第21話 あの娘に会いにいくことは正しいこと?

文字数 3,136文字

日曜日の午後、加奈は愛の部屋でぼんやりとしていた。特にすることもなく床に座りこんでいた。お昼にはおばに食事の用意を手伝わされて、おばと愛が食事を終えた後、加奈は遅い昼食をとった。その後洗濯をするようにおばに命じられた。それもやり終えると、おばと愛はリビングでテレビを見ていた。何か面白い番組がでもしているのか、二人ともよく笑っていた。加奈はなんとなくそこには居づらかったので、二階の愛の部屋に来て一息ついていたという事だった。



加奈は重いため息を一つついた。この家にいるだけで何かとおばや愛らにとげとげしく何かを言われるので、ただでさえ母を失って気持ちが沈んでいるのに、いつもぴりぴり強いストレスを感じていて心身ともに疲労していた。初めて来た知らない土地なので、知り合いもいないし行く所もない。せいぜい息抜き程度に近くの公園に行くくらいだった。



重い体を引きずるように立ち上がると、レースのカーテンがかかった窓辺に立った。そこから外を見下ろすと、ちょうど小さな子供を連れた家族が通りかかった。男の子は父親の頭に肩車されていて、女の子は手に赤い風船を持って母親と手をつないでいた。加奈は彼らがこの家の前を通りすぎるのをじっと見つめていた。いいなあ、あんなに嬉しそうに無邪気に笑って・・・大きな不安も恐れることもないんだろうな・・・側に温かな両親がいてくれるんだものね・・・。



ふと女の子がはしゃいでいた弾みに手に持っていた風船をはなしてしまった。女の子はあっ、と驚きの表情をした後、風船を捕まえようとしたが、手が届かない高さにまで空に浮かんでしまった。女の子はひどく悲しい顔になって、そのまま駄々をこねるように泣き出してしまった。母親と父親がなだめようとしていたがなかなか泣き止まない。母親が何か説得するように女の子に話し始めた。女の子は泣くのを止めてじっと母親の話を聞いている。母親は女の子を抱きしめた。



その様子は加奈と母親の姿に重なった。しばらくそうしてから体を離すと女の子は泣いていたのが嘘のように、笑顔で笑っていた。加奈はその光景をもう見ていられず、思わず目を背けてしまった。ひどく切なくて熱いものがこみあげ、胸を締め付けられるのがわかった。窓辺から後ずさろうとした時だった。どこからかピアノの音が聴ここえてきた。



どこから聴こえて来るんだろう。一瞬混乱したが、そうだ、確か一階におばか愛が弾くのか知らないが、グランドピアノがリビングの隅、窓際に置かれていた。誰が弾いているんだろう?しばらく加奈は耳をすませた。そのまま愛の部屋を出て、ゆっくりと物音を立てないよう静かに階段を降りて行った。だんだん音がはっきりと聞こえるようになり、どんな曲を弾いているのかわかった。居間のドアをそっと細く開けて室内を覗き込んだ。



グランドピアノにはおばと愛が椅子に腰掛けて一緒に連弾しいるのを加奈は見た。この曲は確か・・・有名なクラシックの曲だった。加奈の母親も演奏してくれたことがある。じっと彼女らを見つめ、演奏を聴いていて加奈は漠然とだが思ってしまった。二人ともとても上手に演奏している、非の打ち所がない、完成されているような技術に感じたが、それだけだった。ただそれだけ。加奈の心に響いてくるものがほとんど感じられない演奏だった。



こういっては悪いが、加奈の母親のピアノ演奏に比べれば、魅力をほとんど感じられなかった。母の演奏にはいつも大きなゆりかごに揺られているような優しさに満ち溢れていた。聴く人々の気持ちを芯から温かくし、幸せな気持ちにさせてくれるような。母の演奏があまりにも心に迫るものがあり、すごすぎるのでおばたちの演奏に魅力がないと感じてしまうだけかもしれない。



