第46話 愁情(4)

文字数 3,352文字

隣り町のホテル。
部屋に戻ったロレンツォは、熱いシャワーを浴びた。
パジャマに着替え、歯を磨く。
ベッドに入るとライトを消し、目を閉じる。
今日一日の出来事に思いを巡らせながら、ゆっくりと深呼吸。
すべては、いつも通り。
しかし、眠れない。
殺人の衝撃よりは、ああも金が必要だったマヤが死んだ後の地獄の連鎖への不安が強い。
誘拐事件の被害者の親が殺人の加害者になり、殺人の被害者の大事な誰かが別の何かの加害者になる。
抜け出せない無限ループの始まりである。
昨晩、酷く飲んだので、酒を飲む気にもなれない。
薄暗い部屋で、パジャマのまま一人、ソファに座ったロレンツォは、スマートフォンに手を伸ばした。
別に動画でも音楽でもよかったが、トラウマを嫌ったのかもしれない。
選んだのは電話。相手は、ロレンツォと同じブルネットのパオラ・フィネスキである。
二人だけで二度飲みにいったことのある連邦捜査官。ロレンツォをニックネームで呼び、ロレンツォの瞳の色を褒めた女である。
永遠に誘われるので、ロレンツォから電話をかけたことはない。
まだ、日付が変わらない時計を見たロレンツォは、何となくパオラに電話を掛けた。
「ヘイ、ローリー。どうしたの?」
ロレンツォは、暗い部屋の隅を眺めて笑った。マヤとは違って、パオラの声は頼もしい。
おそらく、正しい人選である。
「かなりの鬱だ。やばい。」
この手の話に慣れているパオラは軽く笑い、言葉を選んだ。
「何?どうしたいの?」
ロレンツォは、自分の行動を少しだけ後悔して、ゆっくりと笑顔を消した。
「面倒かもしれないが、少し話を聞いてほしい。別に喋らなくてもいい。」
「勝手ね。」
「聞くか、聞かないか。」
「聞いてあげるわ。でも、薬とか飲んでないわよね。今、どこ?ビルの屋上とか嫌よ。」
パオラは連邦捜査官である。ロレンツォの微笑みはパオラには見えない。
「大丈夫だ。ホテルのソファに座ってる。薬も飲んでない。手首も切ってないし、切らない。」
ロレンツォを知っているパオラは、やはり笑った。
「いいわ。付き合ってあげる。」
別に話したいことがあるわけではない。ゴールは、話しながら眠りにつくこと。出来れば、深い方がいい。
「僕はきっと卑怯なんだ。」
「知ってるわ。」
予想外の相槌を笑ったロレンツォは、そのまま話を続けた。
「僕はこの仕事が好きだけど、どこかで壁をつくってる。犯罪者にはいいけど、被害者にもだ。嫌いな訳じゃない。本当に助けたいと思ってる。でも、自分とは違う種類だと、どこかで思ってる。」
パオラは口を挟まない。
「綺麗なサカナを水槽に入れて眺めてるみたいに。相手が絶対にこっちに来れないのを知ってて、話しかけたりする。サカナの寿命は短いし、僕が世話しないとすぐに死んでしまうけど。わざわざ、買って、部屋に置くんだ。本当に、そんな感じだ。僕は無敵の巨人で、小動物の世界を自由にしてる。それが嫌すぎて、耐えられない。」
パオラの声は変わらない。
「そういう日もあるわ。そのうち忘れる。」
ロレンツォは鼻で笑った。
「僕は意外と記憶力がいいから、今夜のうちに忘れるのは無理だ。」
パオラの答えは早い。
「じゃあ、そのいい頭で素敵なことを考えるの。山の様に素敵なことを次から次に思い浮かべて。この世のすべての幸せで、あなたの頭を一杯にするの。出来るんじゃない?」
ただ暗闇を見ていたロレンツォは、少しの沈黙の後、見えないパオラのために、静かに頷いた。それは、ロレンツォのためにも無駄ではない。
「今ぐらいの季節。春先の涼しいログ・ハウスだ。テラスに出ると、一面に淡いグリーンの草原が広がってる。どこまでも続く草原の先には、まだ雪の残る山脈だ。空はスカイ・ブルーで、眩しい日差しを通す雲が光ってる。深呼吸をすると、肺の隅々まで新鮮な空気が溶けていく。そして、優しい風が吹いてくるんだ。」
パオラが口を挟んだ。
「それ、幸せのイメージ?」
「違うかな?」
「誰か出てこないの?こんなことがしたいとか。」
「間違ってるか…。」
「いや、でも、山の様にって言ったから?頭は回ってる?」
あながち外れていないので、ロレンツォは一人で照れ笑いを浮かべた。夜は長い。
