そして僕は彼女と会った その1

文字数 2,030文字

 神奈川県藤沢市にある藤沢本町と云う駅の踏切の陰で、僕はひとりの女性を待っていた。
 その人は、陽が落ちて一時間以内に相模大野行きの各駅停車に乗ってきて、この藤沢本町駅で降りるのだそうだ。
 その女性が降りたのを確認したら、僕はその女性に気付かれないよう後を()け、人気の無い暗がりに来たところで、ジャケットの内ポケットに潜ませたナイフで、その人を刺し殺す手筈になっている。

 僕が暫くそこで待っていると、聞いた通りの女性が僕の目の前に現れた。大体時間通りだ。彼女は改札を通り、僕の脇を擦れ違う。この時、何か甘い花の香りが僕の鼻を擽った。
(信じられない。じょ、冗談だろ?)

 その女性は、駅を出ると左に曲がり、商店街の通りを東へと歩いて行く。僕は狐にでもつままれたかの様に、ただ呆然と立ち尽くしていたのだが、暫くして自分を取り戻し、急いで彼女の後を追いかけた。

 彼女は足早に、本町の商店街を脇目も振らずに歩いて行く。そして商店街を抜け、国道へと出ると、そこを左に曲がり、白旗神社の方角に歩いて行った。僕は距離を少しおいて、彼女を見失わないよう、さりげなく後を()けて行く。
 彼女は、白旗神社の前の信号を渡って、そのまま進み、神社と隣の御殿辺公園の前を通り過ぎ、藤沢市民病院の前で再度道を曲がった。
 全て予定通りである。
 そうして、この女性は比較的人気(ひとけ)のない道路へと入って行った。そこは、それなりの道幅こそあるが、藤沢にしては明かりも少なく、人殺しをするとしたら、いかにもと言えるような場所であった……。

「待て、耀公主(ようこうしゅ)!」
 彼女が路地の角を曲がった時、僕は依頼人に教わった通りの台詞(せりふ)で、彼女を後ろから呼び止めた。
 この女性は耀公主という名なのだ。
「耀公主?」
 その女性は、反射的に僕の方に振り向いた。その拍子に、彼女の肩まで伸びた髪が、カーテンのようにサラサラと流れていく。
「とぼけるな! お前の正体は、恐ろしい妖力を用い、夜な夜な男の唇を奪い、人間の生気を吸い取る邪悪な妖怪、耀公主だろう!」
 彼女は、最初怪訝(けげん)そうな表情を浮かべていたのだが、直ぐに落ち着きを取り戻し、面白そうに僕に答えた。
「色々と誤解があるみたいだけど……。そうね~、まず私、キスするのは、男の人にだけじゃないのよ」
「だ、黙れ!」
 僕はそう叫んでいた。でも……、僕の頭の中では、繰り返し繰り返し、別の台詞が渦を巻いていたのだ。
(否定しない!)
(この人は否定しないぞ!)
(本当に、こいつ、妖怪なのか?!)
「一方的に声を掛けておいて、『黙れ』って、あなたって我儘ねぇ。耀で間違いないけど、あなたは誰? 耀公主なんて呼び名で呼ぶなんて。普通の人じゃないわね。あなた光臨派なの? だったら、少し懲らしめちゃうよ……」
(この人、耀公主を認めた……)

 彼女が妖怪と思った途端、僕はチビりそうな恐怖と興奮のあまり、彼女の軽口も、もう耳に届かなくなっていた。
 そして、その時の僕の行動は、もう勇気と言えるものではなく、プログラミングされた命令をただ実行するだけの、ロボットの動きに他ならなかった……。
「黙れ、黙れ、これは降魔の利剣。聖なる剣の前に滅びるがいい!」
 裏返った声で、決められた台詞を叫びながら、僕はやくざ映画のように両手でナイフを握りしめ、無我夢中で体ごと彼女の方へと突進していったのだ。
 そうすれば、自信過剰のその妖怪は、降魔の利剣を避けようとせず、その攻撃を敢えてその身に受けるだろう。そうなれば、その聖なる力の前に邪悪な体が耐えられず、苦しみ悶えながら、この恐ろしい妖怪は消滅する!

 あの怪しい男は、僕にそう説明した。
 しかし、気が付いた時、僕の目の前には彼女の姿があり、僕の肩には華奢な彼女の両腕が乗せられていた……。
 それだけなのに、僕は身動きも抵抗も、もう何もかも出来なくなっていた。そして降魔の利剣と称したナイフは、薄氷がレンガの壁にでもぶちつけられたかの様に、彼女の腹に当たって粉々に砕け散っていたのだ。
「それ、偽物よ。でも……、もし本物だったとしても、到底、そんなものじゃ、私には通用しないけどね」
 耀公主と称した女性は、そう言いながら、少しだけ笑みを浮かべ、僕を見下す様に見つめていた。
 ヒールを履いていても、彼女の背丈は僕と同じくらいだ。だが、それなのに、その時の僕には、自分の方が完全に見下ろされている様に感じられた。
 耀公主は、僕の肩に置いていた右の手をゆっくりと楽しむ様に僕の顎に持っていき、少しずつ僕の顔に自分の顔を近づけていく。
 そして、彼女の唇が僕の口に触れた時、強く押さえつけられている訳でもないのに、僕は、この女性には、もう、何も、出来なくなっていることを、完全に、悟ったのだ。

 だが、朦朧(もうろう)と、薄れいく意識の中で、僕は誰かの声が響くのを、この耳で確かに聞いていた。

「油断したな。そいつは単なる当て馬だ。この鞭で首を絞められた貴様は、最早、能力を使うことも出来はしまい!」
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