消えた耀公主 その1

文字数 1,942文字

 一時間近くもの間、僕は八角縁堂で彼女が戻るのをずっと待っていた。だが、何時まで待っても彼女は帰って来ない。いくら彼女が無敵の耀公主とは云え、僕だって心配にならない訳はなかった。
 意を決した僕は、籠っていた八角縁堂から外へ出て、彼女を探しに行くことにしたのだ。

 僕が堂の扉を開いて外を覗くと、もう何事も無かったの様に辺りは静まり返っている。
 八角縁堂の周囲、広く開けた場所には、もう一匹の虫の死骸も落ちてはいない。そこは、只、強い日差しが照りつけ、蝉の声がハウリングして響くだけの、どこにでもある真夏の山寺の風景そのものだった。
 こうして、暫く辺りをウロウロと歩き回っていたのだが、光臨派本山の構造を知らない僕は、結局、外へ出たのは良いが、どこが庫裡(くり)なのかも分からず、無意味に徘徊するしかなかった。
(どこを探せばいいのだ?)
 僕は早々に途方に暮れた。

 丁度その時、左手の方からあの老僧、光臨派操舵主がやって来る。僕は渡りに船と、老僧に彼女の行方を尋ねてみることにした。
「あの……、お坊さん、彼女は、今どちらにいるのでしょうか?」
「何じゃ、お前さん、まだ居ったのか。公主殿なら、もうとっくに帰られたぞ。お前さん、公主殿に何かしたのかな? 一人で帰れとの仰せじゃったぞ」
 操舵主は驚いた表情で、彼女が見当たらない事情を僕に説明した。
「ええ? いくら何でも酷過ぎますよ! こんな、どこに在るかも分からない山寺から、僕に一人で帰れなんて……」
「仕方ないのう。お前さんの家の近くまで、儂が車で送って行ってやろう。JRの藤沢駅で良いのじゃろう? あそこなら、儂らも良く知って居るからのう」
 僕は老僧の善意に感謝し、その好意に甘えることにした……。
 だが、僕は老僧の言葉の中にある矛盾に気付くべきであった。
 操舵主は「一人で帰れ」と、公主から(ことづか)っていた。それなのに、その言葉を僕に伝えていないにも関わらず、「お前さん、まだいたのか」と態とらしく驚いているのだ。もし驚くのであれば、「お前さん、(ことづけ)を、誰からも聞いては居らなんだのか?」と言うべきだ。
 これは、彼が偽りを口にしていた明確な証拠に他ならないのだが、差し出された救いの手を疑うことなど、途方に暮れていたその時の僕には、出来はしなかったのである。

 老僧に言われた通り、その場所で少し待ち、僕は彼が用意してくれた車に乗り込んだ。
 光臨派の車は黒のリンカーン。作務衣姿の修行僧が運転手を務め、僕の両脇を固める様に二人の修行僧が後部座席に陣取っている。恐らく、何かあった時、僕に抵抗されたり逃げられたりしない為だろう。
 少なくとも、光臨派はまだ彼女と敵対する関係の様だし、その辺は仕方ないことだと僕は考えていた。
「済まんのじゃが、目隠しもさせて貰うぞ。色々あるのでな……」
 老僧はそう言いながら、僕の左に座った修行僧に指示し、僕に目隠しをさせた。取り敢えず、家に帰れるなら、そのくらい大した問題ではないと、その時、僕は何も不満に思わなかった。このことについて、後に少なからず僕は後悔する。せめてマスクの隙間から、道路脇に、どの様な建物があったか程度の覗き見は、最低でもすべきであったのだ。

 体に感じる振動と蝉の鳴き声から、車は夏の里山を抜け、単調な舗装道に入ったことが分かる。だが、その後、疲れもあってか、目を閉じさせられていたせいなのか、何時の間にか僕は、車の中で寝てしまっていた。
 そして、そこで僕は夢を見た。不思議なもので、僕はそれが夢だと何となく分かったのだ。

 彼女と老僧が、暗い部屋で何か話している。
『相変わらず遣り口が汚いな』
『嘘も方便と言いますでな。あなた様を生き仏とする為なら、多少の汚い手も使わせて貰いますじゃ』
 何を言っているんだろう?
 彼女が、バアルゼブルを生き仏とか何て言うから、変な夢を僕が見るんだ!
『私がこの部屋に入れば、マサシを無事に返すのだな!』
『勿論ですじゃ。あんな弱そうな青年、残したところで、何の役にも立ちはしませんからな。お約束は守りましょう』
『では、入ってやっても良いが……。私は直ぐに逃げ出すぞ』
『出来ればどうぞ。ですが、この部屋の壁はウィシュヌ太子の残した秘宝で出来ております。如何な耀公主とて、簡単に逃げ出すことなど、出来はしませんのじゃ』
『さて、少しは面倒かな? 生気の補給も行っていないし。ところで、お昼はどうやって受け取ったら良いのだ? あとトイレは、ちゃんと中にあるのだろうな』
『その様なもの必要ありますまい。あなた様は、ここで円寂を迎えるのですからな。ではお入りください。約束ですよ……』
『いいだろう』
 夢の中の暗い部屋で、公主は隣の部屋のドアを開けて入って行った。何なんだ、一体この夢は?
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