第3話 涅槃(3)

文字数 2,923文字

家に入るクルスの背を見送ると、ロレンツォは、閉まったばかりの扉に向かって口を開いた。
「他人の話の途中で、あれはないね。」
ハンクは、本当に全く気にしていない。
「あいつにはもう話したからいい。」
つまり、それがクルスの反応の理由である。車道を通り過ぎる車を見送ったロレンツォが目で話の先を促すと、ハンクは話を続けた。
「犯人はジョール・コーエンだ。」
初めての町で名前だけ言われても、何も分からない。ロレンツォは、彼の中の常識的な言葉を返した。
「どこの誰?」
それはハンクの期待した返事である。
「この町で起きたクロノス事件の犯人だ。十九年前だ。」
ロレンツォも事前に聞いていた情報の一つである。但し、昔話の域で、そういう事件があったという程度。ロレンツォは、目の前の物知りの次の言葉を待ち、ハンクはその期待に応えた。
「死んだのはチッピー二人だ。担当は俺だったが、とにかく最悪の事件だった。猟奇的ってやつだ。」
ロレンツォは、何となく周囲を見た。人に聞かれたくない話である。
「随分、早く出られるんだな。」
ハンクは、体重をかける足を変えてから口を開いた。確かに彼の体はでかい。
「捕まってない。奴の名前は最初に挙がったがな。アリバイがあった。一緒に住んでた父親のヘルムート・アスマンが譲らなかった。」
父親とファミリー・ネームが違うのは、不幸な子供に珍しいことではない。但し、無視は出来ない。
「養子?」
「いや。」
ハンクの返事は早いが、問題は解決していない。ロレンツォは、取敢えず、話の先を促した。
「それで、その男と今回の事件がつながる理由は?」
ハンクは軽く頷いた。
「置き手紙だ。使ってる絵葉書が、クロノス事件と同じ絵だった。今回のメッセージは知ってるだろう。」
それは聞いている。
“探すな。”
エラ以外の筆跡で、そう書かれた絵葉書が置いてあった。
絵は、ゴヤが描いた我が子を食らうサトゥルヌス。サトゥルヌスは、ギリシャ神話で言うクロノスである。
悪趣味の極み。
ロレンツォは、正確を期する男である。
「確かに、クロノス事件の犯人が、今回の犯人かもしれない。ただ、ここだと有名な事件だ。模倣犯の線もある。」
ハンクは顔を歪めた。
「ジョールがやったんだ。」
ロレンツォは、クルスがこの場を去った理由を正確に理解した。一度話を聞いたからというだけではない。ハンクは、クロノス事件に深い思い入れがある。ある種の面倒なタイプである。
関係をこじらせる程、馬鹿ではないロレンツォは、やはり話の流れに沿う道を選んだ。
「それでクロノスと言うのは何。」
ハンクは、当然の様に頷いた。目は笑っていない。
「ジョールはガキの頃にヘルムートの△△△△を切って捕まってる。その時にあだ名がついた。」
警察の話題に上って然るべき人物である。ロレンツォは質問を重ねた。
「あだ名がクロノス?」
「そう、クロノスだ。ヘルムートは訴えなかったが、ジョールは頭の病院に入った。」
犯人の臭いがきつ過ぎるが、ロレンツォは大きな間違いを見つけた。
「今更だけど、捕まらなかったんだろう。容疑者のあだ名で事件を呼ぶのはなかなかだ。」
ハンクは、首を傾げた。
「チッピーが殺された時、テレビがそう呼んだ。勿論、ジョールの名は出さなかったがな。地元の人間は、全員、ジョールだと思った。ジョールは、女に近付きもしなかったから、最初は驚く奴もいた。それでも、二、三日もすると、犯人はジョールで決まりだった。」
結局、捕まっていないのだから、決まっていない。この話題を続けていいのか、僅かな不安を感じたロレンツォは、改めて、周囲を見渡してから口を開いた。
