第57話 濫觴(2)

文字数 4,393文字

間もなく、ハンクとナバイアは病院を後にし、三十分程でアップルビー先生も家族の待つ家へと帰って行った。
それは、ロレンツォが目覚めたのが夕方だったと言うこと。ほぼ一日、眠り続けていたのである。
個室に移り、宿直の看護師から枕元のナース・コールの説明を受けた後、ロレンツォは取敢えず眠ることにした。それしか出来る事はないのである。
ただ、眠れない。
マヤが死んだ夜どころではない。
脳が脈打つのを感じる。
睡眠薬をもらうべきだが、常習が怖いので避けてきたロレンツォは、ここでも拒絶した。
結果、命の危機を感じる自律神経が、全力で起き続けようとしている。
目を覚ますスイッチが強制的に切られた昨日と違って、神経の昂りを抑えるものはない。
多分、そういうことである。
暗闇を見つめたり、腫れた瞼を閉じてみたり。
時が過ぎるのを静かに待っていたロレンツォは、やがて、外の世界に小さな変化を感じた。
廊下の足音。聴覚は研ぎ澄まされている。
二十秒ほど前に聞こえ始めたそれは、ロレンツォの病室の前で止まった。
看護師が巡回するのは普通だが、この瞬間のそれは違う。
扉が滑る音がした後、照明が点かなかったのである。
細い光は、懐中電灯のそれ。
病室を素早く走った光の筋は、間もなくロレンツォの顔をとらえた。
壊れたロレンツォの頭は、眩しさでも痛む。
看護師の選択としては間違いである。
数歩歩いたプレデターは、ロレンツォに見えない場所で立止まった。
話しかける訳でも、何をする訳でもない。
軽く鼻をすする音や衣擦れの音。
プレデターは、光に照らし出されたロレンツォの顔を観察している。他に顔を照らす理由は浮かばない。
拳銃を思わせる金属音はない。
ロレンツォは、腕に力を入れてみた。早く動かせる気がしない。
ナース・コールに手を伸ばしても、駆け寄ったプレデターに手をとられるのは確実である。
ロレンツォの苦悩を他所に、やがて、プレデターは小さく笑い始めた。
本当に、笑いが耐えきれない様に。間違いなくサディストのそれ。
男の笑い声である。
加えて言うなら、知っている男の笑い声に近い。
男の顔も鮮明に浮かんでいるが、確信が持てない。
まだ声を聞いていないこともあるが、その男がこんなことをする理由が分からないから。
ロレンツォは、記憶の中の住民達を思い浮かべ、他に似た声の持ち主を探した。
今やるべきか分からないが、止められない。
いつしか笑い声が静まり、小さな咳払いが聞こえると、男は口を開いた。
想像通りの声だが、こんなことになるとは想像もしていなかった声。彼である。
「大変だね。ロレンツォ。」

ダニエルである。
声の位置から判断する限り、ロレンツォとの距離はまだ遠い。
「最初に言っておくよ。俺がジョール・コーエンだ。」
ロレンツォの頭に、シンプルなビジョンが浮かんだ。
“切られる。”
彼がクロノス事件の犯人である確証はないが、父親を切ったのは事実である。
ギブスがある左足は大丈夫な気がするが、他はどうなのか。
手がなくなるのは嫌。
指でも嫌。
耳も鼻も嫌。
絶対に嫌である。
ロレンツォの心が静かな恐怖に蝕まれる中、ジョールは言葉を続けた。
「あんたは何が起きたのか、本当に分かってないだろ。でも、俺からすると、当然のことだ。出来れば、自分で分かってほしい。」
語り掛けても喋れないことを、おそらくジョールは分かっていない。
変に誤解されれば、どこかを切り取られるかもしれない。
ロレンツォは、ざわめく背筋を意識した。
喋るのはジョール。この二人だけの世界の絶対王者である。
「無視したね。言うよ。」
