第67話 中道(7)

文字数 5,147文字

“人の最期なんて、悲しいに決まってるんだ。”

間もなく到着したヘンリーは、物々しいSWATに迎えられると、現地にそのまま直行した。
表情を見る限り、緊張している可能性が高い。とにかく、ロレンツォへの挨拶はなしである。
ナバイアがセダンの窓をノックしたのは、それから間もなく。
「ボスを迎えに来たぞ。」
笑顔のナバイアに答えたのはハンク。
「もう帰るのか。」
ナバイアの答えは早い。
「そうしたい。ホテルに直行して、荷物をとってそのままだな。」
口を挟んだのはロレンツォ。
「いや、最後にルナに寄りたい。」
「なんで。」
小さく笑ったハンクに、ロレンツォは笑顔を見せた。
「ジョールにやられてから、バナナ・モカ・パイを食べてない。」
「そんなに食べたいかな。」
ナバイアが笑うと、ロレンツォは首を傾げた。
「じゃあ、僕だけ下ろしてくれていい。後で拾ってくれ。」

二人のSUVが間もなく辿り着いたのはルナ。降りるのは、本当にロレンツォだけである。
ロレンツォがこうもバナナ・モカ・パイに拘ったのは、ルーティンをジョールに止められたまま終わるのが嫌だったから。
「悪いな。」
ロレンツォがシートからずれながらナバイアに詫びると、ナバイアは笑顔を見せた。
「気にするな。今日だけ、我慢してるみたいじゃないか。」
これから長時間、動く密室に籠るつもりの二人は、何を話すこともなく、軽く手を挙げて別れた。
ナバイアは、バック・ミラーに映る松葉杖のバディを見て、もう一度笑った。
スウェット生地のパンツでもジャケットを羽織るロレンツォが、単純に面白かったからである。

ルナのエントランスを潜ったロレンツォは、ウッドストックの姿を横目に、ボックス席に歩いた。彼の中では自分の席である。
音楽は流れていない。こういう時はテレビがついている。
ロレンツォは、キャスターの声を届ける壁の一角を見上げた。
エラの事件の中継である。
この町の運命を握る報道。グッゲンハイム市長の考え通りなら、そうなる。
ロレンツォは、ウッドストックが近寄ろうとすると、注文を口にした。
「いつもの。」
Uターンするウッドストックの背を見送る必要はない。ロレンツォの視線は、テレビのテロップに釘付けになった。
“家出少女。廃墟で見つかる。”
説明はないが、映っているのはジョールの豪邸。
地元の住民だけに分かるメッセージである。
小さく笑ったロレンツォは、こめかみを抑えて、痛みが過ぎるのを待った。
ジョナサンとマディソンの犯した殺人事件を知る地元の人間にとって、エラが見つかった場所がジョールの家ということは、かすかな希望である。
この町で残虐な事件を起こす人間は、クロノスの関係者だけ。
例え、事実とは違っても、町にとって大事なことなのである。
間もなく、テレビは市役所の広報室を映した。
偉大なグッゲンハイム市長の勝利宣言の始まりである。
「すべての真実を話すべきだが、真っ向からではいけない。上手くやるには、回り道をした方がいい。我らの愛すべきディキンソンは、百年以上前にそう詠っています。」
会場から笑いが起き、ロレンツォも苦笑した。市長の演説はこれからである。
「そして、彼女は、続けてこう詠っています。真実の素晴らしい驚きは、私達がささやかに喜ぶには、あまりに眩しいから。子供達に優しく説明するなら、それは稲妻の様なもの。真実の輝きは徐々に照らさないと、皆の目がくらんでしまうから。この国を代表する詩人はそう詠いましたが、私は違う。私は、すべてをありのままに、今、この場でお話しします。何故なら、私には、その義務があるからです。数日前、私は、この場に立ち、この事件の捜査に協力してくれる様に皆さんにお願いしました。彼女に気を配ってほしいと。皆の声を成功体験に変えたい。皆の声で、一人の人間の尊い命を救い出し、皆のつながりを実感したい。皆を愛で包み、団結できる町を取り戻したい。綺麗な言葉を並べました。しかし、私は、同時に皆さんに隣人を疑うことを求めていました。分かっていたことです。ただ、私は、何よりも、人命を優先した。将来のある子供が、無事に帰って来れる様に、すべてを知った上で、お願いしました。自警団の皆さんには、本当に頭が下がる思いでした。幸運を祈りながら、私は思っていたのです。皆の気持ちは、自然に、子供の行方だけでなく、犯人捜しに向かう筈だと。当然です。皆さんは警察とは違います。町を歩いていて、友人と雑談をしていて、思った筈です。こんなにも残酷で、こんなにも下品な会話を自分達がするとは、夢にも思わなかったと。どんな噂でも、その場では笑ってみせます。そして、他の輪で、嫌がってみせる。ただ、言い方は違っても、内容は同じです。こんなにも残酷で、こんなにも下品な会話。あなたも、あなたも、あなたも。皆が口にした。恐ろしいことです。私達は、おそらくこの町に潜むすべての悪を、今回、口にしたと思います。私達は、町の至る所に、犯罪の種を撒いてしまったのだと思います。まず、それを理解することが、この町の明日のために必要です。そして、思い出して下さい。今回の事件とは何だったのか。結果はどうだったのか。シンプルです。いなくなった子供は、廃墟に家出していただけ。数日前までの私達の町の、どこにでもある風景。反抗期の短い家出。そんな可愛い冒険が、皆の声の響き方で、こうも醜いものに変わってしまったのです。」
全てを知るロレンツォの頭には、何も入って来なくなった。

