第53話 瞋恚(2)

文字数 1,948文字

線路沿いの道を逸れ、少しだけ坂を登ると、アンヘリートの家が見える。
責められる妻を見たくないのか、妻に合わせる顔がないのか。アンヘリートは店に留まることを選んだ。
アンヘリートがロレンツォの言葉を守り、スーザンに連絡していなかったことは、インターカムに出たスーザンの声で分かる。前と同じ、落ち着いた声である。
彼女がどんな反応をしようと、ロレンツォの話す内容は決まっている。
「聞きたいことがあります。デボラ・キャボットという女性のことです。」
間もなく顔を見せたタトゥーの彼女は、扉の間から、周囲を見渡した。
「早く入って。」
車が目に付けば、どうせ分かることである。ロレンツォとナバイアは、ゆっくりと家に入った。
取敢えず、ソファに座っても、お茶は出ない。
「デボラ・キャボットは、クロノス事件の被害者です。」
ロレンツォが口を開くと、スーザンは何度か頷いた。
「ハンクに聞いて。」
彼女にとって、聞き飽きた質問なのである。
ロレンツォは頷いたが、かたちだけ。スーザンに彼を動かすことは出来ない。
「亡くなったミス・キャボットは、ミセス・ベイリーの大学時代のルーム・メートです。御存じでしたか。」
視線を逸らしたスーザンの顔には、ガラの悪く見える角度がある。
「同じよ。ハンクに聞いて。」
釣られて視線の先を追うナバイアを横目に、ロレンツォは言葉を続けた。
「今、警察で事情を聞いているミセス・ベイリーは、高校時代に素行不良だったという噂があります。FFCという場所。知ってますよね。」
スーザンが明らかに不快な表情を見せると、ロレンツォは小さく笑った。
「知ってますよ。あなたはそこにはいなかった。そこにいたのはミス・キャボットです。」
スーザンは、また視線を逸らした。取敢えず、彼女にとって、ハエは去ったのである。
喋るのはロレンツォ。
「ミセス・ベイリーは、大学時代はその類の商売とは縁を切っていた様です。ただ、ミス・キャボットは違った。彼女は、愛を金で売り続けていた。この世でもっともプリミティブな職業です。」
嫌味な言い回しに、スーザンは鼻で笑った。
「それで?」
ロレンツォは頷いた。
「あなたは、一時、ミス・キャボットと同じ職業に就いていましたね。誰も責めてはいません。ただでも付き合ってもらえない人が世間には大勢いるのに、お金までもらえるんだから。尊敬しますよ。」
ロレンツォも含めて、誰一人の目も笑っていない。
口を開いたのは、呆れたスーザン。
「その話、要るの?」
ロレンツォが口を開こうとすると、スーザンは面倒臭そうに手で遮った。
「いいわ、分かった。デボラのことを聞きたかったら、教えてあげるわ。でも、前にもハンクに話したわよ。何回も。」
微笑んだロレンツォは、ソファに身を任せ、手で話を促した。横柄な相手でも答えるのがスーザン。彼女が逃げるには、そうするしかないのである。
「生まれた家が悪かった。お金も必要だった。体が悪かったのもあるわ。あれよ。死ぬ気になればって言う。言葉のまま。何も大したことないから。そうでしょ?それが、マディソンにFFCに引っ張られて、マディソンに付いて、町を出た。全部、マディソンが誘ったのよ。」
スーザンが語るのは、クロノス事件の被害者としてのデボラ。
おそらく、ハンクに話したのと同じ話である。
「悪いのは、マディソンよ。デボラは普通に生きてただけ。マディソンは、あの娘を売り出して、儲けてた。」
ありそうな話に、ロレンツォは口を挟んだ。
「つまり、マディソンはその道から抜けていなかったということですね。でも、どうやって、デボラに言うことを聞かせたんですか。」
スーザンは、カタツムリ並みのペースに小さく絶望した。
「だから、デボラはデボラで金がいるから。何でマディソンかって言ったら、薬。マディソンは、モルヒネを持ってたの。実験用か何か。二人の愛称は抜群よ。」
ロレンツォは、メアリーから聞いたマディソンの言葉を思い出した。
“自分がいないとデボラは駄目だ”
脛に傷のある人間が、他人の薬の話まで口にするのは恭順の証。
そして、言葉がつながっていくのは事実の証。
アンヘリートと同じで、スーザンは両手を挙げている。
殺人犯とチッピーの夫婦が選んだ、生きるための基本姿勢である。
ロレンツォは、ハンクが無駄を教えた理由を何となく理解した。
念のための確認。
「今のお話だと、あなたとミセス・ベイリーは友人関係では…。」
「ないわよ!」
スーザンが声を荒げた時、ロレンツォのスマートフォンが鳴った。
スーザンに微笑んだロレンツォの頭に浮かんだのはクルスの顔。
それは昨日の朝の偶然のせい。二人を追ってきたのかもしれない彼女達は、何かをやりそうなのである。
スマートフォンに表示されていたのは、知っている別の番号。
グッゲンハイム市長の秘書である。
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