第63話 中道(3)

文字数 3,120文字

“本当に無駄な時間もあった。あの時の時間が、今の僕にあったら。”

張り込みを始めてから八日。
その日は、この季節には珍しく、午後から雨が降り始めた。空まで続く空気はグレーを帯びている。
重い雨に濡れ、いつもと違って見える病院を眺めていたロレンツォは、不意に口を開いた。
「あれじゃないか。」
それらしい一組の男女が、病院に入っていったのである。
キャップにサングラスの男の体格は、ダニエルのそれ。顎と鼻が彼だと言っている。
女の安っぽさも分かり易い。カモフラージュのためのチッピー。いい商売である。
ハンクは、当たり前にトイレでいない。予備軍から糖尿病への昇格の日は近い。
「行ってくる。」
ナバイアは、傘も差さずに車から出た。
ショーの始まりである。
ロレンツォは、ナバイアがエントランスに消えると、盗聴の音声に耳を傾けた。
「ようこそ、ロナルド・レーガン。どうぞ、座ってください。」
それがティモンズ先生と決めた、ジョールを迎えた時の合図。
ナバイアにも、当然、聞こえている筈である。
数秒後。
何かが激しくぶつかる音と、戸惑うばかりの女の声が聞こえると、ロレンツォは微笑んだ。
一対一なら、ナバイアが負ける筈がないのである。
静かに目を閉じたロレンツォは、病院の夜を思い出した。
リベンジの日は近い。

どう攻めるか思案するロレンツォは、用のなくなった階段から目を逸らし、雨の降る町に視線の先を散らした。
エラの救出も見えてきたせいか、鼻歌も漏れる。彼としては、奇跡的なまでの上機嫌。
しかし、間もなく、ロレンツォの耳に妙な音が届いた。無線からである。
まずは勢いよく扉の開く音。
「動くな!」
ナバイアの声である。タイムラグのせいで、状況が想像できない。
ロレンツォは、一度も入った事のない病院に、視線の先を戻した。
傘も差さずに走っていく男の姿が一つだけ。さっきの男なので、ジョールである。
続いて聞こえたのは、ティモンズ先生の声。
「遅いよ。」
おそらく、ジョールは自分がレーガンと呼ばれた時点で違和感を持ち、裏口から逃げだしたのである。衝突音は、ジョールが椅子を倒したのか何か。
ナバイアとティモンズ先生の虚しい会話が無線から洩れる間も、ジョールは全力で走っていく。女を待つつもりはなさそうである。
車内を見たロレンツォは、運転席にずれ込んだ。松葉杖の要らない距離である。
もどかしいが、シートベルトも締められなくはない。
そして、右足は自由。
ロレンツォは、アクセルを踏むとジョールの後を追った。
しかし、何故だか、すべてが見えづらい。
一瞬、自分の頭を疑ったロレンツォは、思い出した様にワイパーを動かした。
今のロレンツォの頭は、ジョールのことで一杯なのである。
ロレンツォは、静かにアクセルを踏み込んだ。ただ急いでも、意味がないから。
問題は、ジョールの止め方。
車から降りたところで、松葉杖のロレンツォがジョールを捕まえられる筈はない。
無抵抗の人間を、先に銃で撃つ訳にもいかない。
終わりは見えないのである。