普通の人達がおばと愛の演奏を聴けば間違いなく高い評価を下すだろうか。おばと愛は楽しそうに笑顔でピアノを弾いている。その光景だけはうらやましく思った。加奈もあんな不幸な事故に巻き込まれなければ今頃は・・・彼女らのように母とピアノを弾いていたのに・・。そういえばここ数日加奈はピアノを弾いていない、触れてさえいない。これまで毎日欠かすことなくあのアパートで弾いていた。母が亡くなって弾くことを忘れていたのか・・弾くことを拒否していたのか、加奈にもよくわからなかった。この家にピアノがあったのを知っていたはずなのに、弾かせて欲しいとおばらに頼むようなことを思いつかなかった。



おそらくこの家でグランドピアノを見ても母のことを思い出すだけで、苦しくなるから無意識に避けるように弾きたいという考えは浮かばなかったのだろう。それだけ身についた習慣を忘れてしまう程に加奈はショックを受けて呆然としていたということか。今になって久しぶりに少し演奏してみたいと思った。母との思い出のあの曲を過去の楽しかった情景を浮かべ噛み締めながら弾いてみたかった。まだおばや愛らに言われたわけではないが、おそらく加奈はあのグランドピアノを触らせてもらえないだろう。そういう悲しい予想はすぐに思いつく。



加奈は重いため息をつき、目を閉じた。薄っすらと瞼を上げ居間にある壁に立てかけた鳩時計を見た。もうすぐ午後二時になろうとしていた。もし母が生きていれば今頃はピアノ教室に出かけている頃かな・・と加奈は閉じてしまった未来の一片を想像した。ピアノ教室か・・・何か忘れているような・・今日は日曜日・・・。



「!」



加奈は大事なことを思い出した。そうだ。今日はピアノ教室で母が教えていた女の子と会う約束をしていたんだ。今まで完全に忘れてしまっていた。もう一度時計見た。今から家を出て電車でアパートのあった駅まで行って間に合うだろうか。少し約束の時間を過ぎてしまうかもしれない。



加奈は急いで二階に駆け上がると自分の財布をポケットに入れ、一階に下りせわしなく靴を玄関ではくと家を出た。おばや愛が演奏を中断して何事という感じで加奈が出て行くのをいぶかしんでいたようだが、加奈は構わなかった。その時はもう夢中でせきたてられるように駅に向かっていた。



駆けながら、加奈は考えていた。あの子は母が亡くなったのも知らずに今日もいつも通り母にピアノを教わるためにピアノ教室にやってくるだろう。しかも今回は加奈と会えるのを楽しみにしてきてくれると言っていたのだ。やはりこういう時は加奈自身が、加奈の口から母の訃報を伝えるべきだろうか。母のことを心から慕ってくれていたようなのだから。



色んな思いが心に駆け巡っている内に加奈は駅にたどり着き、アパートのある駅までの切符を購入すると、ちょうど到着していた電車に乗り込んだ。車内の席は埋まっていたので、ドアの手すりにつかまった。乱れた呼吸を整えようと加奈は胸に手をやって落ち着こうとする。



ドアが閉まり電車がゴトンと揺れて動き出した時、ふと思った。おばらの家で約束を思い出して時間に間に合わないと、ここまで急いできたのはいいが、果たしてどんな風に、どんな顔をして母の死を伝えればいいのだろう。本来なら母と加奈とあの子と三人で楽しい時間を過ごすはずだった。



それなのに初めて顔を合わせるのにいきなり辛い事実を伝えねばならなくなってしまった。悲しい出会いだ・・・。あの子は一人ぼっちで母と出会えたことを喜んでいたようなのだ。そんな子に加奈は母の死を告げねばならない、ものすごく残酷なことなのではないのか・・・。



もし今日加奈がピアノ教室に行かなくても、遅かれ早かれいずれあの子は母の死を知ることになる。もう加奈はあの子と出会わない方がいいのではないかと思い始めていた。ここまで来たことを後悔し始めていると、気がつけば電車は目的の駅に到着しようとしていた。
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