第65話 中道(5)

文字数 2,919文字

“誰が正しくて、誰が間違ってるかなんて。もうどうだっていい。”

翌日、アップルビー先生の病院に戻ったロレンツォは、郵便物を受け取った。
嫌すぎる予感。エラの手首が、入るぐらいの箱。
凍り付いたロレンツォは、箱の写真を撮った。自分で開けることにしたのである。
一人で箱を開け、目にしたものは絵葉書。
エラの誘拐の時と同じなので、クロノス事件の時と同じ。
ジョールからの絵葉書である。
表裏を素早く見たロレンツォは、顎を小さく上げた。
書いている情報は少ない。
“ようこそ、我が家へ。”

ロレンツォは、管理官に応援を要請した。連邦捜査局が動くのは今。
マディソンを連行したのも、ジョナサンを捕まえたのも、連邦捜査官のロレンツォ。
例え、時間がかかっても、エラを見つけるのは連邦捜査官であるべき。
それが、ロレンツォが思い描くビジョンなのである。
嗅ぎつけた余所者は、ナバイアと一緒に動いていたハンクだけ。
一時間後。
重装備のSWATは、小雨に濡れるジョールの家を取り囲んだ。
ロレンツォとナバイアがこの家を訪ねるのは二度目である。
鋼製の柵を外し、放置された庭木を避け、石畳を抜ける。
煉瓦造りの豪邸のチェリーの扉をバッテリング・ラムが貫くと、ゴヤが描いたサトゥルヌスが現れる。知った事である。
その時になって、ロレンツォは気付いたが、ギリシャ神話だとクロノスだとしても、名前がはっきりと違う。サトゥルヌスはサトゥルヌスで、クロノスではない。
絵のことを尋ねられれば、そう言える。
この絵は、この家の住人と会話した者にだけ意味を持つジョークだったのかもしれない。
SWATが次々と部屋を掌握していく中、ナバイアはカーテンを大きく開けた。
ジョールが死んだ今、もう何の気兼ねもないのである。
カーペットをめくり、棚を倒したのはハンク。クローゼットの中の服も放り出す。
捜しているのは、パニック・ルームかシェルター。
金持ちがやりそうな遊びである。
ナバイアとハンクの破壊行為は、まもなく床の小さな扉を、三人の目の前に曝した。
重いウォールナットのデスクと厚いベルギー絨毯の下に、ひっそりと隠れていたのである。
ロレンツォは、無線でSWATを呼び寄せた。

扉を引き開け、SWATが水の様になだれ込むと、まずはロレンツォが続いた。
ジョールから葉書を受け取った彼が、態度でその権利を主張したのである。
次に足を進めたのはハンク。それは、ジョールを追い続けてきた彼の当然の権利。
タフな彼が、空いた片手にスミス&ウェッソンM39を握ったのは、絶叫が聞こえたから。
SWATのせいではない。銃声はなく、ただ声だけである。
しかし、時折、混ざるドラマチックな会話に、リアリティはない。緻密に演出された、明らかなフィクション。
小さく笑ったナバイアは、しかしシグ・ザウエルP220を握り、ハンクの後に続いた。

三人が降り立った世界は、普通に豪華な地下室だった。
SWATが分かれて進むのは、何列も並ぶ棚の間。
食料品が山の様に並ぶのは、外出を嫌ったのか、シンプルにシェルターなのか。
そして、奥へ。
部屋は一室ではない。
SWATが順に制圧していく部屋に、三人は遅れて足を踏み入れた。
最初にロレンツォが見たのは、家具の一つもない部屋。
壁には無数の額縁。
揺れながら近寄ったロレンツォは、一つに顔を近づけると、すぐに目を背けた。
高そうな気もするが、悪趣味な絵である。
ハンクとナバイアは、ロレンツォの後ろで銃を手にしたまま待った。
エラがいないのは分かり切っているから。
これは、ロレンツォのウイニング・ランなのである。

