第6話 涅槃(6)

文字数 3,211文字

ロレンツォとナバイアは、ジョール邸の捜索で今日の捜査を切り上げ、宿に入ることにした。
関係者との顔合わせは済んだので、二人の流儀として、決して間違えてはいない。
ロレンツォが選んだ、商店街にあるこの町唯一のホテル「ソル」は、古い木造の二階建て。
一見、ホワイトなのは街並みに合わせたのだろうが、明らかに色褪せている。選択肢が他にあれば、プライベートでは決して泊まらない。
カーペットを擦る重い扉を開き、壁紙に染みついた食べ物の香りに迎えられた二人は、真っ直ぐにフロントを目指した。
コンシェルジュは、禿げ頭の細身のコケージャン。宿の名と違い、ヒスパニックではないので、その時点で退屈。全てが中途半端と言っている様なものである。ロレンツォは、取敢えずの笑顔をつくった。
「連邦捜査局のデイビーズとハウザーだ。」
それが客の時のロレンツォ。
扉を開いた時から笑顔で待ち構えていたスヌーピーは、しかし表情とは程遠い枯れた声で二人を歓迎した。因みに、ロレンツォとナバイアは、外見に共通の特徴を持つ男性をスヌーピーと呼ぶ。
「ようこそ。お待ちしていました。」
レジストレイション・カードとペンを受け取ると、ロレンツォは、縦長の密な筆記体で、ルーティンにとりかかった。スヌーピーが喋り続けている内容は、インターネットの情報と変わらない。
隣りでロビーを見渡すナバイアの視界には、客は映らない。用意してくれた二階の部屋は一番人気の部屋らしいが、急な予約でその部屋がとれた時点ですべてが分かる。
ロレンツォがカードとペンを返すと、スヌーピーは今までと同じ調子で、二人にとって、下らなすぎる質問を口にした。
「ベイリーの?」
この狭い町では、既に公然の秘密である。二人がその場を去らない理由は、スヌーピーがキーを渡さないから。軽い拷問である。
「何かご存じなんですか?」
ロレンツォがビジネス・トークに入ると、スヌーピーは目を細めた。
「私が何か言ったと誰かに言いませんか。」
スヌーピーの勿体ぶった口調に、ナバイアの視線もフロントに戻った。但し、使い古した呪文を唱えたのはロレンツォである。
「情報提供者の不利になる様なことは言いません。どんな小さなことでもいいから、知ってることがあれば聞かせて下さい。」
スヌーピーが視線を移した先のナバイアは笑顔。信頼したスヌーピーは、ゆっくりと頷いた。
「クロノス事件を知ってますか。」
ロレンツォとナバイアは顔を見合わせた。この調子だと、町の全員から同じことを言われそうである。ロレンツォは、このパターンの答えを決めた。
「その事件は別の班が捜査中です。ベイリー夫妻と直接関係する情報がなければ、担当から改めて連絡させますが。」
スヌーピーの気まずそうな顔に出会うと、ロレンツォは心の中で微笑んだ。スヌーピーを封じるのに成功して、素直に嬉しかったのである。ロレンツォは言葉を続けた。
「話がない様なら、僕からも質問です。」
スヌーピーが愛想笑いを返すと、ロレンツォは質問を続けた。
「この町のお薦めのレストランは?」
スヌーピーはロビーの一角の喫茶スペースを指さしたが、ロレンツォは顔を横に振った。
慣れているのか、スヌーピーの指は、流れる様に向かいのレストランを指さした。