「じゃあ、こうだ。牧場に行って、柵の扉を開く。ウシやニワトリを、外に連れ出すんだ。一か所だけじゃない。二か所も三か所も。毎日、毎日。次から次に。国中の牧場から、食用の動物達を救い出す。土に埋められたガチョウも、棒にくくられたブタも。嬉しくて、涙を流してしがみ付いてくる皆を、優しく抱きしめてやる。それから、安住の地を目指して、皆で歌を歌いながらパレードをする。趣味で食べられるために生まれる子供を、この世から救い出す。愛の世界を実現するんだ。」
ガチョウもブタも泣かない。可愛い冗談の様で多分違うことに気付くのがパオラ。きっと、彼女は寂しい話を聞かされている。
「ローリー。人間は嫌い?誰か好きな人はいないの?」
ロレンツォは、その瞬間、マヤのことを思い出した。
綺麗だとは思ったが、好意を寄せる対象だとは一ミリも思ったことがない。
下手なウォーキングがキュートで、睫毛の長い女性だった。
よくは覚えていないが、ホワイトのドレスも似合っていた気がする。
きっと、地獄に住んでいるのに、明るく、悪びれない。
自分が何者か知らない子供の頃なら、きっと友達になれただろう。
香りの印象が強い。トロピカルな香りから遅れてバニラ。
それが、ついさっき、突然、壊れてしまったマヤのイメージ。
普通の人間より少し早く、普通の人間より少し悲しい死に方をしたマヤ・ルチェスクである。
パオラに呼びかけられて我に返ったロレンツォは、涙を浮かべている自分に気付いた。
「ローリー。大丈夫?」
ロレンツォは、パオラと話しながらマヤを想ったのか、マヤを想いながらパオラと話していたのか、分からなくなった。とにかく、猛烈な後悔しかない。
ロレンツォは、涙をこぼしながら口を開いた。
「今日、知ってる人が死んだ。」
パオラの答えはないが、ロレンツォは喋り続けた。
「殺されたんだ。僕と電話で話してる間に。現場も見た。酷い死に方だった。可哀そうだった。」
パオラは同業である。
「辛いわね。それで、犯人は?」
「捕まえた。」
即答したロレンツォが鼻をすすると、パオラは大事なローリーが泣いていることに気付いた。胸の苦しくなったパオラの言葉は止まらない。
「それなら、まだ、いいんじゃないの?」
「いや、よくない。」
「なんで?」
「犯人の店で働いてる娘だった。犯人の家族の話を勝手に始めて、盛り上がってた。その時に止めればよかったんだけど、僕は止めなかった。多分、面白いと思ったんだ。」
「それを犯人が聞いて、怒ったの?」
「そうだ。その前の日も騒いだけど、相手が警官だと話が違ったみたいだ。」
「どう違うの?」
「家族を守ろうとしたって。」
パオラが言葉を失うと、泣き濡れるロレンツォは小さく呟いた。
「犯人を怒れなかった。」
ロレンツォの心の波を感じたパオラは、小さな嗚咽を待って、静かに言葉を続けた。
「仕方がなかったの。その娘は、そういう娘だったのよ。今日じゃなくても、いつか同じ目に遭ったわ。全部がつながってる。今日の出来事は偶然じゃない。知ってるわよね。」
そして、沈黙。
鼻をすすったロレンツォの溜息が聞こえると、パオラは小さな波を送った。
「ローリー?」
「きっと、僕はあの娘が好きだったんだと思う。」
ロレンツォは、小さく呟いた。
何を言われているのかよく分からなくなったパオラは、それでも電話を切らずに、大切なローリーが眠りにつくまで話を聞き続けた。

その夜遅くの保安官事務所。
ヘンリーは、ジョナサンをマディソンから完全に隔離することに成功していたが、一人だけ、発想の次元の違う男がいた。
次々に入れ替わる州警察を横目に、朝からマディソンに付きっ切り。
無線でマヤの死を知った後も一人で聞き込みを続け、スティーブン達の無実を確認したタフ・ガイ。ハンクである。
留置場で傾くマディソンの元を訪れたハンクは、見飽きた顔にジョナサンの野蛮を教えた。
明日でもいい筈だが今。怒りに任せたのかもしれないし、違うかもしれない。
とにかく、ハンクのルールである。
少しずつ壊れ始めていたマディソンは、久しぶりにフクロウの様な顔をして泣いた。
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