何も言われる覚えのないロレンツォは、ジョールの次の言葉を待った。
「勝手に人の家に入るな。」

ロレンツォの傷だらけの頭脳は、静かに時間を遡った。
初めて、この町に来た日。ハンクにクロノス事件のことを聞き、真っ先にジョールの家を探した。
寝室に監視カメラを見つけたが、カメラは一つだけではなかったのかもしれない。
ジョールは、ロレンツォの様子を見たのである。
汚い物でも見る様に、ジョールのすべてを一瞬で通り過ぎた彼を。
喋るのはジョール。
「俺は考えたんだ。どうやって、この屈辱を晴らすか。目には目を。基本だ。俺は、あんたらの部屋に何度も入った。ソルだ。あの〇〇〇〇宿。歯ブラシ。コップ。冷蔵庫の水。やれる事はそれなりにあった。生理的に受け付けなかったけど、俺はハードに徹した。ベッドにも寝てみた。靴では上がらなかった。ばれるから。何をしたかは言わない。毎日、続けた。毎日。危険を顧みずに。頑張ったんだ。」
少しの静けさは、ロレンツォの反応を待っているのだろうが、それは無理である。
やがて、諦めたジョールが口を開いた。
「でも、それも飽きてね。ホテルごと、燃やしてやった。俺は前に調べたことがある。あれは違法建築だ。あの禿げ、人の命より金の方が大事だったんだ。人を人殺し呼ばわりする癖にさ。ずっと、気に入らなかったんだ。あの日、酔いすぎたと思わなかったかい?俺は、後のことを考えると堪らなくて、大サービスしたんだ。」
ジョールは場所を移したが、やはりロレンツォの視界には入って来ない。足音だけで、痛む腹にも自然と力が入る。
「それだけじゃない。いろいろやったんだ。分かってるだろう。こんな短い間に、一生分、痛めつけられた筈だよ。偶然じゃない。そう思わせたかった。思い出すんだ。車のブレーキが切れた時。あれも俺だ。何年も震えてたからね。車には詳しいんだ。ブレーキを調べなきゃ、怖くて車に乗れなかった。盗聴が嫌だから、警報にも鍵にも詳しくなった。その気になれば、簡単なんだ。あんたらが無実のアンヘリートをいたぶりに行った時、俺は尾けてた。虫唾が走ったぜ。俺の家に勝手に入っただけじゃない。無能は暴力だ。アンヘリートと同じぐらい、怖い思いをさせないと気が済まなかった。まさか、ああも追いかけて来るとは思わなかったけどね。」
ジョールはまた場所を移した。
「エラの服が見つかった時、毒にやられたろう。あれも俺だ。切り傷の方が気になったろうけど、あれはサトルティ。マジック用語だ。覚えときなよ。練習通りに出来た。カリフォルニア・ニュートもサトルティだ。金がかかってたんだ。イモリがいないと、俺が疑われて終わりだった。そうだろう。どうしても必要だったから、奮発した。」
ジョールは沈黙をつくった。確実にロレンツォの反応を待っているが、聞こえるのは二人の息の音だけ。そして、ジョールが諦めるのは早い。
「やっぱり無視するんだね。でも、あれにも理由がある。あんたらは、前の日にシャビーを襲った。俺もあいつは嫌だったけど、理由が間違ってたろ。耐えられない。そりゃあ、ただの暴力だ。神の目が届かないみたいだから、俺が代わりに動いた。救世主の気分だった。俺が自分は本当に正しいと分かったのは、その後の病院だ。クロノス事件絡みのお決まりのジョーク。エラのことも、全然、気にかけてない。呆れた。おまけに、あの日もアンヘリートを疑ったって。ないね。俺は思った。あんた達はこの世のゴミだ。」
ジョールは、ゆっくりと歩き始めた。
