第42話 母とおばあちゃんとピアノ曲

文字数 4,738文字

ある日曜日の午後、中村家の三人、おじ、おば、愛の面々は自家用車で遊園地に出かけていた。加奈は一人で留守番をするように言われた。おばが夕食は外で食べてくるから用意はしなくていい、一人で勝手にご飯を作るなりしておけといわれていたので洗濯機をまわし、家の掃除をしていた。掃除機をかけているとドアのチャイムが鳴った。誰だろうと掃除機を止め玄関に急いだ。



「まあ、加奈ちゃん。こんにちは。元気にしてた?」

ドアを開けてそこに立っていたのはおばあちゃんだった。加奈を見てとるなり満面の笑顔を向けた。こんにちはと加奈も笑顔で挨拶しおばあちゃんを中に通した。いつものニコニコしたおばあちゃんの笑顔を見ると加奈はとても安心した気持ちになる。おばあちゃんといると心が温かくなってこの家にいる時、唯一安らげた。



加奈は掃除を中断しておばちゃんにお茶を出した。おいしいお茶だね、ありがとうとおばあちゃんは居間のソファーに座りお茶をすすった。

「他の皆はどこか出かけてるのかい?」

おばあちゃんが周りを見回して訪ねた。加奈は正直に話せばどうなるだろうかと考えた。もし遊園地に加奈ひとりを残しておじたちが出かけたと知ったら、おばあちゃんは落胆するのではないか。おばあちゃんは自分の家族を心から愛しているようだし自慢できる家族だと誇りに思っていた。



おじもおばも愛もおばあちゃんには愛情があるようには接していたし、おばあちゃんはそれを疑うことなく信じていた。彼らの裏の悪魔のような本性には気づいていないだろう。愛していた家族が実はどうしようもない本性を持っていると知ったらきっとおばあちゃんはショックを受けるに違いない。加奈はこの優しいおばあちゃんが悲しむ姿は見たくなかった。そんな姿を見てしまったら自分までも辛くなるだろうと思った。だから加奈は嘘をついた。



「うん、どこか買い物に行くっておばさんが言ってたよ。少し夜遅くなるって。」

「まあ、夕ご飯時には帰ってくるのかい?」

「・・えっと・・・。」



言葉に詰まった加奈は話をそらすように部屋を出ながら言った。

「あっ、いけない洗濯物干さなくちゃ。」

居間を出て洗濯物を干し終え、おばあちゃんのいる居間に戻った。おばあちゃんはゆったりとソファーに腰掛けて、加奈とたわいない話をした。この家の暮らしにはもう慣れたかや新しい学校では友達ができたかなどニコニコと笑顔で加奈に質問してきた。



加奈はおばあちゃんと会話するのが楽しかった。加奈の話すことを笑って頷きちゃんと聞いてくれるので、気持ちが弾み自然と加奈の話す言葉は滑らかになった。

「加奈ちゃん、お母さんを早くに亡くして辛いだろうし、無理しなくていいんだからね。何か困ったことや辛いことがあったら遠慮しないでおばあちゃんやおじさんたちに言うんだよ。私たちにはたいしたことしかしてやれないだろうけれどね。」

「おばあちゃん・・・」



優しく諭すように話しかけてくるおばあちゃんの言葉に加奈は胸が熱くなった。今にも泣き出してしまいたい気持ちになりおばあちゃんに抱きつきたい衝動を抑えた。そんな気持ちを察したのかおばあちゃんが立ち上がって加奈のほうにやってきてそっと加奈を抱きしめてくれた。加奈は涙ぐみ、鼻をすすった。よしよしと小さな子供をあやすように加奈の頭を撫でてくれた。



 加奈がほろりと涙して落ち着いた頃、おばあちゃんがトイレに席を立った。加奈は涙で濡れた目をして、居間で一人ソファーに座りぼんやりしていると、昔母が生きていたときのことを思い出した。おばあちゃんが加奈の孤独や辛さを受け止め抱きしめてくれたことで母に抱きしめられた時の記憶を思い出した。