次の部屋にも、やはり家具はなかった。
壁は落書きの山。小さな文字で埋め尽くされている。
ロレンツォは、揺れながら壁に近付き、内容を読もうとして、すぐに断念した。
理性を破壊しそうな文字が幾つか目に入ったのである。それは、文字に力があるということ。
その次の部屋は、足の踏み場もなかった。
雑誌が散らかっているのである。切り抜きも見えるが、目に付いた写真には不快感しか持てない。古い人間なら、悪魔的と呼ぶ類。

ロレンツォは、確かに疲れた。
全てが、インターネットに初めて触れた夜ぐらいのグロテスク。本能のまま。
それが、金持ちの一人暮らしということである。

そして、次の部屋。ロレンツォは、ベッドを見つけた。
古そうだが、不潔には見えない。
特に違和感を持たなかったロレンツォは、隣りの部屋に移った。そこにもベッド。
その隣りの部屋にもベッド。
また、隣りもそう。ベッド。
ベッドだらけ。
本当にシェルターだとしても、あまりに多い。
やはり、銃を構えるハンクの前でベッドに近寄ったロレンツォは、古いシーツの臭いに気付いた。
鼻を軽く押さえた彼が感じたのは、見たことのないデボラ。
アップルビー先生によれば、ジョールは、父親のためにここを離れなかったと言う。
何処かにある筈の陰惨な事件の現場は、ここかもしれない。
ロレンツォは、動けないデボラが見たかもしれない天井を見上げた。
スピーカーの絶叫は途絶えない。この部屋で、かつて、似た様な声が響いたかもしれない。
皆のイヤホンに明るい声が入ったのは、まさにその時である。
「女の子を発見した。」

ロレンツォは、松葉杖をつき、一歩ずつ先へ進んだ。
ナバイアとハンクも、ロレンツォに倣う。
主役の登場を待つSWATの群れる扉が目的地である。大した距離ではない。
間もなく、揺れるロレンツォが、扉の向こうに見たもの。
それは、枯れかけたバラに囲まれたエラ・ベイリー。
写真だけで知る彼女。
プルシャン・ブルーのベルベットで飾られた部屋。同じ色のソファに座るエラは、壁一面の大画面に映る映画を見ていた。
絶叫の音源はそれ。
エラは薄着なので、どこにもケガがないことは一目で分かった。手足を拘束されている訳でもない。
一番の問題。
マディソンにどことなく似たエラは、居並ぶSWATに、全く動じることなく、映画を見続けているのである。
この世の全てを知っている彼女には、何も怖いものはないのかもしれない。
ロレンツォの頭に、ある日のナバイアの言葉がフラッシュ・バックした。
“もしも、犯人がクロノスなら、エラは死んでいてくれた方がいい。”
首を傾げたロレンツォは、ジャケットを開き、IDを見せた。
「連邦捜査官のロレンツォ・デイビーズです。あなたの名前は、エラ・ベイリーですか。」
SWATも口にしたに違いない質問だが、それがルーティンである。
エラは、映画から目を離すのを躊躇ったが、それでもロレンツォの方を何度か見た。
涙ぐんだのはナバイア。
感動ではない。それは心が痛かったから。
エラは、どこかが壊れている。
ジョールのせいなのか、ベイリー家のせいなのか。
とにかく処理しきれない感情が、優しいナバイアを襲ったのである。
エラを知るハンクは、銃をしまうと、ただ一人、彼女に近付いた。
ゆっくりと隣りに座り、ソファのかたちを変える。
さすがに視線を向けたエラに微笑んだハンクは、大画面のスクリーンを指さした。
見逃せないシーンを教えた。そんな素振りである。
趣味が通じたと思ったのか。
それまで表情のなかったエラは、ハンクに向かって微笑んだ。
その笑顔は、少し背の高い中学生の女の子の笑顔だった。
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