第18話 斟酌(6)

文字数 3,490文字

その日の夜。ロレンツォとナバイアは、ヘンリーとの一時間程の現場検証のあと、ルナを訪れた。ホテルに送ってくれたハンクは、家に直帰である。
店を選んだのはロレンツォ。二人の選択肢はソルかルナの二択なので、それ程、無茶な選択ではない。
店員はマヤだけではないし、ウッドストックの手料理よりは絶対にいい。仮に視線が合っても、恥ずかしいのはマヤの方である。
扉を開け、ボックス席に向かって歩き出した二人に、女の声が飛んできた。
「ヘイ、キューティー。」
品がいいとは言えないが、どこか優しげな声。マヤである。微笑んだ二人は、そのまま目当ての席に腰を下ろし、静かに笑い始めた。
もう、何の店だか分からない。
今日は懐かしいメロディはなく、高い位置にあるテレビが点いている。
トロピカルな香りから遅れてバニラ。
笑顔の残る二人の視線の先を変えたのは、マヤの香りだった。
彼女は逃げなかったということ。気にしない人間は、きっと気にしないのである。
ロレンツォは、メニューを受け取らず、微笑みながら注文を口にした。
「この間と同じで。」
微笑みを返したマヤが、ナバイアにメニューを差し出すと、ナバイアはかたちだけ受け取った。
「タコス・デ・パストルとビール。」
実質、メニューを受け取らなかったのだが、ロレンツォがマヤの好み、ナバイアがこの店のアルファを覚えていた事実が、マヤを微笑ませた。
ナバイアからメニューを取り戻したマヤは、何処か楽し気に厨房に引き上げた。悪くはない時間である。
「厨房には、どんな奴が隠れてるんだ。」
見送ったナバイアが呟くと、ロレンツォは小さく笑った。

手持無沙汰の時間。ロレンツォは、テレビを見上げた。
液晶画面に映る知った顔が、彼の目を惹きつけたのである。
誠実そうな顔立ちに、頼りがいのある声。
グッゲンハイム市長である。
画面の端に、テロップが表示されている。
“エラ・ベイリー誘拐事件との闘い”
“市長が声明”
“LIVE”
きっと、テレビはこのために点いていたのである。
確かに、クロノス事件を真似た絵葉書は気がかりだが、子供一人が消えたと言い、連邦捜査局に応援を頼むばかりか、テレビで演説。
犯罪が日常にあるロレンツォとナバイアは、町のために全力で闘う市長を滑稽に感じた。
「マヤ。音を大きくして。」
笑顔のロレンツォが静かに頼むと、厨房から顔を出したマヤは即座に応えた。勿論、笑顔も忘れない。
礼を言ったロレンツォが視線を移した先の市長は、やはり能弁だった。
「エラ・ベイリーは、今、この世界のどこかで震えています。寂しくて、怖くて、辛くて。幼い彼女は、何が起きたのかさえ、分かっていないかもしれません。誘拐に限れば、分からない方が幸せかもしれない。ただ、問題は誘拐と言う行為だけではありません。遅れて、静かに不幸がやってくるのです。頭に思い浮かべて下さい。彼女は、いつか全てを受け入れてしまうかもしれない。今の自分の生活が普通と思ってしまうかもしれない。普通に暴行され、普通に犯罪に手を染める。私達が青少年を守らなければならない理由はそれです。自分の与えられた環境が普通と思ってしまう。スプーンを持つ様に。顔を洗う様に。本当にそうなんです。だから、私達は、彼女の心を守らなければなりません。そのためには、一秒でも早く彼女を救い出し、愛する家族の元に返してあげなければなりません。」
戻る先は、ジョナサンの待つ家である。救われない響きに、ロレンツォは目を閉じた。
「皆さんの気持ちが大切です。エラ・ベイリーのことを常に気に留めて下さい。あなたの隣りを走る車に、彼女は乗っているかもしれない。配達先で見かけた女の子が彼女かもしれない。近所の窓辺に、見たことのない女の子が立っていないか。泣き叫ぶ声が聞こえないか。皆がエラ・ベイリーを思う気持ちが集まれば、彼女の足跡はすべて見えてきます。力を合せるのです。」
自称、市長のファンのナバイアは、ロレンツォに小声で話しかけた。
「素晴らしい。」
ロレンツォは頷いたが、改めてテレビに目を向けた。ロレンツォには、市長の狙いは他にある様に思えたのである。
「皆さんは、覚えているでしょうか。」
市長の演説は終わらない。
「この町で、かつて女性二人が惨殺される悲惨な事件が起きました。クロノス事件と言えば、思い出す方もいるかもしれません。残念ながら、犯人は捕まっていませんが、何よりも、あの事件は、一つの大きな問題を生みました。無実の人間を、皆が誤った情報で追い詰めたのです。」
ロレンツォは、ナバイアに小声で囁いた。
「彼の狙いはこっちだ。」
ロレンツォのひねた発想をナバイアは小さく笑った。二人が見守るのは、そんな二人の声が決して届かないテレビの中の市長。
「私は、昔の話を持ち出して、関係者を責めるつもりはまったくありません。人と関わる限り、皆が相応の報いを受けています。その誰もが、贖罪に人生を捧げています。しかし、同時に、すべてが終わった訳でもありません。この町に住む皆の心に、あの事件は負の遺産として残りました。道標である筈の皆の声が、町に影を落とした。町は、まとまることが出来なくなってしまった。皆が知っている通りです。猜疑心による集団から個人への回帰。当然の流れです。分断。あの事件の持つ最大の意味は、それかもしれません。でも、それでいいのでしょうか。ノー。ノーです。いい訳がない。私はこの町で生まれ、この町に育てられました。私はこの町を愛している。勿論、町の皆さんを愛している。私は、皆の声を成功体験に変えたい。皆の声で、一人の人間の尊い命を救い出し、皆のつながりを実感したい。皆を優しさで包み、団結できる町を取り戻したい。今回のエラ・ベイリー事件は、この町の試金石。私には、そう思えるのです。」
ロレンツォとナバイアが、市長の選んだ適当な落としどころに感心していると、マヤが見覚えのあるプレートを運んできた。バナナ・モカ・パイに添えたクリームがキュート。タコス・デ・パストルは全人類が知るそれ。
「市長、よく喋るわよね。」
ロレンツォとナバイアは、元も子もない言い様に小さく笑った。
二人の前にプレートを並べながら、マヤは言葉を続けた。
「市長は元医者よ。最初の当選の時なんか、この町の病気を治すって言って、凄い人気だったって聞いたわ。」
ロレンツォは、若き日の市長を想像して、小さく笑った。目に浮かぶ様だったのである。

