第5話 涅槃(5)

文字数 2,068文字

ジョールの二階建ての煉瓦造りの豪邸は、町の西の外れにある。平地はその一帯だけなので金持ちはそこに集うが、年輪が見える様な煉瓦一つとってみても、ジョールの家は明らかに別格である。
ヘンリー曰く、ヘルムートは、ファミリー・ネームすら同じにしなかった息子に、遺産だけは素直に相続した。町への寄付を勧める者も少なくなかったが、ジョールが生き抜いていくために、資産は不可欠という者もいた。最終的には、後者の声が勝ったということである。
町の皆に疎まれた大金持ち。そうは言っても、最初に責める相手としては正解である。
ロレンツォは、高く聳え立つ鋼製の柵の前にSUVを止めると、手袋をしながら、ナバイアと二人で車を降りた。
庭の樹種は、自然の神秘を意識するほど多い。ジョールが見捨ててから随分になるのか、ジャングルの一歩手前である。
人目を避け、用件だけを早く済ませたいところであるが、地球は、ロレンツォとナバイアを中心に回っているわけではない。
ロレンツォが適当に門を開けたこの瞬間、二人の意に反して、一台のセダンが近付いてきた。ベイリー家の前にも止まっていたメタリック・シルバーのセダン。
ハンクである。
パワー・ウインドウが下がると、ついさっき見た強面が現れた。但し、ニヤついている。
「この線は捨てたんじゃないのか。」
揶揄われるつもりのないロレンツォが沈黙を選び、私有地に一歩足を踏み入れると、ハンクは言葉で追いかけた。
「あいつは、ここにはいないぜ。」
面倒臭くなったロレンツォは、振り返るとハンクに微笑んだ。
「だから、来たんだ。まずは何もないことを確認する。」
ナバイアも今知った事実である。ハンクは言葉を被せた。
「悪魔の証明だ。まあ、俺は忠告したからな。」
小さく笑ったハンクは、窓を閉めながらアクセルを踏み、二人の前から走り去った。
ロレンツォとナバイアは顔を見合わせて笑ったが、タイミング的にハンクはここを張っていた。それが正しい理解である。

庭の石畳を抜けたロレンツォは、エントランスでピッキング・ツールを取出し、数秒でチェリーの扉を開けた。
玄関はその家の顔。そこに住む人を教える場所である。
ロレンツォとナバイアは、その玄関で、ジョール親子の世界を十分に知った。あるいは一人になったジョールの世界かもしれない。
扉から差し込む日の光が照らしたのは、ゴヤの例の絵である。縦に六十インチはありそうな大きい絵。表現が直接的過ぎて、怖さはなく、ただ不愉快。過去、常々思っていた感想である。驚いた二人は脈絡のない動きを見せたが、まあそのぐらい。
こんな絵を玄関に飾る人間は、おそらくここにしか存在しない。皆が自分をクロノスと呼んでいることを知っている。そう言いたかったのかもしれない。
キャンバスの凹凸を感じたロレンツォは、絵に近付き、絵具の厚みを確かめた。恐れるべきは、時間を費やし、絵の具を幾重にも重ね、この絵を仕上げた上、衆人に曝した精神状態。ロレンツォは、自分の中のその絵のイメージを書き換えた。

後から玄関に入ったナバイアが照明のスイッチに手を伸ばし、習慣で扉から手を離すと、間もなく暗闇の世界が訪れた。それは、ブレーカーを落としているということ。
カーテンも閉めている。遠出するにしても、犯罪者としては几帳面である。
二人は、静かにペンライトを取出し、二筋の光で、持ち主を失った豪邸の中を照らした。
だだっ広いリビングに生活感はなく、金持ちの悪趣味の予感もない。
広い部屋が何部屋か続くと、やがて部屋の用途は分からなくなった。
何も見つけないまま歩き、間違いようのないキッチンについた二人は、空の冷蔵庫のコードが抜けているのを確認すると、小さく笑った。
ハンクが言っていた通り、留守と結論する以外ない状態である。
それでもロレンツォとナバイアは、諦めずに二階建ての豪邸を隈なく探した。絶対にエラはここにいないと思ったが、先に止めると言えなかったのである。
何もないと、二人が声を出して結論したのは、二人が頷くタイミングが何となく合った時。時間にして、家に入ってから三十分程。それが、エラの命の重さにかけて、相応の時間だったのである。
二人にとって、無駄に終わったこの時間の中で、それでも、ロレンツォが息を潜めた瞬間が一度だけあった。
監視カメラである。
ロレンツォが見つけたのは一台。
仕掛けられていたのは寝室で、動いている形跡はなく、ダミーか何か。
金持ちの夜は不安ということである。他の想像も頭を過ったが、息の詰まる気がしたロレンツォは、何も触らずに寝室を後にした。
保安官からも被害者の両親からも疑われるクロノス事件の容疑者、ジョール・コーエンの最もプライベートな空間には、それ以外に非日常的なものは何もなかった。
完全な誤認捜査である。
しかし、玄関の扉を閉めながらゴヤの絵を見たロレンツォは、改めて思い直した。
“町の住民は正しい。”
この家を訪れた者なら誰もが、ジョールはクロノス事件の犯人であり、この世を恨んでいると思う。皆は悪くない。どう見ても、本人の選択がそれを物語っているのである。
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