ソルの窓から見えたレストラン「ルナ」の外観は、ソルとほぼ同じ。どう考えても、オーナーは同じである。
それでもロレンツォがソルを出たのは、やはりスヌーピーが今一好きになれなかったから。あるいは、窓から見えたウェイトレスのプラチナ・ブロンドが美しかったからかもしれない。
ロレンツォとナバイアがベルを鳴らしながら店に入ると、幾つかの顔の向きが変わった。
そのうちの何人かは知った顔。州警察のクルス達である。余所者が夕食を求めると同じ場所に辿り着いてしまう。きっと、この町はそんな町なのである。
流れていた音楽は、遠い昔に聴いたフランキー・ヴァリ。
ロレンツォとナバイアは、しかし、エントランスから見て、クルス達とは逆方向の席に向かった。相手は、壁をつくったクルスなので、自然な選択である。
ボックス席のワイン・レッドのソファに腰かけると、ブロンドのウェイトレスが近寄ってきた。さっきの彼女である。間にガラスがないと、巻いた髪がより一層輝いている。
ロレンツォは、窓の外に目をやり、ソルのフロントのスヌーピーを見た。さっきまで、あの空間にいた自分達は確実に不幸である。
トロピカルな香りから遅れてバニラ。
それは彼女の香り。
微笑んだロレンツォは、しかし、次の瞬間、明らかな違和感を持った。
それは、このウェイトレスの一言目のせいで間違いない。
「ベイビー、聞いて。うちの店に今事件が来てる。」
ロレンツォは、無意識に小さく息を吸った後、ウェイトレスのダーク・ブルーの瞳を見た。
「いらっしゃいませは?」
ウェイトレスは目を輝かせたが、店員の義務は果たさなかった。
「あそこに州警察が来てるの。嘘みたい。シックよ。」
ロレンツォを見ながら笑ったナバイアは、大きく動いて、ウェイトレスの視線を自分に向けた。
「そりゃあ嘘みたいだ。俺達は連邦捜査官なんだ。君の名前は?」
小さく驚いたウェイトレスは、二人の装いを観察した後、ナバイアが取出したIDカードを見ると、小さな壁を越えた。
「マヤ・ルチェスク。それで?」
名前を聞き返されないのは、捜査官の宿命である。
適当に頷いたロレンツォが、マヤが小脇に抱えていたメニューを渡す様に手で促すと、マヤは自分の仕事を思い出した。まずは客にメニューを渡す。但し、話しながら。
「向こうに移る?話があるんじゃ?」
マヤに気を使われると、ロレンツォとナバイアは顔を見合わせて笑い、メニューに目を通した。
「彼らが頼んだものは?」
ロレンツォの質問に愛想笑いを浮かべたマヤは、言い慣れた答えを口にした。
「皆、同じよ。タコス・デ・パストル。この店のアルファよ。」
ロレンツォは、ナバイアを見ながら答えた。
「じゃあ、それ以外にしよう。お薦めは?」
ナバイアが小さく笑うのを無視して、ロレンツォはマヤの瞳を見つめた。
きっと、この店に出会えたのは、彼らにとっての小さな幸運。
軽薄に見える彼女は明らかに住む世界が違うが、その美が鑑賞に値することは誰も否定しない。男二人の出先の夜には、確かなセレンディピティである。
他人の軽い悪口を聞くと、人は笑ってしまう。今のマヤの笑顔はそのぐらい。
「店のベータはタコス・デ・ギサドだけど、私が好きなのはバナナ・モカ・パイ。」
マヤは、反応の鈍い二人のために駄目を押した。
「私はそれが美味しいと思ってるわ。」
顎を小さく上げたロレンツォは、ナバイアに確認せずに、注文を口にした。
「じゃあ、それとホット・コーヒーを二つずつ。」
甘いものが好きではないナバイアは不満の色を覗かせたが、ロレンツォはナバイアからメニューを取り上げた。
「腹が空いてる。大至急で。」
メニューを受け取ったマヤは、二人に背中を見せると、後ろ手に右手の人差し指と中指をクロスさせた。
「五秒で持ってくるわ。」
それらしいウォーキングでその場を去るマヤを見送りながらロレンツォは微笑んだが、ナバイアは違った。
「夕食にバナナ・モカ・パイ?」
彼にとっては、事件なのである。香水の香りと共に笑顔が薄れたロレンツォは、スマートフォンを手に取りながら、ナバイアに適当に答えた。
「マヤに失礼だ。付き合えよ。」
酒を飲みたいぐらいだったナバイアを無視したロレンツォが調べているのはクロノス事件。町の誰もが口にする事件である。
事件の資料を取り寄せるのは簡単だが、今必要なのはハード・コアではない。町の噂の源、巷の空気を知ることに意味があるのである。
スマートフォンにコンマ一秒で表示されたクロノス事件のページ数は、疲れる程多い。
その内容だが、一つ目のサイトの画像を見て、気分を害したロレンツォは、隣りにスマートフォンを滑らせ、頼れるバディを道連れにした。
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