とにかく、動き出しただけのロレンツォの目の前で、ジョールは最初の角を曲がった。
ゆっくりと続いたロレンツォの眼前に広がったのは、店もまばらな三車線の道路。
細い脇道も見えるので、車で追える限界は近い。
見渡す限り、歩道を動く傘は、それ程多くない。
ロレンツォは、大体の状況を分析すると、答えを導き出した。
優秀な彼が、閃きを行動に移したのは三秒後。少しだけ躊躇った証しである。
思い切りハンドルを切ると、ロレンツォのバンは、動かした通りに歩道に乗り上げた。
歩道を走る車は、周囲に非日常を教える。
例外ではないジョールが振返ると、ロレンツォはブレーキを踏んだ。
アクセルではなく、ブレーキ。
エア・バッグを避けるためである。
バンはジョールをクリーン・ヒットし、生身の体を濡れた路面に叩きつけた。
頭を弾ませたのはジョール。
シートベルトで胸を締め付けられたのはロレンツォ。
善意の塊の通行人がジョールの周りに集まる中、呼吸さえ苦しいロレンツォは、スマートフォンを取出した。ナバイアを呼ぶためである。
スリー・コールで出たナバイアの息は荒い。
「今、どこに…。」
「ジョールを止めた。すぐ、…。」
ナバイアの声に被せたロレンツォの言葉が途切れたのは、目の前の傘の群れが大きく動いたから。
ジョールが、起き上がったのである。
おそらくは全身を強く打ったジョールの歩みは遅い。
ロレンツォは、松葉杖を手にバンを降りた。自分で確保するのである。
しかし、この国の正義はどこまでも真っ直ぐ。
ロレンツォの前に立ちはだかったのは、この国を支える勇気ある男達。
見る間にジョールの姿は遠ざかっていく。
「連邦捜査局だ!警察だ!」
叫んだところで、松葉杖のロレンツォの体を押さえる手が増えるだけである。
IDに手を伸ばすことも出来ない。
「胸ポケットを見ろ!IDがある!連邦捜査官だ!」
ようやく一人が従い、それが事実と分かると、正義の男達はロレンツォを解放した。
もうジョールの姿は見えない。細い通りはすぐそこなので、曲がった可能性が高い。
疲れるロレンツォを次の面倒が襲ったのは、その直後。
一人の男が、通りに向かって、歩き出したのである。
連邦捜査官に車で跳ねられる様な奴の末路が知りたい。好奇心は無敵である。
「凶悪犯です!絶対に近付かないで下さい!」
ロレンツォは声を張り上げたが、ジョールを追う人の数は増えるだけ。
濡れるロレンツォは、妙に痛み始めたあばらを庇いながら、皆の後を追った。
杖の先は滑り、一歩、一歩が辛い。揺れが大きくなると、痛みも酷くなる。
ロレンツォは、徐々にだが、はっきりと皆から遅れ始めた。
ロレンツォと皆との間に降り注ぐ雨は、もう分厚い壁の様である。
一人ぼっちのロレンツォは、遠のくジョールのことだけを思い、静かに足を前に進めた。

すべての流れを断つかの様に、金属の軋む音が響き渡ったのは、それから間もなく。
大きく、長い音。日常にない轟音。
確実に通りの向こうで何かが起きている。
杖を大きく進めるロレンツォは、不器用に揺れながら、曲がり角に辿り着いた。
ここを曲がれば、ジョールの消えた先が見える。
しかし、容赦ない雨と痛みが、車道に出たロレンツォの杖の先を滑らせた。
そもそも、今まで転ばなかったのが、奇跡なのである。

ロレンツォは、濡れたアスファルトの上に崩れ落ちた。
頭は庇えても、ひびの入ったあばらへの衝撃は避けられない。
体に水を感じる範囲が、一瞬で広がる。
顔を歪めたロレンツォは、小さく呻き声を上げた。
立ち上がる気になれない。
とにかく、すべてが痛いのである。

十分に頑張ったロレンツォは、雨が降ってくる空を見上げた。
視界の端に入った街灯はまだ暗い。時間的に当然である。
ジャケットもスウェットも濡れそぼち、色が変わっていく。
だが何よりも、地に這うのは最悪。精神的に限界である。
諦める自分を許すビジョンしか持てないロレンツォは、しかし、ジョールが逃げ込んだ先を見た。
坂を下った先。フェンスの前に、人だかりが出来ている。
その先は線路。電車が止まっているので間違いない。
金属音の理由は、電車のブレーキである。
やがて、ロレンツォはナバイアを見つけた。
電車の音を頼りに、別のルートから辿り着いたのである。
人の壁が少しだけ崩れると、ロレンツォは目を凝らした。
腕の様なものが見える。
理由はかたちと色。
位置が妙なので、断言はできない。
耳の穴に入る雨を感じながら、フェンスを眺め続けていたロレンツォは、やがて周囲の音が変わるのを感じた。
顔を上げた先にいたのは、ずぶ濡れのハンク。彼も追いついたのである。
スミス&ウェッソンM39を手にしたハンクは、渋い顔で口を開いた。
「大丈夫か。」
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