「ミスター・アスマンは?」
ハンクの答えは、待っていた様に早かった。
「ないな。あいつは女にはだらしないが、いい奴だった。金持ちだしな。」
ロレンツォは、見たことのないジョールに少しだけ同情した。
「子供が二人も殺せば、隠し通せないだろう。ジョールを疑うなら、ミスター・アスマンも何か知ってると考えるべきだ。」
ロレンツォを見るハンクの目が、ゆっくりと驚きの色に染まっていく。
「お前、本気か。お前にあの家の何が分かるんだ。」
それはロレンツォのセリフであるが、おそらく、ロレンツォはこの町の常識を壊そうとしている。アナーキーな臭いに、目の色が曇り始めたロレンツォの前で、ハンクは言葉を続けた。
「一年前、ヘルムートが死んだ。どっちにしろ、もうこの辺りで怪しいのはジョールだけだ。ジョールを捕まえりゃあ、全部解決する。」
ハンクの鼻息は荒い。ロレンツォは、これ以上の会話を避けるために、何度か頷いた。
「あくまで可能性のレベルだけど、貴重な情報だ。覚えておく。」
ハンクは、少しだけ声量を上げた。
「ジョールを捕まえりゃあいいんだ。」
動かないロレンツォが態度で呆れたことを示すと、ハンクはスマートフォンを取出し、一人の男の顔写真を出した。
見せられれば見る。当たり前の反応をしたロレンツォは、無表情のまま、ハンクの顔を見上げた。
「若い頃のブラッド・ピッド?じゃなきゃ、デル・トロ?」
ハンクは、笑いもせずに言葉を続けた。彼にもそう見えているということである。
「随分前から奴の趣味は整形だ。今、この顔かはもう分からない。ヘルムートが死んだ後、すぐにいなくなったからな。」
狂人と何処かですれ違う静かな不安にロレンツォが眉を潜めると、ハンクは一言付け加えた。
「指紋も消してるぜ。」
ロレンツォは、少しだけ顎を上げた。
「ジョールは、人生のすべてを奪われたのか。」
人に見つからないということは、それまでのすべての縁を切るということである。確かな記憶のあるハンクは、大きく頷いた。
「この町はそのぐらいのことを奴にやった。あいつは町を恨んでる筈だが、誰も後悔しちゃいない。何か事件が起きれば、あいつがやったと思う。俺達にしたら、自然な流れだ。」
その流れは危険である。ロレンツォは、窓から自分達を見るクルスに気付いたが、ハンクのために口を開いた。
「絵葉書が証拠と言うなら、クロノス事件の犯人を追ってもいい。でも、君の言う通り、ジョールは怪しいが、十年以上捕まってないんだろう。この機に変に張り切らないで、まずは、今回の事件に絞って、一から調べる方がいい。」
ハンクの目は納得していない。ロレンツォは、年長者と対峙するために、背筋を正した。
「念のために、基本ルールを言っておく。この国は毎日三千人の子供が行方不明になってる。殺人事件は、大人を含めて、毎日五十人。実は家出なんて淡い期待はしない。皆、死体が出ないから無視されてる。毎日、何千人も。連続殺人犯が、ダイナーで隣り合うぐらいの国だ。そこで、若い僕らが二人だけで来た。この時点で、被害者がもう死んでる普通の誘拐だ。少なくとも、上はそう見てる。憶測で動いて、無実の誰かを苦しめる様なことだけは避けてほしい。焦らず、着実に犯人に辿り着くんだ。」
ロレンツォとハンクは暫く見つめ合ったが、間もなくハンクは小さく頷いた。言葉はない。きっと、ハンクは、目の前の若者がそこそこの大人であると理解したのである。
ロレンツォは、自分に合わせてくれたハンクに軽く微笑むと、悲しい家に向かって、足を進め、大きくドアを開いた。
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