疲れるロレンツォがパイを待つボックス席。
流れる様に腰を下ろしたのは一人の女。ウッドストックではない。
「探したわよ。」
クルスである。
ロレンツォが視線だけを向けると、クルスは微笑みながら言葉を続けた。
「もう帰るんでしょう。」
悪意を感じなかったロレンツォは、小声で答えた。
「ああ。パイを食べたら。」
厨房を眺めたクルスは、人の来る気配がないと見ると、ロレンツォににじり寄った。
「あなたの口から聞きたかったの。ジョールと、直接、話したんでしょ。結局、何だったの?」
もう、遠い昔の出来事の様である。
ロレンツォが力なく笑うと、クルスは言葉を続けた。
「保安官は、多分、ありのままは記録しないわ。ベネットなんて、政治家並みよ。」
面倒になったロレンツォは、適当な言葉を探した。
彼の中のジョールがしたこと。
ジョールは、噂話で傷つけられても、顔を変え、指紋を消してまで地元に留まった。
おそらくは、クロノス事件への父親の関与を隠すため。
ただ、父親がこの世を去り、独善的な思考を膨らませていったジョールは、ある日、自分の店に顔を出す女の子が、酷い環境にいることを知った。
金と時間を持て余す彼が頭に思い描いたのは、元凶である両親を檻に放り込み、彼女に手を出すジャンキーをこの世から追い出す、ダーク・ヒーローのストーリー。
ジョールは、本当にそれをやってのけた。
マヤという一人のチッピーが犠牲になったが、ジョール本人が死んだことを除けば、大きな誤算はそれだけである。
ジョールは、自分にしか出来ない方法で、エラ・ベイリーという人間を救った。
ロレンツォへの凶行は、無限の力を持つヒーローが町を壊したぐらい。
それが、ロレンツォの頭に一瞬浮かんだビジョン。
悪人の側に立ったビジョンである。
善悪の境界は儚い。その境界の番人は、常に自分の立場を明確にしなくてはならない。
それがロレンツォの信条。
「あいつはこの世を拗ねてた。周りに不幸を見つけると、焚きつけて楽しんでた。金持ちの万能感が、彼の中の警官を小さく見せてたのも分かり過ぎた。刑務所で、更生させてやりたかった。」
ロレンツォの声は小さく、クルスは途中でロレンツォに耳を近付けた。喋るのは、頷いたクルス。顔は笑っている。
「ハンクは、クロノス事件のこと、何か言ってた?私も前に聞いたけど、大事なところは教えてもらえなかったの。」
疲れたロレンツォは厨房を見た。
たまたま見えた人影は、スヌーピーの影。ウッドストックとスヌーピーは、何かを議論している様に見える。
ロレンツォは、バナナ・モカ・パイをつくるスヌーピーを思い浮かべ、すぐにかき消した。
バナナ・モカ・パイは、マヤ・ルチェスクのお気に入り。
そう覚えておくのが、正しい気がしたのである。
ロレンツォの返事が遠いと見ると、クルスは勝手に話を続けた。
「私達の間の結論はこうよ。アスマンとグッゲンハイムが、ジャンキーのチッピーを雇って、アスマンの家で遊んでたの。それが、ある日、薬で錯乱して、一人が手首を深く切った。グッゲンハイムが治療したんだけど、切り落とすしかなかった。それを、ジョールが見つけたのね。怖くなったジョールは警察に手を送って、二人を見つけ出してくれることを願った。直接言わなかったのは、アスマンやグッゲンハイムが、警察に顔が利くことを知ってたから。チッピー達が警察に事情を聴かれると、二人の悪い遊びがばれるわ。それで、アスマンとグッゲンハイムは二人を地下に閉じ込めたの。外に出たって、地獄だし、一緒だと思ったのよ。でも、想像して。地下で、手首のない女の絶叫が聞こえる家。そのうち、ジョールは狂ったチッピーの言葉を信じて、もう一人の女の体を切った。そこからは泥沼よ。アスマンとグッゲンハイムは、全員が助かる道を探して、ありとあらゆる手を尽くした。」
ロレンツォの頭を、グッゲンハイムの長い指が、手首を包むビジョンが過った。その先に腕はない。
ハンクから聞いた話のせいで、妙にリアリティが出たのである。
顎を上げたロレンツォは、クルスから顔を遠ざけた。
「まず、市長のことは何も分からない。でも、まあ、想像だけなら、そんな感じなのかな。」
院外治療の話も、ジョールが切られた肉片を探してまで警察に送った話もする気はない。
クルスは微笑んだ。
「アップルビーやネルソンのことは何か言ってた?」
自分の中で、善意の塊でしかない二人の名前が挙がると、ロレンツォは静かに吐き気を催した。ハンクは他にも関わった人間がいるとは言っていたが、彼らは想像の外だったのである。
しかし、アップルビー先生は、若き日のグッゲンハイム市長とつるんでいておかしくない。
ジェームズは、子供がマディソンと同世代と聞いていたが、若い女が好きかもしれない。
きっと、疑わしいのは、この町に来て出会ったすべての人。
この世には、人の数だけ生理現象があるのだから、可能性を言えば、そうなのである。
クルスは、ロレンツォの沈黙を構わない。
「事実を隠しきったのはハンク。グッゲンハイムとグルなの。どう?」
本当に、何を調べていたのか分からない。きっと、州警察がこの事件に割いた人数は多すぎるのである。
ロレンツォは、市長室でソファに並んだ二人を思い出した。
ハンクの渋い顔は、嫌いではない。
ロレンツォは、厨房を見ながら、口を開いた。
「証拠は?」
クルスは笑った。
「ないわ。だから、聞いてるんじゃない。」
ロレンツォが力なく笑うと、何を勘違いしたのか、クルスは今までにない親し気な微笑みを見せた。
「どう、教えて。当たりでしょう?」
クルスの目を見てしまったロレンツォは、何もかもが猛烈に嫌になった。
好奇に満ちた目の光。ついさっき、ハンクに見せた自分の目にもそれが宿ったかと思うと、絶望したのである。

