長だ。」
ナバイアは、小さく微笑むロレンツォを放っておかない。
「今日は飲みに行こう。」
「嘘だろ。」
さすがに首の締まっているロレンツォが眉間に皺を寄せると、ナバイアは笑った。
「あの林を夜通しで探す馬鹿はいない。部屋に籠るのも〇〇〇〇だ。頭を空っぽにしよう。」
ロレンツォは、市長にも伝えた自分の勘を改めて思い出した。
“エラは死んでいる”
気の抜けてきたロレンツォは、ナバイアの可愛い提案を受け入れた。
「僕の顔の色が変わっても驚くなよ。」
「色による。」
「冗談だろう。」
「いや、…。」
権力を前に小さな挫折を味わった二人は、とにかく喋り続けた。多分、慣れないタイプの不安のせいである。

その日の午後。
管理官の電撃訪問を受けた二人は、市長とほぼ同じ言葉を、信頼する上司から三倍の声量で聞き、仕事を早めに切り上げた。
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