第1話 涅槃(1)

文字数 1,592文字

季節なら春である。
A国C州S。先住民居留地と隣り合う人口二千人の小さな町。時間は重い雨の降る午後。
街灯が点く夕暮れはまだ遠く、空まで続く空気は濃淡のあるグレーを帯びている。
決して寂れた訳ではなく、人口に見合う程度に店舗の並ぶ、片側三車線のアスファルト舗装の道路。
本来、車が行き交うべき路上に、連邦捜査官ロレンツォ・デイビーズは横たわっていた。
ステッチの丁寧に入ったフランネル生地の上着は雨水を吸い、ロレンツォの望んだ色合いからは程遠い。パンツがスウェット生地なのは、左足のギブスのせい。
彼は、もう十分過ぎる程傷ついたのである。
傷と言えば、今の彼にとって、もっとも大きな事件。ロレンツォは、首から血を流している。ホワイトの皮が肉と共に弾け、動脈の口が開いた。この窮境にロレンツォを誘ったのは、一発の銃弾である。
肌を叩く雨滴の量は、首から溢れ出す血に勝るほどではない。ロレンツォと同じぐらい傷んだアスファルトがつくる水溜まりは、刻一刻と深いレッドへと染まっていく。
ロレンツォは生きている。呼吸さえ辛く、助けを呼ぶこともできないが。
胸は不規則に揺れ、眼球も何かを探している。
どのぐらいの間のことかは分からないが、多分、五、六分ぐらい。
朦朧とするロレンツォの脳裏を、幾つものイメージが過った。
“どこかで聞いた。首から血が出るのはやばい。”
“諦めたら最後だ。それが終わりの始まりだ。”
最後は、生きたいという意志があるかどうかだと言うが、最低の時間を過ごしたここ数日のロレンツォには、最大のハードルである。
“生きたい理由は?”
“パオラはどうする。多分、彼女の中では付き合ってる。”
“親父も姉さんも放っておけない。いや、逃げられるか。”
“でも、僕がいないと。”
日常生活は、この世の意識が芽生えた日から連なっている。目覚める理由も分からない曖昧な毎日に、生への劇的な欲求が忽然と姿を現すことはない。
“このままでいいのか。”
“絶対に間違ってる。”
“納得できるのか。”
“悔しくないのか。”
“僕が僕の世界の主役だろう。”
“生きてる限り、信じるんだ。”
“僕はまだ死なない。”
“頑張れ。”
“頑張れ、ロレンツォ・デイビーズ。”
“生きるんだ。”
頭の中にいるのは一人だけ。結局、人間は、最後は一人である。この世をどう認識するかも自分次第。その是非を見極めるには、衆人に完全な静寂が訪れるまで、自分が存在しなければならない。それが、唯一絶対の条件で、ロレンツォが辿り着いた生きる理由。勿論、不可能。
震えるロレンツォの手は、脇に転がる松葉杖ではなく、胸元のシグ・ザウエルP220に伸びた。
狙う先は、ロレンツォの首の穴にも雨を落とし続ける無情な空。
銃声が響けば、誰かが来てくれるかもしれない。きっと、そう思ったのである。
しかし、姿勢が少し変わったせいか。
首筋が不意に脈打ち、鉄臭い体液を大量に吐き出すと、ロレンツォは腕を動かすのを諦めた。思考だけが、一瞬で激しく駆け巡る。
一つ一つを思った理由は分からない。すべては、神経を駆け巡る微弱電流のままである。
“人の最期なんて、悲しいに決まってるんだ。”
“姉さんよりは、きっと幸せだ。”
“誰が正しくて、誰が間違ってるかなんて。もうどうだっていい。”
“死ぬまでの絶望が短いのは、幸せなことかもしれない。”
“本当に無駄な時間もあった。あの時の時間が、今の僕にあったら。”
“無よりは、絶対にマシな筈だ。こんなに怖いんだから、その筈なんだ。”
“警官になんか、なるんじゃなかった。なんで、こんな思いを僕がしなきゃいけないんだ。”
“悪い奴は捕まらないんじゃない。捕まえないから、悪い奴のままなんだ。”
“きっと、価値観が全然違う。違う生き物なんだ。”
この期に及んで、自らを撃った犯人を思うのは、瀕死の状態に慣れ始めたから。
ロレンツォは、また限界を越えた自分の人生を思うと、堪らなく切なくなった。
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