第34話 必定(4)

文字数 2,849文字

病院に向かったのは、怪我をした二人に加えて、ナバイアとハンク。
診てくれるのは、ダニエルの主治医のアップルビー先生。ハンクの古い知合いである。
年配の彼は、二人の処置を手際よく看護士に指示した。背中を傷めたダニエルが別室に移る様に言われるとナバイアは小さく笑ったが、アップルビー先生が気になるのはロレンツォの容態と言うこと。
間もなく治療を終えたダニエルが戻ってくると、ハンクも診察室に入り、ソファに深くもたれるロレンツォの周りに、人の輪が出来た。
口を開いたのは、半笑いのハンクである。
「大丈夫か。」
揶揄われているとしか思えないロレンツォがハンクを無視すると、アップルビー先生が穏やかな声で解説した。
「頭痛もするんだろう。きっと、テトラドキシンだな。手の傷から入ったんだ。」
ヘンリーと同年代に見えるアップルビー先生は、さらに一言付け加えた。
「奇跡だね。」
皆が微笑む中、ハンクが口を開いた。
「本当に奇跡だ。お前ら、ついてるぜ。」
ハンクの視線がナバイアに向くと、ナバイアは笑顔で顔を横に振った。
「勿体ぶらないでいい。何だ。」
ナバイアに促されると、ハンクは鼻で笑ってから口を開いた。
「この先生は、クロノス事件の容疑者の一人だ。」
ロレンツォがますますソファに沈むのを見ながら、ハンクは言葉を続けた。
「言ったろ。女は治療されてたって。しかも、何度もだ。取敢えず、医者は全員マークした。」
アップルビー先生は笑わなかった。
「本当に迷惑だったんだ。全員と言っても医者は二人だけだ。こいつが外科医と決めつけるもんだから、暫く酷い目に遭った。何が馬鹿かって、もう一人は今の市長だ。人を見る目がないというか、見る気がないんだ。」
その場にいた皆が声を出して笑う。患者の二人でさえである。
「市長が元医者と言う噂は本当だったんですね。」
ナバイアがアップルビー先生に問いかけると、代わりにハンクが答えた。
「何が噂になるのか知らんが、とにかく医者だ。あの時の市長の顔は忘れないぜ。無だな。無。」
言わんとすることが分かるナバイアが小さく笑うと、ロレンツォは苦しそうに声を振り絞った。テトラドキシンの典型的な症状である。
「市長が容疑者だったとは聞いてない。」
ハンクは、眉間に皺の浮かぶロレンツォを眺めた。
「あいつはやってないからだ。」
「私はあいつと何処かが違ったのか。」
アップルビー先生が口を挟むと、ハンクは小さく笑った。
「冗談だ。あんたのことを言うのは、ここにいるからだ。ただ、違うのは絶対だろ。俺は小学校の頃にあんたに傷を縫ってもらったが、滅茶苦茶、痛かった。まだ、跡が残ってる。あんたならやると言ったら、皆が賛成した。」
アップルビー先生の笑顔から推察する限り、それは自他ともに認める事実の様である。
笑顔のナバイアは、彼の中の関心の的に触れた。
「その頃の市長は、どんなだった?」
答えたのは、ハンクではなく、アップルビー先生。思い出し笑い付きである。
「今のままだ。やり手で、ハンサム。私と違って、金持ちだし。羨ましい男だった。」
口を開いたのは、痛みに顔を歪めながらも、笑顔を忘れないダニエル。
「どこか、一つぐらい欠点があるんじゃないか。」
「聞いてどうする。」
怪我人がわざわざ聞くことではない。ハンクが苦笑しながら言葉を被せると、アップルビー先生が感想を付け加えた。
「まあ、男として、完璧だとは思ったがね。政治家になる様なタイプじゃあなかった。人生、どう転ぶか分からないもんだ。」
当たり前の笑いの後、雑談の小休止を見つけたロレンツォが、口を開いた。何故なら、彼には大事な質問があるから。
「僕は、この後、どのぐらいこうしていたらいいんですか。」
本当に大事な質問である。アップルビー先生は、笑顔の残る顔で答えた。
「別室に移ってもらうけどね。まあ、あと一時間ぐらいは安静にした方がいいかな。元々、イモリを食べた訳じゃない。後で症状が出るかもしれないが、その場合は軽症だ。私を呼んでくれたら診に行くよ。」
眉を上げたロレンツォに向かって、アップルビー先生は言葉を続けた。
「それで、ベイリーの娘はどうなんだ。その後。」
当然、捜査上の秘密であるが、アップルビー先生は構わない。燻されたロレンツォに尋ねるのもなかなかである。
皆が笑う中、ロレンツォはナバイアと目を合わせてから口を開いた。苦しくても、この手のコメントは一人がした方がいい。
「心配ないです。」
「何が。」
間髪入れずにハンクが口を挟むと、一人を除いて、皆が声を出して笑い、ナバイアが後を受けた。方向性さえ分かれば、病めるロレンツォに無理を強いることはない。
「優秀な自警団がどんどん捜査を進めてくれてます。」
ハンクは、ナバイアの視線の先のアップルビー先生を、流れで揶揄った。
「犯人はクロノスだ。あんた、また、容疑者になるぞ。」
皆が笑うのは今度も同じ。また一人を除いて。
笑わなかった一人。それは、ダニエルである。痛みのせいではない。
笑顔を忘れない筈のダニエルは、徐々に込上げる怒りに突き動かされる様に、口を開いた。温厚な彼でも、気持ちが抑えきれなかったのである。
「駄目なんじゃないかな。」
四人の視線が、ダニエルの顔に注がれた。分かり易く、紅潮している。
「何がだ。」
皺だらけのハンクが睨んでも、ダニエルは怯まない。
「こういう会話はどうかと思う。」
その場にいるダニエル以外の四人は、何を言われているのか、おぼろげに理解した。
言葉を続けたのはダニエル。彼の眼差しは真剣である。
「エラのどこが心配ないんだ。今日、証拠が見つかって、自警団の皆の雰囲気も変わってきてる。服が見つかったんだ。服だ。もう、笑ってられない。相手は中学生の女の子なんだ。それに犯人がクロノスって。そう言う奴は多いけど、何の証拠があるんだ。もう伝説だろ。どうも、おかしいと思ったら、あんた達がデマを流してるんじゃないか。」
ダニエルは、弁解しようとしたナバイアにも隙を与えない。
「俺が真面目過ぎるとかは止めてくれよ。××××とかも。それに、自警団が捜査を進めてるなんて。俺達、殆ど、ゴミを拾ってるだけだ。多分、このままじゃ死体ぐらいしか、見つけられない。分かるだろう。別にいいのかもしれないけど。俺なら、事件のことは笑わない。冗談でも、なんか、こういうのは嫌だ。」
アップルビー先生が頷く横で、ハンクは短く答えた。
「慣れだ。気にするな。」
アップルビー先生も続く。
「私も年だからね。」
ナバイアが口を開かなかったのは、ダニエルの意見が尤もだと思ったから。
自警団が成り立つ理由があるとすれば、ネルソン兄弟に加えて、こういう男がいるから。我儘な人間を、誠意の塊が縫い合わせているからである。
俯いたナバイアが何となく見つめたのはロレンツォ。苦しい筈の彼は、横たわったまま、喉から声を振り絞った。
「先生。僕は心も麻痺してるみたいだ。」
弱々しい冗談に皆が小さく笑うと、気が済んだのか、ダニエルも釣られて笑顔を見せた。
それがいつもの彼。好青年のダニエルである。
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