ロレンツォは、ウッドストックがバナナ・モカ・パイを運んでくると、テレビを見上げた。
クルスから逃げたのである。
しばらく一緒にテレビを眺めたクルスは、適当に消えてしまった。
お別れぐらいは言った様な気がするが、記憶は定かではない。
やがて、事件の報道も終わると、店内にEDMが流れ始めた。それは、ロレンツォの中では間違えた選択。
ナバイアが戻ってくるまでには、まだ時間がかかるが、ロレンツォは、ルナの外に出た。
今から別れを告げる町の景色を、目に焼き付けるためである。

いつの間にか、雨が降り始めている。
聞こえるのは、燃えたソルにかかったブルー・シートを雨が叩く音。
飛沫のせいで、鼻腔が水と煤の香りで満ちるまでに、時間はかからない。
すべては事件の残骸。悲しい記憶でしかない。
それでも綺麗な景色を探したロレンツォは、顔の向きを変えた。
季節なら春。先住民居留地と隣り合う人口二千人の小さな町の重い雨の降る午後。街灯が点く夕暮れはまだ遠く、空まで続く空気はグレーを帯びている。
人口に見合う程度に店舗の並ぶ片側三車線のアスファルト舗装には、雨で水たまりができ始めている。
ロレンツォは、雨のせいか、誰もいない道路の先を静かに見つめると、不意に松葉杖を突き、一歩ずつ歩き始めた。
理由は知らないが、ルナから離れて停まる、見慣れたセダンを見つけたから。
再会を期して別れたばかりの、頼れる男を見つけたからである。
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