第56話 濫觴(1)

文字数 1,508文字

全身の鈍い痛みと痺れを感じながら、ロレンツォは目を醒ました。
腫れた瞼は完全には開かない。呻き声が漏れたかもしれない。
細い視界に現れたのはハンクの顔。
「大丈夫か。」
すぐに代わって現れたのは、ナバイアとアップルビー先生の顔。ナバイアの顔は腫れている。
ロレンツォは鼻をすすった。頭の中からもする血の臭いは強烈だが、薬の臭いとシーツの香りもしないことはない。
病院のベッドで間違いない筈。
気絶している間に運ばれたのである。
口を開こうとしても、頬肉の圧が強い。感覚的に、舌が回るスペースがない。
切り傷を縫った時の麻酔のせいなら問題ないが、手間である。
察したアップルビー先生が、にこやかに話しかけた。
「意識はあるね。あとで頭の方もちゃんと診察しよう。」
意識があるのは本人にも分かっている。ロレンツォの気持ちとシンクロしたのはナバイア。頼れるバディである。
「症状を説明してやって下さい。」
アップルビー先生は、小さく頷いた。
「左足と肋骨の骨折だ。左足の方が酷い。全治八週間。二週間は入院が必要だ。全身打撲と裂傷はおまけぐらいかな。私は、明日、ベンツを買いに行くよ。」
大人が本気で喧嘩をすれば、そんなものである。
しかし、先生の笑えないジョークを聞き流したロレンツォの頭を過ったのは、市長の顔。
もう一度、管理官を呼ばれるのはうまくない。
ロレンツォは、回らない口を動かし、ただ唸った。
ハンクもナバイアも我慢強く付き合ってくれる。
市長というキーワードが伝わったのは、さすがに同じものを見て、聞いてきたナバイア。
但し、物理的にそこまで。
虚しいだけの数分間に見切りをつけたナバイアは、何となく感じ取ったロレンツォの気持ちを代弁した。視線の先にいるのは、アップルビー先生。
「昨日、市長に呼ばれました。」
ロレンツォは、まずは日付が変わっていることを知った。
アップルビー先生が頷くと、ナバイアは話を続けた。
「市の費用で、まだクロノス事件を調べてるんだそうです。」
ハンクとアップルビー先生の顔は笑ったが、ナバイアと考えていることは違う筈である。
ナバイアは説明を急いだ。
「昨日は、当時の関係者と会った途端に電話がかかってきました。」
口を挟んだのはハンク。
「スーザンか。」
視線を移したナバイアは、言葉を続けた。ハンクに敬語は要らない。
「ああ。その前に、アンヘリートの店もあさったけど、別に騒ぎにはなってなかった。多分、盗聴か、張り込みだ。十年以上前の事件にやることじゃない。一体、市長はどういう男なんだ。」
置物になったロレンツォは、心の中で呟いた。
“少し違うが、グッド・ジョブ、ナバイア。”
アップルビー先生は、視線をロレンツォに移した。
「こういうことだけはしない男だ。信じてくれていい。」
明らかに話は変わってきている。
ナバイアが念を押した。
「暴行を指示した可能性はないということですね。」
アップルビー先生が頷くと、ハンクも口を開いた。
「俺も保証する。あの市長に限って、それはない。」
ロレンツォの細い視界に入ったナバイアは、ロレンツォの目を見据えて、何度か小さく頷いた。
諦めたロレンツォの視界に、ハンクの渋い顔が割り込んできた。
「あれだぞ。お前らの相手は自宅待機。家に帰したぞ。お前、腕を折ったろう。立件は止めた方がいい。」
ロレンツォは、瞼を閉じて、ハンクの説教から逃げた。
この世は矛盾だらけである。
しかし、とにかく全てが痛いので、間違っていた気がしないでもない。
悩めるロレンツォの頭に、男の腕を放し、ナバイアと一緒に謝る二人のビジョンが不意に浮かんだが、すぐに痛みの中に消えて行った。
やはり、ありえない。
長い人生を思えば、ロレンツォの判断は正しかったのである
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