加奈が昔住んでいたアパートでピアノを弾いていると母が後ろから加奈を包み込むように抱きしめて一緒にピアノを弾いた。背中に感じた母のぬくもりや温かさを加奈は今でもはっきりと鮮明に思い出せた。ふと居間の隅に置かれたグランドピアノに目が留まった。いつも愛が弾いているグランドピアノで、加奈が触れることを愛やおばがひどく非難し触ることを禁止されていた。



以前加奈が何気にピアノの蓋に初めて指先を触れた時、それだけのことで、よそ者、居候の分際で、高価なピアノに触る資格はないのだと言われた。ソファーから腰をあげピアノに近づきそって手で触れた。

「あら、加奈ちゃん、ピアノが弾けるのかい?」

いつの間にかトイレから戻っていたおばあちゃんに声をかけられ加奈は思わずピアノにかけた手を引っ込めた。

「す、少しだけなら弾けるよ。」

まだ鼓動を少し弾ませて加奈はしどろもどろになりながら答えた。

「そうか。じゃあおばあちゃんにちょっと聴かせてくれないかい?」

しわを深くしておばあちゃんが笑いかけた。



「え・・・でも・・そんなに上手じゃないし・・。」

突然演奏を聴かせて欲しいと言われ加奈は困惑した。

「ぜひ加奈ちゃんのピアノ聴いてみたいなあ。お願い。聴かせておくれよ。笑ったりなんかしないよ。」

しばらく迷って加奈は頷いた。

「じゃあ少しだけ・・・」



おば、愛は出かけていて夜に帰ってくるだろうし、一度くらい弾いてもばれないだろうし、いいかなと思いピアノの蓋を静かに上げた。椅子に座り鍵盤にそっと手を下ろす。ピアノを弾くのはどれくらいぶりだろう。母が亡くなって以来一度も弾いてなかった。それまでは毎日のように欠かさず演奏していたというのに。ずいぶん久しい事のように感じられた。



ひとつ深呼吸をして最初の鍵盤を押し弾き始めた。母が教えてくれた加奈の大好きな曲、何度も何度も一人で、また母と二人で弾いた曲。大好きなおばあちゃんには加奈が本当に心からこの曲が大好きで大切だということを知って欲しくて、母と過ごした思い出がいかにすばらしいものであったのをわかって欲しくて、たっぷりの愛情をこめてたくさんの真心をこめて弾いた。



しばらくぶりの演奏だったが、鍵盤上の指は滑らかに動いた。演奏をしばらく中断しても、この加奈の体がきちっと弾き方を覚えていたということか、それとも今まで弾けなくて抑えられていた気持ちが開放されたからなのか。ソファーに腰を下ろしたおばあちゃんは目を閉じてただ黙って静かに加奈の奏でる曲を聴いていた。



居間の庭に面した窓からは昼下がりの真っ白な光が差し込んできていて家の中をぼんやりと明るく照らしていた。陽の光の粒子の一つ一つに優しくゆっくりと加奈のつむぎだすメロディーが溶け込んでいくようだった。おばあちゃんが薄く目を細めて演奏する加奈の姿を見守っていた。母も生きていた頃、よく加奈の演奏を黙って温かいまなざしで聴いてくれた事を思い出していた。演奏が終わり加奈は椅子から立ち上がった。



「加奈ちゃん、あなたの弾くピアノとってもよかったわよ。」

おばあちゃんはとても満足そうに微笑んで頷いていった。

「でも愛ちゃんに比べたらそんな上手じゃなかったでしょ?」



大好きなおばあちゃんにほめてもらえてとてもうれしかったが加奈は控えめに答えた。それにピアノ演奏にブランクがあったので、きちんと弾けたと加奈自身が思っても、端からはそうは聴こえなかった可能性もある。しかしおばあちゃんは真顔になって答えた。



「ピアノはね、ただうまければそれでいいって言うものじゃないんだよ。いくら上手でも聴いてる人々の心に何も響くものがなければ人を感動させることはできないんだよ。逆に弾く技術が未熟でも心がこもっていて人に訴えかけるものがあれば人を惹きつけて人の心に深く印象を残こすのよ。」



愛には言えないが正直、加奈のずば抜けてうまくはないけれど聴いているととても優しく穏やかな気持ちにさせてくれる演奏のほうが、愛の上手だけれど心が伴わない演奏より好きだとおばあちゃんは言ってくれた気がした。そこまで褒められるとは思っていなかったので加奈はなんだか嬉しさのあまり恥ずかしくなって頬を紅潮させた。



