第17話 斟酌(5)

文字数 1,967文字

ロレンツォの目の前で、常識が静かに壊れたのはその直後。
二人のSUVが、ゆっくりと坂を下っていたのである。速さから考える限り、今まさに始まったイベント。
坂道でサイド・ブレーキを忘れたとは思えない。降りてから随分になるので、それは確か。愛車を一秒観察したロレンツォは、運転席のドアが開いているのを見つけた。
人は乗っていない。
警報が鳴らない理由が不明。しかし、何よりも、無人で動き続けるのは五千ポンドの鉄の塊。
本能で走り出したロレンツォは、二つ目の発見をした。走って、坂を駆け下りる男である。
身のこなしから想像する限り、十代から四十代。中肉中背。服装は全身ブラック。頭に被っているのは、おそらくバラクラバ。後ろ姿では分からない。
間もなくロレンツォの視界の中で、問題の男は子供達の横を通り過ぎた。つまり、そういう距離感。今から起きる危機は明白。子供達に突っ込む車である。
ストライドを大きく使ったロレンツォは、程なくSUVに追いつくと、開いたドアから運転席に飛び乗った。
やるべきことを知っているロレンツォは、そこで三つ目の発見をした。
ブレーキが利かない。
バック・ミラーを見たロレンツォの目に、子供達が映る。
何人かはこちらを見ているが、行きに見た時とほぼ違わない光景。
但し、その後の展開はまったく違う。今の彼らは、死の淵に立っているのである。
ロレンツォは、クラクションを押し続けた。それは野生動物を追い払うレベルの長さ。
ナバイアとハンクが、異変の特殊さに気付くだけの長さである。
道路に飛び出してきた二人の目は車を追い、走り去る男には気付かない。
何かの事故を疑ったナバイアとハンクは、ロレンツォの乗るSUVに向かって駆け出した。
車内のロレンツォの視線は、相変わらずのバック・ミラー。
ほとんどの子供は車道から逃げたが、その場に座り込んだ子供が残っている。
自分が避けると、相手が同じ方向に避ける空想で動けなくなるタイプ。あるいは、足が震えているのか。
ロレンツォは、小さな決断をした。アクセルを踏めば、子供達は助かるが、走るには限界がある。プラス・アルファ。
まずは対向車線の確認。激しく動くロレンツォの視界に、SUVに向かって走り寄るナバイアとハンクが映る。ハンクの腹が揺れている以上の事実はない。グリーン・ライトである。
ロレンツォは、ハンドルを大きく切り、車の角度を変えた。
慣性の法則に従うSUVは、金属の鼓を打ち鳴らし、植栽を押し潰す様に道路の脇に突っ込んだ。力学は嘘をつかない。ロレンツォの期待通り、どんな鉄の塊であっても、いつかは止まる。衝撃こそあったが、ガソリンの臭いはない。子供の命と比べれば、板金工に払う数千ドルは安い。
しかし、ロレンツォのアドレナリンはまだ止まらない。逃げる男。ロレンツォの頭の中には、遠ざかる男のビジョンが鮮明に残っている。
腸が蠢くロレンツォは、運転席から踊り出すと、SUVに追いついたナバイアとハンクを置いて、坂を下り出した。男を追う。それが、プラス・アルファである。
坂を駆け下りるロレンツォは、勢いの出過ぎる自分の足にブレーキをかけながら、時に飛ぶ様に先を急いだ。足が大地を突く衝撃が、腹の底から伝わってくる。その音を聞いているのは、耳よりは鼻の奥。
ナバイアとハンクも走り出したが、目的を理解しない二人の足は今までの惰性。
男に一番近いのは、やはりロレンツォである。
目指す男は、坂を下り切った先にある線路の前で足を止めた。踏切の信号の点滅。その意味は絶対である。
思わぬ幸運に、ロレンツォが自分の中のギアをもう一段上げた時、非常識なショーは、突然の幕切れを迎えた。
男が踏切の中に侵入し、直後に路面電車がやって来たのである。信号が教えたままの流れ。通り過ぎる電車は、ロレンツォの視線の先に長い壁をつくった。
ついさっきまで男が立っていた場所にロレンツォが辿り着くのに、大した時間はかからない。ナバイアとハンクも続く。電車が止まらないので、接触はなかったということ。
しかし、本当に電車は止まらない。
呼吸を整えるだけでは足りない。男との距離が挽回できないと納得するレベルの時間。
轟音の中、黙ったままの三人が待ったのは、多分、二分間。
やがて、電車が音を変えながら消えた線路には、血一滴落ちていなかった。日頃、見慣れた線路が、どこまでも続く。踏切の向こうの道路もそう。全てがいつも通り。
ロレンツォは、気持ちが徐々に冷めていくのを感じた。口を開いたのはハンクである。
「大丈夫か。」
何をもって大丈夫と言うかは人による。ロレンツォは、ハンクの顔を二度見した後、男が消えた踏切の向こうに続く道路を眺めた。
その先にあるのは商店街。更にその先には、先住民居留地へと繋がる大自然が広がっている。広大な迷路。
逃げ切られた。そう考えるのが普通である。
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