どんな団欒が生まれても、店は貸し切りではない。
マヤのために口を開いたロレンツォの息の音を、エントランスのベルがかき消し、ダーク・スーツの六人組が入ってきた。
州警察である。
先頭のクルスは、ロレンツォとナバイアの姿を見つけると、何故か笑顔で近寄ってきた。
選んだ場所は、ロレンツォ達の席の後ろ。仲間の距離感である。
席に着いたクルスが声を発した相手は、マヤではなくロレンツォ。
「聞いたわよ。事故の話。」
おそらく、ハンクかヘンリー経由である。新しいニュースに眉を上げたマヤはロレンツォを見たが、二人の視線は合わなかった。微笑むロレンツォは、クルスへの答えを考えながら、自分の世界に入ったのである。
自分を狙う様な人間がいるとすれば、シャビーか、ダブルCで揉めた奴らか、アンヘリートの仲間か。この町に来て、そう日は経っていないが、もう身に覚えがある。それは職業病。死に至る病いである。
ロレンツォは、当たり障りのない答えを探しながら、忙しく表情を変えるマヤに接客に移る様に手で促した。勿論、笑顔は消えていない。
「ヘンリーと調書はつくった。情報は、彼のところに全部揃ってる。」
州警察に軽く愛想を振ったマヤは、人数分のメニューを取るため、香りだけを残して、足早にその場を去った。口を開いたのはクルスである。
「男の特徴は?」
それは調書を見れば分かる。無駄な質問に小さく笑ったロレンツォは、表情を変えずにテレビに目を移した。言葉を発しないのも答えの一つ。今はプライベートの時間。クルスはファミリー・ネームを選んだのだから、そのぐらいでいいのである。
市長はまだ喋り続けている。カメラのこちら側と団結するための美しい言葉は、実態が伴う必要がなければ、きっと永遠に尽きることはない。
返事のない理由を探して、ロレンツォの席を覗いたクルスは、ロレンツォの視線の先の市長に気付くと、やはり釘付けになった。ボスの行動は州警察の皆に伝染し、一人また一人と視線の先を変えていく。
まもなく、レストランに集った八人の刑事達は、天井近くに据えられたテレビを揃って見上げ、偉大な市長による愛に満ち溢れた終わらない演説に耳を傾けた。
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