「加奈ちゃんのピアノを演奏する姿を見たら思い出してしまったよ・・。」

懐かしそうにしみじみとおばあちゃんがそう漏らして加奈は目をきょとんとさせた。

「あなたのお母さんが小さい頃にね、おばあちゃん、彼女に演奏を聴かせてもらったことがあるのよ。」

「え・・!」



加奈は目を大きく見開いて驚いた。幼い頃の母がおばあちゃんにピアノを聴かせてあげたことがあるなんて思いもよらないことで不思議な感じがした。

「おばあちゃんのお友達にピアノ講師をしてる人がいてね。その教室に加奈ちゃんのお母さんが通っていたの。おばあちゃんが聴かせて欲しいって言うとね、うんいいよって、にっこり屈託のない明るい笑顔で今さっきの加奈ちゃんと同じように聴かせてくれたことがあったのよ。いつもニコニコしてただそこにいるだけで側にいる人の心を明るくしてくれるような、小さなお花のような子だったわ。」



おばあちゃんが思い浮かべている遠い記憶の情景に幼い頃の母が浮かんでいるのだろうか、目を細めた。母とおばあちゃんは血のつながりがなかったが遠い親戚ではあった。まさか昔そんなことがあったなんて。母と同じように今おばあちゃんに演奏を聴かせたことは何か不思議な縁があるのではないかと加奈は思った。それに母の温和な人柄は子供の頃から同じだったらしい。



「お母さんのピアノはどうだった?どんな曲を弾いたの?」

「あなたが弾いてくれた曲と同じ、それに加奈ちゃんと一緒でとっても心に残るいい演奏だったわよ。」

ふふ、と笑いを漏らした後、おばあちゃんは言った。

「うれしい・・・私、お母さんと同じようにおばあちゃんに聴いてもらえて・・喜んでくれてとってもうれしい・・・。」



目じりに涙を少し潤ませていうとおばあちゃんがやっぱり親子だねぇと加奈の頭を撫でてくれた。

「ああそうだ、加奈ちゃん、今度愛ちゃんが出るピアノの発表会に加奈ちゃんも出てみたらどうだい?こんなにいい演奏ができるんだから。」

思い出したようにおばあちゃんは加奈に提案した。思いもよらぬ展開に加奈は一瞬動転した。



「そんな・・人に聞かせられるほど私、上手じゃないよ。参加しても多分恥ずかしい思いをするだけだわ。おばあちゃん。」

何年ピアノを弾き続けてるかを聞かれて、小さい時から母に教えてもらってたから五、六年くらいと答えるとそれだけやってれば充分問題はないとおばあちゃんは言い切った。

「おばあちゃんだけにこんなに素敵な演奏を聴かせるだけじゃもったいないよ。音楽に限らず芸術っていうものはね、人に見てもらうためにあるんだから。」



少々大げさに言ってくれてるんではないかと加奈は思っていたし、発表会にはピアノ教室できちんと学んでいて加奈より上手な子がたくさん出るだろうし、間違っても自分なんかが賞をとる事はないだろうと考えた。大好きなおばあちゃんがここまで言ってくれるんだから出てみてもいいかなと思った。愛も出るらしいので彼女がおそらく最優秀賞をとることになることは想像できた。



以前の発表会では彼女が優勝していて、居間にその時の表彰状が誇らしげに飾られている。今年も彼女が優勝候補だろう。万一加奈が愛を押しのけて賞なんかをとったりしたら愛をはじめおじやおばにどんなひどい扱いを受けるかわからない。考えるだけで恐ろしく身の縮む思いがした。だがそんなことはありえない。加奈はそこまで考えて気持ちを整理した上で、答えた。



「わかった、おばあちゃんがそこまで言うなら私、出てみるよ。賞とかは意識しないでただこの私の一番好きな曲をたくさんの人に聴いてもらうためだけにやってみる。」

加奈は決心してそう言った。おばあちゃんもそのほうがいいと満足そうに頷いた。

「そのほうが天国にいるお母さんもきっと喜んでくれるよ。」

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