「分かってると思うけど、昨日の騒ぎも俺だぞ。女が死んだのに、酒を飲みに来た。ふざけてる。飲めなくなれよ。だから、スティーブンに、店に来る様に言ったんだ。あんた達を見て帰ろうとしたあいつらを引き止めるのは大変だった。アブシンスの飲み方も教えた。がぶ飲みできる、上手い飲み方だ。あとは、プレートを運ぶたびに、焚きつけた。そっちは簡単だった。アホだからな。一番悩んだのは、バットを置く位置だった。もう芸術だったね。スペースがきれいに開いた。創造的プレー。全部がきれいに決まった時、俺は心の中で天を指さした。俺が持ってるのは金だけじゃない。ギフトの気分だった。」
部屋の隅を行き来していたジョールの足音は、少しずつだが近付いている。
光の筋は動かないので、ライトはどこかに置いている。
少なくとも片手は自由になるということである。
「あんたらは無能だから、教えておく。シャビーを殺したのは、マディソンだ。俺は見てた。あの日のシャビーは、俺が見た中でも最低だった。獣だ。マディソンが可愛そうに見えた。マディソンは正しい。ただ、あの女を許せたのは、あの時だけだ。マディソンは刑務所に入れないと駄目だ。調べたら、分かったろう。ああいうのが、この世の癌なんだ。あいつを駆除するために、俺は、時間をかけた。あんたらは気付いてないだろう。シャビーとマディソンに、葉書を送り続けた。努力した。分かるだろう。シャビーは死んだ。あの女も罰せられないといけない。絶対だ。」
ジョールは、ますますロレンツォに近付いている。
もう、気配を肌で感じるレベル。
ジョールの動きが、ロレンツォの周りの空気を乱しているのである。
次の瞬間、ロレンツォの顔に直接息がかかった。
「知ってるか。エラは生きてる。」
不意に暗くなったロレンツォの視界に映ったのは、顔を近づけたジョールの目。
近すぎる。
それは家族か恋人の距離。
ジョールがすぐに顔を離すと、ロレンツォのよく知るダニエルの顔が現れた。
いつもの爽やかさはない。影のせいもあるが、憎悪が見える。
「ジョナサンもマディソンも刑務所行き。〇〇〇〇シャビーは死んだ。それが、この町で起きたこと。正義が実行された。ハット・トリックだ。ただ、あれだ。ジョナサンは予定外だった。別の方法で刑務所に送るつもりだったのに、マヤが死んだ。あれは、自殺点。決めたのはあんただ。」
ロレンツォの右腕は、震えながら、ゆっくりと上に挙がった。
思っていた通り、時間がかかる。
親指だけが自由なロレンツォの右腕は、ジョールの体に触れはしたが掴むことは出来ない。
ジョールは、ゆっくりとロレンツォから離れた。
「今日、ここに来たのは、絶好のチャンスだったからだ。あんたは動けない。電話や手紙と違って、反応が近くで見れる。」
ロレンツォの痛みに満ちる腕は、ジョールのいない空で泳いだまま。
今から自分が話す言葉を小さく笑ったのはジョールである。
「ここまで動けないとは思わなかったけどね。まあ、いい。あんたの説教に戻ろうか。いいか。勝手に人の家に入るな。自宅への侵入を防ぐ権利は、人間として、最低限の権利だ。法を守れ。」
うるさいだけである。
ロレンツォは、挙げていた腕から力を抜いた。痛みさえ耐えれば、重力は絶対。
ロレンツォの腕が真っ直ぐ降りたのは、頭の上。そこにあるのは小さなボタン。
ナース・コールである。
ジョールは、ロレンツォの不自然な姿勢を見ると、すべてを理解した。
床を擦る音が遠ざかっていく。
「いいか。エラを探せ。絶対に諦めるな。」
光の筋が暴れたのは、懐中電灯がジョールの手に握られた証し。
ジョールは、そのまま病室を後にした。
取敢えず、大事なこと。
ロレンツォの体は、どこも切り取られなかった。
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